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冤罪で婚約破棄された公爵令嬢、辺境で本物の聖女に目覚める〜王都の結界、私が張っていたのですけれど?〜  作者: ハル


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終章 私の帰る場所

 王命の使者が到着する前夜、セラフィーナは一人、砦の壁の上にいた。


 月明かりの下、黄金の結界がゆるやかに脈打っている。その光の下に、直した水路が、育てた畑が、灯りの点る家々が眠っていた。


「……こんな時間に何をしている。冷える」


 背中に、聞き慣れた無愛想な声。振り向かなくても分かる。彼はいつも、彼女が一人でいると、なぜか必ず見つけて現れるのだ。


「明日の使者の口上を、考えておりましたの。王家は今度こそ、正式にわたくしを迎えに来ます。……ヴォルフ様は、わたくしがどう答えるべきだと思われます?」


 長い、長い沈黙があった。やがてヴォルフは、絞り出すように言った。


「……あんたの好きにしろ。王都には百万の民がいる。あんたの父上も、友も、あんたが取り戻すべき名誉も、全部あっちにある。この領の連中は寂しがるだろうが……誰も、あんたを縛らん。俺も、だ。あんたは一度、他人の勝手で人生を捻じ曲げられた。二度目があっていいはずがない。だから――」


「ヴォルフ様」


 セラフィーナは、くすりと笑って遮った。


「わたくし、『どう答えるべきか』とお聞きしましたけれど、答えそのものは、とっくに決まっておりますのよ。ただ……あなたのお口から、『行くな』の一言くらい、聞いてみたかっただけですのに」


「な……っ」


「ふふ。本当に、不器用な御方」


 月光の下、狼狽える軍狼の横顔を、聖女は心底楽しそうに眺めていた。


 謁見は、グレンヴァルトの砦の広間で行われた。


 国王名代の老公爵が読み上げる王書は、驚くべき内容だった。王家の全面的な謝罪。冤罪の完全な撤回と名誉回復。そして。


「――聖女セラフィーナ様におかれましては、何とぞ王都へお戻りいただき、大結界の再興を賜りたく。王家は聖女様に王宮の一角と、公爵位に準ずる地位を献上し……」


 読み上げが終わらぬうちに、床に膝をついた者がいた。アルヴィスだった。一兵卒の粗末な軍服姿で、かつての婚約者の前に、彼は額ずいた。


「セラフィーナ……! すまなかった。俺は、俺は取り返しのつかないことを……。香のせいだったなどと、言い訳はしない。壇上でお前の言葉を遮ったのは、証拠を見ようともしなかったのは、紛れもなくこの俺だ。……頼む、戻ってきてくれ。妃にとは言わない。俺は廃嫡された身だ。ただ、王都には、お前が守った民がいる。もう一度だけ、あの都に……!」


 広間が静まり返った。領民たちが固唾を呑み、バルトが目を細め、ヴォルフは――何も言わず、ただ壁際で腕を組んでいた。彼女の答えがどちらであっても受け入れる。その横顔は、そう言っていた。


 セラフィーナは、静かに口を開いた。


「殿下。……いえ、アルヴィス様。頭をお上げください」


「では……!」


「王都の民に、罪はありません。ですから大結界は、この地から張り直しましょう。聖女の結界は本来、聖女の『帰る場所』を中心に広がるもの。わたくしの力は覚醒いたしました。今のわたくしなら、ここグレンヴァルトから王都までを、一つの結界で覆えます」


 おお、と使者団がどよめく。アルヴィスの顔に希望が差した。


「なら、王都に戻って――」


「いいえ」


 セラフィーナは、微笑んだ。春の野のように、晴れやかに。


「――私の帰る場所は、もう、ここにございますので」


 彼女はゆっくりと広間を見渡した。ドムが、マーゴが、ミナが、バルトが、領民たちが、涙と笑顔で頷いている。そして最後に、壁際の無愛想な軍狼へ、その視線は辿り着いた。


「水路のせせらぎも、麦畑の風も、竈の煙の匂いも、わたくしを『姫さん』と呼ぶ声も。わたくしの大切なものは、すべてこの地にあります。王都の皆さまには結界を。ですが、わたくし自身は――誰にも、差し上げられません」


「……そうか」


 アルヴィスは、長いこと床を見つめ、それから、憑き物の落ちた顔で立ち上がった。


「お前は、俺が隣にいた三年間より、ずっといい顔で笑うんだな。……達者で。俺は残りの生涯、一兵卒として、剣で民に償う」


 それが、二人の交わした最後の言葉だった。


 後日。王家はグレンヴァルトを「聖女大公領」に昇格させ、辺境への大規模な投資と交易路の整備を約した。かつての流刑地は、大陸中から巡礼者と商人の集まる「北の聖地」へと生まれ変わっていくことになる。


 その発表の夜、砦の物見塔の上に、二つの人影があった。


「……なあ」


 ヴォルフが、星空を見上げたまま、ぶっきらぼうに言った。


「大公領になると、この地には大公が要るらしい。で、王家の内示では……その、なんだ。大公位は、聖女殿に、と」


「あら。では、わたくしが閣下の上司になってしまいますわね?」


「……茶化すな。俺は真面目に――ああもう、くそ!」


 北の軍狼は、がしがしと頭を掻き、それから観念したように振り返って、彼女の前に片膝をついた。武骨な手が差し出したのは、宝石もない、素朴な銀の指輪。溶かした剣の柄金具から、彼が不器用に自分で打った指輪だった。


「セラフィーナ。あんたが大公だろうが聖女だろうが、俺の気持ちは変わらん。……俺は、泥だらけで笑うあんたに惚れた。俺と、結婚してくれ。あんたの帰る場所は俺が――俺たちが、一生守る」


 月光の下、聖女は泣き笑いの顔で、その無骨な手を取った。


「はい。……ふふ、ヴォルフ様。わたくし、婚約破棄された身ですけれど、よろしいのですか?」


「馬鹿を言え」


 軍狼は、生涯で一番優しく笑った。


「王都の連中は国宝を捨てたんだ。――拾った俺の、一人勝ちだろう」


 春の夜風が、麦の匂いを運んでくる。黄金の大結界が、北の空にオーロラのように揺れて、二人と、二人の故郷を、どこまでも優しく照らしていた。


 約束の結界は、夏至の日に張り直された。


 グレンヴァルトの丘の上、セラフィーナが祈りを捧げると、黄金の光は北の山脈から南へ、街道を辿り、平野を渡り、七日七晩かけて王都の尖塔までを覆った。三百年前の建国以来、初めて「国土のほぼ全て」が聖女の加護に抱かれた瞬間だった。


 王都の民は、北の空から押し寄せる暁のような光を見上げ、誰からともなく北へ向かって膝をついたという。疫病は光とともに退き、魔物は国境の外へ去った。この日は後に「北光祭」として、王国の祝日になる。


 面白いことに、結界の中心がグレンヴァルトにある以上、加護は北ほど濃い。中央の貴族たちは先を争って北へ別邸を構え、職人と学者が移り住み、ジェムの交易網は倍々に膨れ上がった。「流刑地に落とされたら出世」という珍妙な諺が官僚たちの間に生まれるのは、もう少し先の話。


 秋には、約束どおり盛大な収穫祭が開かれた。石灰を混ぜた畑の麦は、混ぜていない畑の三倍の実りをつけ、ドムは山と積まれた麦袋の前で男泣きに泣いた。祭りの喧噪の隅では、辺境騎士団の新兵が一人、黙々と芋の皮を剥いていた。金の髪を短く刈った、どこか品のある新兵に、ミナが湯気の立つ椀を差し出す。


「新入りさん、休憩だよ! 姫さま特製の芋粥!」


「……ありがとう。……うまいな、これは」


「でしょ! あたしね、大きくなったら聖女さまみたいになるんだ。字も算術も薬草も、ぜーんぶ姫さまに習ってるの!」


 新兵は目を細め、少しだけ泣きそうな顔で笑った。彼が誰なのか、気づいている領民も、詮索する者はいなかった。ここは最果ての地。過去を捨てに来る者に、グレンヴァルトはいつだって寛容なのだ。


* * *


 翌年の春、聖女大公セラフィーナと辺境伯ヴォルフガングの婚礼が執り行われた。


 招待状は王侯貴族より先に、領民全員に配られた。花嫁のヴェールを持ったのは読み書きを覚えた子供たちで、祝いの鐘は老農夫ドムが鳴らし、婚礼の薬酒は薬師マーゴが五十年の秘蔵を開けた。


 誓いの口づけの瞬間、大結界が祝福のように黄金の光を降らせたという逸話は、やがて大陸中の吟遊詩人が歌う伝説となる。


 宴の席で、花嫁は父と再会した。宰相の任を解かれることを自ら願い出て、祝いに駆けつけたエルヴァスティン公爵は、泥のついた娘の手を取り、しばらく何も言えなかった。


「……母さんが、言っていた。『この子は、飾られるより耕す方が似合う子です』と。……私は今日ほど、あれの目の確かさを思い知った日はない」


「お父様。わたくし、いま、とても幸せですわ」


「ああ。……ああ、見れば分かるとも」


 やがて公爵は隠居し、孫の顔を見るためと称して、一年の半分を北で過ごすようになる。中央政界は「北の隠居殿に相談してからにしよう」が口癖の、奇妙に堅実な時代を迎えるのだが、それはまた別のお話。


 ――冤罪で全てを失った令嬢は、最果ての地で、全てよりも大切なものを手に入れた。


 後世の歴史書は、この時代を「北光の御代」と呼ぶ。聖女大公セラフィーナの治世、グレンヴァルトは大陸随一の学術と医術の都となり、彼女の開いた読み書き教室は、身分を問わぬ大陸初の公立学院へと育った。初代学院長の名はミナ。孤児から聖女の一番弟子となった彼女の伝記は、今も北の子供たちの必読書である。


 歴史書の最後の頁には、大公夫妻の晩年の逸話が、短く記されている。


 ――ある旅人が、麦畑の畦道で泥だらけになって働く白髪の老婦人に、道を尋ねた。礼を言って去り際、旅人は聞いた。「ときに、名高い聖女大公さまとは、どのようなお方です?」老婦人は少し考えて、隣で鍬を振るう老紳士と顔を見合わせ、笑ってこう答えたという。


「ただの、泥だらけの姫さんですよ」


 彼女の帰る場所は、もう、決して揺らがない。


(完)

挿絵(By みてみん)


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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