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【連載完結】領主様と私の前世ごはん。領主様が毎日お代わりと言ってくるのですが。  作者: 逆立ちハムスター


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8/14

甘く熱い泥濘

 査察官バリオス伯爵の襲来から数日。


 予算が正式に下り、ファルガルド砦はさらに活気づいていたが、ただ一人、砦の主であるソルスティス様だけは、ずっと不機嫌なオーラを纏っていた。


 いや、領主としての仕事は完璧にこなしている。だが、演習では兵士たちをいつも以上にボロボロになるまでしごき、執務室からは人を寄せ付けないような冷気が漂っているのだ。フキハラ?


「……ルシェラ様。閣下のあの御機嫌斜めは、どう考えても先日の夜の……『アレ』が原因かと存じますが」


 厨房の隅で、エルテアさんが申し訳なさそうに身を縮めている。

 アレ、とはもちろん、あの夜、厨房の裏でパーソナルスペースの不法占拠(壁ドン)され、あわやというところでエルテアさんが飛び込んできた一件だ。

 あの後、ソルスティス様は苦言一つ残して去っていき、私は結局、顔から火を吹きそうなままベッドに潜り込んだのだ。


「わ、私に言われても困ります! そもそもソルスティス様が急に……その、変な距離の詰め方をしてくるのが悪いんです!」

「ですが、このままでは砦中の胃が持ちません。どうかルシェラ様の『毒』で、閣下を慰めて差し上げてください……」


 エルテアさんに拝み倒され、私はため息をついた。

 正直、私自身もあの夜の余韻から抜け出せていない。彼と顔を合わせるのが少し怖くもあり、恥ずかしくもあった。


(……でも、美味しいものを食べて機嫌を直してもらうのは、料理人の腕の見せ所よね)


 疲れた脳と強張った心を一瞬で解きほぐす魔法。

 それは、究極の「甘味スイーツ」に他ならない。

 私は食材庫の奥を探り、先日目をつけていたある食材を引っ張り出した。

 それは南方から輸入されている『黒苦豆くろにがまめ』という、その名の通り黒くて苦い豆だ。普通は薬効を期待して煎じ薬にされるものだが、その香りには特有の芳醇さがある。


(これ、絶対にカカオの代用品になる!)


 まずは、黒苦豆をフライパンでじっくりと焙煎する。

 パチパチと音が鳴り、厨房に香ばしく、そして微かに甘い香りが漂い始めた。

 焙煎した豆の皮を剥き、すり鉢で気が遠くなるほど細かく、ペースト状になるまで擦り潰していく。

 そこに、濃厚な『太陽樹の蜜』、そしてグリス豚の脂ではなく、今回は普通っぽい乳牛から作られた極上の『澄ましバター』をたっぷりと加え、さらに練り上げる。


 ツヤツヤと輝く、漆黒のペースト。

 味見をしてみると、鮮烈な苦味の奥から、暴力的なまでの甘みとコクが押し寄せてきた。完璧な「チョコレート」の完成だ。


 だが、ただのチョコレートを出すだけでは、あの鉄血領主の機嫌は直らない。

 私は『風切り鳥』の卵と小麦粉、そしてこの特製チョコレートを合わせ、小さな陶器の型に流し込んだ。

 ここでのロジックは「温度と時間の緻密な計算」だ。

 高温のオーブンで、外側はサクッと焼き上げ、内側はトロトロの生の状態で留める。


(フォンダンショコラ……。中から熱いチョコがとろけ出す、禁断のスイーツ!)


 焼き上がったそれは、見た目は少し地味な、焦げ茶色の小さなケーキだ。

 私はそれに、真っ白な粉雪のような『微粉糖』を振りかけ、熱々のまま銀のトレイに乗せた。


────


 コンコン、と執務室の扉を叩く。

「……誰だ」

 相変わらずの、地を這うような低い声。


「ルシェラです。……おやつの時間ですよ、ソルスティス様」

「……入れ」


 扉を開けると、書類の山に囲まれたソルスティス様が、深い眉間の皺と共に私を睨みつけた。

 その視線には、怒りというよりは、拗ねた猛獣のような不満が渦巻いている。


「またお前か。……いや、お前でなければ困るのだが。ん〜……今日はなんだ。また私の胃を狂わせるような肉か?」

「いいえ。今日は、ソルスティス様の凝り固まった眉間を解きほぐす、甘い『魔薬』です」

「言うようになったな」


 私は彼の机の空いたスペースに皿を置き、小さな銀のフォークを添えた。

 ソルスティス様は訝しげにその小さな茶色い塊を見つめた。


「ケーキか。……私はあまり甘いものは好まんぞ。それに、こんな小さな塊一つで、私の機嫌が直ると思っているのか?」

「甘いものが苦手な方にこそ、食べていただきたいのです。……さあ、中央からフォークを入れてみてください」


 彼は疑り深い目を向けたまま、銀のフォークをケーキの中央に突き立てた。


 サクッ。


 表面の薄い殻が割れた、次の瞬間。


「なっ……!?」


 ソルスティス様の手が止まった。

 フォークの切れ目から、まるでマグマのように、熱く、黒光りする濃厚なチョコレートの液体が、ドロォォッと皿の上へと溢れ出したのだ。

 立ち上る湯気と共に、芳醇なカカオの香りと、バターと蜜が焦げたような暴力的な甘い匂いが、執務室の空気を一瞬にして塗り替える。


「……また奇っ怪な物を。これは中が、液状のままではないか!?」

「『黒苦豆の溶岩菓子フォンダンショコラ』です。外側は香ばしく焼き上げ、内側は熱いチョコレートの泥濘なずみのまま閉じ込めました。冷めないうちにどうぞ」


 彼は溢れ出した熱いチョコレートを、外側のケーキ生地にたっぷりと絡め、口へと運んだ。


「…………ッ!!」


 その瞬間、彼を纏っていた冷たいオーラが、嘘のように霧散した。

 目を大きく見開き、信じられないものを見るかのように皿と私を交互に見る。


「……熱い。口に入れた瞬間、熱く濃厚な甘みが、舌に絡みついてくる。だが……」


 彼はもう一口、急いで口に放り込む。


「ただ甘いだけではない! 黒苦豆の鮮烈な苦味が、蜜の甘さを極限まで引き締め、そしてバターのコクが喉の奥まで支配する! サクサクとした外側の食感と、この熱く官能的な液体のコントラスト……。これは、脳が……直接、溶かされるような感覚だ……ッ!」


 大袈裟なんだから。でも今や、甘いものが苦手だと言っていた男の姿はそこにはなかった。

 彼はフォークを持つ手を止めることなく、皿の上に溢れたチョコレートの一滴すら逃すまいと、夢中でケーキ生地に絡め取っていく。

 常に気を張っていた鉄血領主の眉間の皺は完全に消え去り、その表情は、とろけるような至福に満たされていた。


 あっという間に皿は空になった。

 ソルスティス様は大きく、そして甘い吐息を漏らし、革張りの椅子に深く背中を預けた。


「……負けた。またしても、私はお前の皿に敗北した」

「お口に合って何よりです。これで、少しはご機嫌を直していただけましたか?」


 私がクスクスと笑いながら皿を下げようと手を伸ばした時だった。


 ガシッ!


「ひゃっ!?」


 突如、私の手首が強い力で掴まれ、そのまま引き寄せられた。

 バランスを崩した私は、あっという間にソルスティス様の膝の上へと収まっていた。彼の強靭な腕が、私の腰にしっかりと回されている。


「ソ、ソルスティス様!?」

「機嫌は直った。……だが、別の問題が発生した」

「……お、お代わりですか?」


 見上げると、彼の琥珀色の瞳が、先ほどの至福の表情から一転し、飢えた捕食者のように私を見下ろしていた。

 彼の顔が近づき、その吐息から、先ほど彼が食べたチョコレートの甘くほろ苦い香りが漂ってくる。


「お前は、いつもそうだ。私の前に極上の餌をぶら下げ、散々焦らした挙句、最後の一線で逃げ出そうとする」

「そ、それは……あの時はエルテアさんが……!」

「言い訳は聞かんぞっ。……この甘く熱い菓子のせいで、私の中の『飢え』が限界を突破した。お前が責任を取れ、ルシェラ」


 逃げ場はない。

 彼の大きな手が私の後頭部を優しく包み込み、そして、今度こそ誰にも邪魔されることなく、彼の唇が私の唇を塞いだ。


「んっ……!」


 それは、先ほどのフォンダンショコラのように。

 外側は少し強引で熱く、けれど触れ合った瞬間に内側から蕩けるような甘さが溢れ出してくる、深く、濃厚なくちづけだった。

 チョコレートのほろ苦さと、彼の微かな白檀の香りが混ざり合い、私の脳まで本当に溶けてしまいそうになる。


「……はぁっ……」


 息継ぎのために唇が離れた瞬間、彼はその熱を帯びた瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。


「もう、どこにも逃がさんぞ。お前の料理も、お前自身も……すべて私のものだ」

「……は、はい、ソルスティス様」


 もはや抵抗する気など、微塵も起きなかった。

 彼の腕に抱かれながら、私は自分の心が、あのチョコレート以上に甘く、完全に彼に溶け切ってしまったことを自覚していた。

 領主様の胃袋を掴むはずが、すっかり身も心も食べ尽くされてしまった専属料理師の私。

 私たちの甘くて美味しい毎日は、きっとこれからも、もっともっと濃厚に続いていくのだろう。

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