第一章 断罪の壇上
シャンデリアの光が、磨き抜かれた大理石の床に千の星をばら撒いていた。
王立学院の卒業を祝う夜会。王宮の大広間には楽団の優雅な調べが流れ、着飾った貴族の子女たちが笑いさざめいている。その中央、一段高い壇上に立たされたセラフィーナ・エルヴァスティンは、静かに目の前の男を見上げていた。
「セラフィーナ・エルヴァスティン公爵令嬢! 余は貴様との婚約を、この場で破棄する!」
王太子アルヴィス・ロア・グランセル。金の髪を後ろに撫でつけ、王家の紋章入りのマントを翻して、彼は芝居がかった仕草で指を突きつけた。楽団の音が止み、広間がしんと静まり返る。
「……理由を、お聞かせいただけますか。殿下」
セラフィーナの声は震えなかった。銀色の髪が燭台の光を受けて淡く輝き、菫色の瞳がまっすぐに王太子を射抜く。その落ち着き払った態度が気に食わなかったのか、アルヴィスはわざとらしく鼻を鳴らした。
「白々しい! 貴様がリリー・モルデン男爵令嬢に行った数々の非道、すべて調べはついているのだ!」
彼が手を挙げると、壇の袖から一人の少女がしずしずと歩み出た。蜂蜜色の巻き毛に、大粒の涙を溜めた琥珀の瞳。庇護欲をそそる小動物のような容姿の彼女は、アルヴィスの腕にすがりつくと、か細い声で語り始めた。
「わ、わたし……セラフィーナ様に、階段から突き落とされて……教科書をインクで汚されて、ドレスを切り裂かれて……お茶会では『男爵家の分際で』って、皆さまの前で……っ」
「もうよい、リリー。辛いことを思い出させたな」
アルヴィスがその肩を抱き寄せる。広間のあちこちから、ひそひそと囁きが漏れた。
――違う。
セラフィーナは知っていた。リリーが自分で自分の教科書を汚し、自分でドレスの裾を切り、階段では誰も触れていないのに大袈裟に転がってみせたことを。その現場を見ていた学友も、証言してくれるはずの教師もいた。いた、はずだった。
忘れもしない。二月ほど前の、雨の放課後のことだ。忘れ物を取りに戻った教室の扉の隙間から、セラフィーナは見てしまった。誰もいない教室で、リリーが鼻歌まじりに、自分の教科書へインク瓶を傾けているところを。
「……何を、なさっているの?」
振り向いたリリーは、一瞬だけ、ひどく退屈そうな顔をした。それから、まるで手袋を替えるように、くしゃりと泣き顔を作ってみせたのだ。
「ひどい、セラフィーナ様……わたしの教科書を、こんなに……」
「……あなた、自分で今」
「ここには、わたしたちしかいませんもの」
泣き顔のまま、声だけが笑っていた。
「ねえ、セラフィーナ様。人はね、『強い女が弱い女をいじめる話』が大好きなんです。証拠なんて、誰も見たがらない。みんな、見たいものしか見ないんだから。……あなたが何を言っても、涙一粒でぜーんぶ、ひっくり返る。だって、わたし『可哀想』ですもの」
あの時、すぐに父に相談していれば。そう悔やまなかったと言えば嘘になる。だがセラフィーナは、証拠もなく人を貶める者に、自分まで堕ちたくなかった。学友のコーデリアが「あの女は危険よ、殿下に報告なさい」と忠告してくれた時も、首を振ったのだ。「事実は、いずれ明らかになるわ」と。
――甘かった。事実が明らかになるより先に、「物語」が玉座を握ってしまった。そしてコーデリアの証言も、教師たちの記録も、壇上に届く前に、誰かの手で握り潰されていた。
「殿下。恐れながら、その証言には一つも証拠がございません。階段の件は、当日わたくしは王妃殿下のお茶会に出席しており、学院にすらおりませんでした。出席の記録も――」
「記録など、公爵家の力でいくらでも書き換えられよう!」
アルヴィスは聞く耳を持たなかった。その瞳はどこか熱に浮かされたように潤み、焦点がリリーの上でしか結ばれていない。
(……ああ、これはもう、何を言っても無駄なのですね)
セラフィーナは静かに悟った。三年前、政略のために結ばれた婚約だったが、それでも彼女は王太子妃となるべく努力を重ねてきた。五か国語を修め、帝王学を学び、社交界を取りまとめ、王妃の名代すら務めた。その全てが、蜂蜜色の巻き毛の前では紙屑ほどの価値もなかったらしい。
「セラフィーナ・エルヴァスティン。貴様には国外追放……と言いたいところだが、父君であるエルヴァスティン公の顔を立て、温情をくれてやる。北の国境沿い、グレンヴァルト辺境領への永久追放だ! あの痩せた土地で、己の傲慢を悔いて生きるがいい!」
どよめきが広間を揺らした。グレンヴァルト。魔物の徘徊する「魔の森」に接し、土地は痩せ、冬は長く、中央の貴族が「流刑地」と陰で呼ぶ最果ての地。令嬢たちの何人かは扇の陰で嗤い、何人かは青ざめて目を伏せた。
「あの、殿下……わたし、そこまでは望んで……セラフィーナ様がお可哀想です……」
リリーが慈悲深げに睫毛を伏せる。だがセラフィーナの位置からは、はっきりと見えた。伏せた睫毛の奥で、琥珀色の瞳が三日月のように歪んで嗤っているのを。
(……そう。あなたは、そういう方なのね)
不思議なほど、心は凪いでいた。セラフィーナはドレスの裾を摘まみ、完璧な礼の姿勢を取った。
「――謹んで、拝命いたしますわ」
「な……に?」
泣き崩れるか、許しを乞うと思っていたのだろう。アルヴィスが虚を突かれた顔をする。セラフィーナは顔を上げ、最後に一度だけ、かつての婚約者を真正面から見た。
「三年間、お世話になりました。殿下のご治世が、実り多きものになりますよう――心より、お祈り申し上げます」
それは嫌味ではなく、本心だった。この国の民に罪はない。だから祈った。祈って、踵を返した。ざわめく人垣が、モーセの海のように割れていく。
その背中に、リリーの声が追いすがった。
「セラフィーナ様! わたし、セラフィーナ様のこと、お恨みしていませんから! 辺境でも、お元気で……!」
勝ち誇った、砂糖菓子のような声。セラフィーナは振り返らなかった。ただ、大広間の扉が閉まる寸前、彼女の胸の奥で――ちり、と何かが微かに音を立てた。
それは、彼女自身も気づいていない「何か」が、王都という土地から静かに糸を解き始めた音だった。
公爵邸に戻ったセラフィーナを待っていたのは、真っ青な顔の父だった。
「セラフィーナ……! すまない、私が王宮に着いた時にはすべてが終わっていた。今から国王陛下に直訴を――」
「お父様、なりません」
セラフィーナは首を振った。エルヴァスティン公爵レオンハルトは、宰相として国王を支える重臣である。その父が今、娘のために動けば、エルヴァスティン派と王太子派で国が割れる。
「わたくし一人が辺境へ行けば済む話です。お父様は、どうか国の舵取りを。……それに」
彼女は少しだけ、悪戯っぽく微笑んでみせた。幼い頃、父の膝の上で領地経営の帳簿を玩具代わりにしていた、あの頃の顔で。
「わたくし、一度やってみたかったのです。何もないところから、土地を豊かにするということを。教科書ではなく、この手で」
「……お前という子は」
公爵は目頭を押さえた。そして一晩かけて、娘の馬車に積めるだけのものを積んだ。農学と治水の専門書。薬草事典。種籾と薬種。そして、亡き母の形見である、小さな銀の聖印を。
「これはお前の母さんが、『この子が本当に困った時に』と遺したものだ。……ィーナ、お前の母方の血筋は、ただの伯爵家ではない。いつかお前自身が、それを知る日が来るだろう」
その言葉の意味を、セラフィーナはまだ知らない。
三日後の早朝、一台の質素な馬車が、見送りもまばらな北門から王都を出た。誰も気づかなかった。馬車が城壁を抜けたその瞬間、王都の空を覆う不可視の「何か」が、蝋燭の火が揺れるように、ゆらりと大きく揺らいだことに。




