二度揚げ魔法と戦場に咲く『お弁当』
深夜の執務室での、甘く危険な「お代わり」宣言から数日。
私はすっかり、ファルガルド砦の厨房における特異点として定着しつつあった。
ヴァルガ料理長をはじめとする屈強、ベテラン料理人たちも、最初は私のことを小娘と侮っていたものの、私が繰り出す前世の「調理ロジック」を目の当たりにし、今ではすっかり協力的(というか、試食係のポジションを巡って血みどろの争いを繰り広げるほど)になっていた。
「ルシェラ様、閣下の出立準備が整いました。……それにしても、本当に『携帯食』を作られたのですね」
厨房にやってきた家政婦長のエルテアさんが、私の目の前にある木箱を見て目を丸くした。
今日は、ソルスティス様――彼にそう呼べと命じられてから、意識するだけで頬が何故か熱くなる――が、自ら南部の湿地帯へ赴き、『水晶穀』の農地開拓の視察を行う日だ。
往復で丸一日かかる行軍。通常、このような視察時の昼食は、馬上で齧るための「干し肉」と「石のように硬い焼き麦パン」と相場が決まっているらしい。
「ええ。閣下の胃袋は、もうカチカチの干し肉では満足できない体になってしまっていますから」
私はふふっと笑いながら、布で丁寧に包んだ三段重の木箱――元々は乾燥ハーブを保存するための箱を、職人に頼んで綺麗に削り直し、蜜蝋を塗って食品用に加工したものを撫でた。
これぞ前世の叡智の結晶。戦場や野外において、極上の休息をもたらす魔法の箱『お弁当』である。
お弁当の要は「冷めても美味しいこと」。そして「片手で手軽に、かつ栄養を完璧に補給できること」だ。
昨夜から仕込んでおいた数々の品を思い返し、私は自信に満ちた笑みを浮かべた。料理を作るのもそうだが、なにより、食べてくれる相手の笑顔を想像するのが、一番ワクワクするのだ。
────
数時間前の厨房。
私が最も心血を注いだのは、お弁当のキングオブ主役たる『鶏の唐揚げ』だった。
使用したのは、あの荒野でもお世話になった『岩甲鳥』の、今回は最も運動量が多く旨味の強い「もも肉」に当たる部位だ。
岩甲鳥の肉は弾力が強すぎるため、まずは『甘葉果』というパパイヤに似た果実の絞り汁に一晩漬け込んでおき、酵素の力でタンパク質を分解して柔らかくしておいた。
それを一口大に切り分け、ボウルの中で特製のタレを揉み込む。
タレのベースは、醤油に酷似した『黒豆醤。』そこに生姜のような爽やかな辛味を持つ『炎硝根』のすりおろしと、『星型大蒜』そして少しの果実酒を合わせる。
肉の繊維の奥深くまで味が染み込むよう、手でギュッギュッと力強く揉み込み、そのままさらに一時間寝かせる。
そして衣だ。
小麦粉だけでは冷めた時にベチャッとしてしまう。そこで私は『ブルム根』から抽出して乾燥させたデンプン粉――つまり「片栗粉」っぽいもの代用として用意した。
汁気を軽く切った肉に、この純白の粉をたっぷりと、白粉を叩くように丁寧にまぶしていく。
「料理長、油の温度をお願いします!」
「おう! まずは百六十度だな。低めの油だろ?」
ヴァルガ料理長が、すっかり私の助手のようになって大鍋の油の温度を管理してくれている。有難いことに、この世界にはドワーフと呼ばれる先人達がおり、様々な魔道具を遺してくれていた。古い機関車のようなメーターだが、温度はきっちり調整できる。
油はグリス豚の極上ラード。
粉を纏った肉を静かに油の海へと滑り込ませた。
――シュワァァァァァ……。
細かい泡が肉を包み込む。最初は三〜四分、じっくりと揚げる。表面がわずかに色づいたところで、一度油から引き上げる。
周囲の料理人たちが「おい、まだ中まで火が通ってないぞ」とざわめくが、私は平然と網の上で肉を休ませた。
「これが『余熱調理』です。油から上げても、肉自体の熱で中心へとじわじわ火が通っていくんです。……そして、三分後。油の温度を二百度まで上げてください!」
パチパチと弾ける高温の油の中へ、休ませていた肉を再び投下する。
『二度揚げ』のロジックだ。
――ジバババババッ!!
先ほどとは打って変わって、激しく荒々しい音が厨房に響き渡る。
高温の油が、衣に残った余分な水分を一瞬にして蒸発させる。肉の表面はあっという間に見事な琥珀色――いわゆるキツネ色へと染まり上がり、黒豆醤とニンニクが焦げる、脳髄を直接揺さぶるような強烈な香ばしさが爆発した。
カラリと揚がった肉を油から引き上げると、衣の表面で微細な油がチリチリと音を立てている。
これで、外側はバリッと硬く、中は肉汁がパンパンに詰まった、冷めても絶対に美味しい「完璧な唐揚げ」の完成だ。
続いて、卵料理。
『風切り鳥』の卵をボウルに割り入れ、泡立てないように菜箸で切るように混ぜる。ここに、昨日のスープで取った濃厚なコンソメ出汁と、少しの蜜、そして微量の塩を加える。
鍛冶屋に特注で作ってもらった「四角い銅製の小鍋」を熱し、油を引いて、卵液を薄く流し込む。
ジュワッという音と共に膨らむ卵を、奥から手前へと素早く巻き上げる。空いたスペースに油を塗り、再び卵液を流し込み、巻く。
層を重ねるごとに、出汁の水分が卵のタンパク質の網目に閉じ込められていく。
焼き上がったこれは、美しい黄金色をした分厚い長方形のブロック。『出汁巻き卵』だ。巻き簾の代わりに清潔な布で包んで形を整え、冷ましてから厚切りにする。
最後にお弁当の魂である『おにぎり』。
炊き立ての、白く輝く水晶穀を用意する。
両手を水で濡らし、岩塩を手のひらに万遍なくすり込む。この「塩水」が、米の表面をコーティングし、傷みを防ぐと同時に米の甘みを極限まで引き出すのだ。
茶碗一杯分の水晶穀を手に取り、真ん中に窪みを作る。
具材は二種類。一つは、先日作って余っていた豚の角煮の端材を、細かく刻んでさらに甘辛く煮詰めた『しぐれ煮風』。もう一つは、強烈な酸味を持つ酸棘果を塩漬けにして天日干しにした、自家製の『異世界梅干し』だ。
具を包み込み、決して力を入れて握りつぶさないよう、両手の中で転がすように、優しく、空気を包むようにして三角形に整える。
一番下の段には、笹の葉に似た防腐作用のある葉を敷き、三種類のおにぎりをぎっしりと。
真ん中の段には、大ぶりの唐揚げを山のように。
一番上の段には、出汁巻き卵と、口休めのために酢漬けにした色鮮やかな野菜たちを隙間なく詰める。
こうして完成したのが、この『特製・領主様の視察弁当』だ。
────
「……なぜ、お前が私の前に乗っているのだ?」
背後から響く、不満げな、しかしどこか甘さを孕んだ低い声。
私は今、ソルスティス様の駆る巨大な漆黒の軍馬に同乗し、彼の強靭な両腕の中にすっぽりと収まるような形で手綱を握られていた。
「『食事の用意があるからお前も来い』と命じたのはソルスティス様ではありませんか。馬車は足手まといになるからと、こうして乗せられたのは私の方ですが」
「馬車など使えば、湿地帯に着く前に日が暮れる。……それに、私の目の届くところに置いておかなければ、お前はまた変な草や虫を拾い食いして腹を壊しかねんからな」
どうやら野草の件をまだ心配しているらしい。本来錬金術で使うべきものを味見したからであるけれど。
「前世の知識に基づく立派な食材探求です!」
言い返しながらも、背中に密着する彼の広い胸板の温もりと、軍服から漂う微かな白檀のような香りに、私の心臓は朝からずっと早鐘を打ち続けていた。
馬が歩みを進めるたびに、彼の太ももが私の足に触れ、その圧倒的な体格差と「守られている」という事実に、頭がどうにかなりそうだった。
数時間の騎乗の後、私たちは南部の湿地帯を一望できる小高い丘に到着した。幸い乗馬は初めてではなかった。男爵令嬢いえど、幼少期から乗馬を叩き込まれた。もし、初めてだったら、私の体は今頃、逝ってただろう。
眼下には、領主軍の工兵たちと地元の人々が入り混じり、泥にまみれながら水路を引き、広大な区画を整備している光景が広がっていた。
「……見ろ、ルシェラ」
ソルスティス様が馬から降り、私を軽々と抱き下ろすと、眼下の土地を指差した。
「あの泥にまみれた土地が、すべて水晶穀の『水田』となる。お前が示した『炊く』という技術が、この乾き切った国境の地に、かつてないほどの熱狂と希望を生み出しているのだ。精霊砂に頼らなくとも、水と泥さえあれば、人間は豊かになれると」
彼の横顔は、冷徹な「鉄血領主」のものではなく、民を愛し、未来を切り開こうとする気高き統治者のそれだった。
その視線の先にある景色の一部を、私の料理が担っている。その事実に、胸の奥が熱くなった。
「……素晴らしい景色です。でも、ソルスティス様」
「ん?」
「兵たちの士気を高める前に、まずはご自身の『燃料』を補給してください。お昼にしましょう」
私は丘の上の開けた場所に分厚い布を敷き、持参した木箱を真ん中に置いた。それにしても、異世界というものは、どうしてこうも空気が綺麗なのだろう。記憶が戻ってからの私は、内心嬉しいことの方が多くなりつつあった。
ソルスティス様は訝しげに布の上に胡座をかいた。
「ふむ。なんだその箱は? いつもの干し肉ではないのか?」
「ええ。野外でも最高の食事ができるよう、私が工夫を凝らした『お弁当』です」
私は一段ずつ、丁寧に木箱の蓋を開けていった。
パカッ、パカッ、パカッ。
「…………ッ!!」
重箱が全開になった瞬間、ソルスティス様が息を呑む音が聞こえた。
野外の眩しい陽光の下で見るお弁当は、厨房の魔力灯の下で見るよりも遥かに色鮮やかで、暴力的だった。
黄金色に輝く出汁巻き卵。赤や緑の鮮やかな酢漬け野菜。圧倒的な存在感を放つ、琥珀色の唐揚げの山。そして、整然と並んだ純白のおにぎりたち。
冷めているにもかかわらず、黒豆醤とニンニクの食欲をそそる香りが、微かに風に乗って鼻腔をくすぐる。
「……し、信じられん。これは、箱庭か? 食材が、この狭い箱の中で一つの世界を構築しているではないか」
相変わらず反応が素敵だ♪
「美しいだけではありませんよ。さあ、まずはその茶色い肉の塊――『岩甲鳥の二度揚げ』を手でつまんで食べてみてください」
彼は躊躇いながらも、最も大きな唐揚げを一つ手に取った。
油でギトギトしているかと思いきや、片栗粉の衣は指を汚すことなく、サラリとしていることに少し驚いた顔をする。
そして大きく口を開け、それに噛み付いた。
――ザクッ!!
野外であるにもかかわらず、その小気味良い咀嚼音ははっきりと聞こえた。
「なっ……!?」
ソルスティス様の目が、見開かれる。
「冷めているのに、なんだこの衣の程よい硬さは! 噛んだ瞬間に心地よく砕け散ったぞ!? ……それに、この中身は……!」
彼は言葉を失い、急いでもう一口噛みちぎる。
「衣の壁を突破した瞬間、中に閉じ込められていた肉汁が一気に溢れ出してきた! 岩甲鳥特有の強い弾力は残っているが、決して硬くはない。噛むほどに、黒豆醤の深みと、炎硝根の鮮烈な刺激が、濃厚な鳥の脂と混ざり合って……たまらん!」
「それが『二度揚げ』の魔法です。高温で一気に表面の水分を飛ばすことで、冷めても決してベチャつかない強固な鎧を作り上げました。さらにタレを長時間揉み込むことで、肉の細胞一つ一つにまで旨味と水分を保水させているんです」
彼は無言で二個目の唐揚げに手を伸ばし、あっという間に平らげた。
次いで、私が「おにぎり」を指差すと、彼は不思議そうにその白い三角形を手に取った。
「水晶穀だな? だがどうして……ルーンのような形で固まっているのだ? それに、この表面の微かなざらつきは……」
「岩塩です。そのままかぶりついてください。崩れないように優しく握ってありますから」
彼は言われるがまま、おにぎりの頂点に噛み付いた。
「……っ。あぁ、なるほど」
彼は目を閉じ、深く息を吐き出した。
「表面の塩気が、口に入った瞬間に水晶穀の甘みを爆発的に引き立てる。そして、この食感は……固まっているように見えたはずが、口の中に入れた途端、ハラリと一粒一粒が解けていく……。まるで、炊き立てをそのまま口の中に流し込まれたようだ」
「そして、真ん中には……」
「むっ。この塩辛く、強烈な酸味を持つ果肉は……酸棘果か!? だが、生で食べた時のような嫌な渋みがない。この酸味が、先ほどの揚げ物の脂を瞬時に洗い流し、再び強烈に肉を欲する口内環境を作り出している……ッ!」
鉄血領主の知的な分析(食レポ)は、またしても食欲という本能の前に敗れ去った。
右手で唐揚げをつまみ、左手でおにぎりを頬張る。
間に、出汁巻き卵を挟む。
「……この卵料理も異常だ。歯を立てた瞬間に、中からスープが溢れ出してくる。どうやって卵の中に液体を閉じ込めたのだ……いや、もういい。今はただ、この幸福を噛み締めさせてくれ」
エルテアさんの用意してくれたハーブティーで流し込みながら、彼は草原に座り込んだまま、ただひたすらにお弁当と向き合っていた。
普段の厳しい軍装に身を包んだ領主が、両手にご飯とおかずを持って目を輝かせている姿は、少し滑稽で、でもどこか愛おしかった。
この領地の話を聞きながら、共に食事を楽しんだ。
そして、あっという間に、三段あった重箱は綺麗に空っぽになった。
最後の一粒の米まで食べ終えたソルスティス様は、満ち足りた吐息を漏らし、空を仰いだ。
「……ルシェラ」
「はい。お粗末様でした」
私が空の箱を片付けようとした時、彼がスッと身を乗り出し、私の顔に手を伸ばしてきた。
長い指が、私の唇の端にそっと触れる。
「お前も、ついているぞ」
そう言って彼が拭い取ったのは一粒の水晶穀だった。
彼はそのまま、その一粒を自分の口へと運び、私の目を真っ直ぐに見つめた。
「……美味しいな。お前の作るものは、何もかもが」
「っ……! ソ、ソルスティス様、それは……」
ベタなはずなのに、顔から火が出そうになり、私が視線を逸らすと、彼は低く心地よい声で笑った。
「この箱は、まさに魔法の箱だ。血生臭い戦場や、泥まみれの開拓地を、一瞬にして極上の晩餐会に変えてしまう。……お前が私の側にいる限り、私はどこまででも戦い、この領地を豊かにできると確信した」
彼は私の手を取り、その手の甲に、騎士が主君に誓いを立てるかのように、深く、熱い口付けを落とした。
「これからも、私の胃袋と魂を満たし続けろ。……毎日、何度でも、お代わりを要求するからな」
風が吹き抜け、眼下の水田予定地で働く人々の活気ある声が遠く聞こえる。
私は彼の手の温もりを感じながら、もう逃げ隠れせず、彼を真っ直ぐに見つめ返した。
「ええ、覚悟しておいてください。明日はもっと、驚くような『前世ごはん』で、あなたを虜にしてみせますから」
「ぜんせ? ハハハ、楽しみにしているぞ」
異世界の荒野で出会った、無骨で不器用な領主様。
私たちの「美味しい毎日」は、まだまだ始まったばかりだった。




