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【連載完結】領主様と私の前世ごはん。領主様が毎日お代わりと言ってくるのですが。  作者: 逆立ちハムスター


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深夜の背徳と揺れ動く心

 私が「水晶穀」の炊飯を成功させてからというもの、ファルガルド砦は静かな熱狂に包まれていた。

 ソルスティス閣下の号令により、水晶穀は「特級食材」へと格上げされた。軍の補給ルートが見直され、領地内の湿地帯では大規模な農地開拓の計画が前倒しで進められているという。


 それに伴い、最も割を食っているのは――他でもない、領主であるソルスティス自身だった。

 昼間は兵士たちとの苛烈な演習や国境の視察。そして夜は、山のように積まれた農地改革の書類と格闘する日々。

 鉄血領主と呼ばれる彼にも、肉体的な限界はある。ここ数日、彼の目の下にはうっすらと隈が浮かび、厨房に響き渡るエルテアさんの小言も日増しに長くなっていた。


「閣下は昨日も徹夜でいらっしゃいました。あのままでは、砂不足が解決する前に領主様が倒れてしまいます……」


 夜の十時を回った厨房で、エルテアさんが深くため息をつく。

 私は片付けを終えた調理台の前で、腕を組んで考え込んだ。

 夕食はしっかりと召し上がっていたが、あれだけ頭脳と体力を使えば、深夜には確実にエネルギーが切れるはずだ。


(……夜食、作ろう)


 ただの軽食ではない。疲労した脳にガツンとブドウ糖とタンパク質を送り込み、なおかつ胃もたれしないよう計算された、究極の「深夜の背徳メシ」。


 私が食材庫から取り出したのは、二種類の肉だった。

 一つは、お馴染みの『グリス豚』。もう一つは、今回初めて扱う『紅岩牛こうがんぎゅう』のブロック肉だ。

 紅岩牛は、岩のように硬い筋肉を持つ代わりに、赤身の旨味が異常に強い。そのまま焼けば顎が疲れるだけの肉だが、これを「合挽き肉」にすれば話は別だ。


 この世界には挽肉機ミンサーなど存在しない。

 私は二本の重い出刃包丁を両手に構え、まな板の上に置いた肉塊を、リズミカルに叩き切り始めた。

 タタタタタタッ! と、厨房に小気味良い音が響く。

 牛肉は粗めに叩いて肉の食感を残し、豚肉は脂身を中心に細かく叩いてつなぎにする。前世の記憶――ハンバーグの黄金比、牛七対豚三の割合だ。


「……ルシェラ様、何をしていらっしゃるのです? こんな夜更けに」

「閣下に、書類仕事の効率が爆上がりする魔法の夜食をお持ちしようかと」

「馬鹿狩りする魔法?」


 ボウルに叩き切った合挽き肉を移し、そこに岩塩をひとつまみ加える。

 ここがハンバーグ作りの最大のロジックだ。

 肉をこねる前に、必ず氷水を入れた別のボウルで底を冷やす。人間の手の体温で肉の脂が溶け出すと、パサパサの仕上がりになってしまうからだ。


 冷やした状態で、塩だけを加えた肉を徹底的に練り上げる。すると、塩の作用で肉の筋繊維から「ミオシン」というタンパク質が溶け出し、肉全体がネットリとした一つの塊(エマルジョン状態)に変化するのだ。


 粘り気が出た肉に、あらかじめ飴色になるまで炒めて冷ましておいた『月影葱』、砕いた『白麦パン』のパン粉、少しの『星型大蒜』のすりおろし、そして卵を割り入れる。

 これらを素早く均一に混ぜ合わせ、両手の中でキャッチボールをするように叩きつけ、中の空気を完全に抜く。空気が残っていると、焼いている途中にそこから肉汁が逃げてしまうからだ。


 真ん中を少し窪ませた小判型に成形し、熱した分厚い鉄のフライパンへ。


――ジュゥゥゥゥッ……!!


 静かな夜の厨房に、狂おしいほどの焼き音が響き渡る。

 最初は強火。表面を一気に焼き上げ、メイラード反応による分厚い「焦げ目の壁」を作る。肉汁を閉じ込めるための頑丈な砦だ。

 片面に美味しそうな琥珀色の焼き目がついたら、素早く裏返す。

 そして、少量のバルル酒(赤ワイン)を鍋肌から注ぎ入れ、すかさず重い木の蓋をした。


(ここからは蒸し焼き。肉の内部温度を六十五度付近までじっくりと上げ、肉汁を暴れさせないように……)


 パチパチという水分の()ぜる音が、次第にチリチリという脂の焼ける音に変わる。

 竹串を刺し、澄んだ透明な肉汁が溢れてきたのを確認して、私はハンバーグを皿に取り出した。


 仕上げはフライパンに残った「肉の旨味」を使ったソースだ。

 フライパンを洗わずに、そこに『黒豆醤』、甘い『太陽樹の蜜』、少しの酸棘果の果汁、そしてバターを放り込む。強火で一気に煮詰め、とろみがついた極上の「和風シャリアピン・ソース」の完成だ。


 付け合わせには滑らかに裏ごししたブルムジャガイモのピューレを添える。

 私は銀のカバー(クロッシュ)を皿に被せ、足早に領主の執務室へと向かった。


────


 コンコン、と控えめに執務室の重い扉をノックする。

「……入れ」

 低く、少し掠れた声が響いた。


 扉を開けると、魔力灯の光を少し落とした部屋の中で、ソルスティスが机に突っ伏すようにして羊皮紙の束を睨みつけていた。

 軍服のボタンは首元まで外され、いつもは隙のない彼の、珍しく無防備な姿がそこにあった。


「……なんだルシェラか。エルテアの回し者なら帰れ。この農地拡大の予算案を仕上げるまでは寝られん」

「回し者ではありません。ただ、少し『毒』を盛りに来ただけです」


 私がクスクスと笑いながら歩み寄ると、ソルスティスは眉間を揉みながら顔を上げた。


「……毒だと?」

「ええ。食べれば活力が湧き上がり、今日の分の書類をすべて終わらせてしまいたくなる、恐ろしい毒です。夜食をお持ちしました」


 私は机の空いたスペースに皿を置き、被せていた銀のカバーをパッと開け放った。


 フワァッ……。


 立ち上る湯気と共に、焦げた肉の野性的な匂いと、黒豆醤の甘辛い香り、そしてバターの芳醇な香りが執務室のインクの匂いを一瞬にして駆逐した。

 皿の中央に鎮座するのは、艶やかなソースを纏った、分厚いハンバーグ。


「……なんだこれは。ただの挽肉の塊ではないか」

「『紅岩牛とグリス豚の、粗挽き円盤焼き』――前世の名前で言えば、ハンバーグです。まずはナイフを入れてみてください」


 ソルスティスは怪訝そうな顔をしながらも、素直にナイフとフォークを手に取った。

 疲れからか、少し気怠げな動きで、分厚い肉の塊の中央に銀の刃を沈める。


 その瞬間だった。


「なっ……!?」


 ナイフが肉の壁を突破した途端、中に閉じ込められていた肉汁が、まるで決壊したダムのようにドワァァッと皿の上へと溢れ出した。

 透明な脂と赤身の旨味が混ざり合った黄金色の液体が、波を打って付け合わせのピューレへと押し寄せていく。

 あまりの肉汁の量に、ソルスティスは思わず椅子を後ろに引いた。


「どういうことだ……! 切っただけで、肉が泣いているぞ!?」

「塩の力で肉の繊維を繋ぎ合わせ、表面を高温でコーティングすることで、内部にすべての旨味を閉じ込めたのです。冷めないうちにどうぞ」


 ソルスティスは溢れ出した肉汁と特製ソースをたっぷりと絡め、切り分けた大きな一口を口に放り込んだ。


「…………ッ!!」


 彼の琥珀色の瞳が驚愕に見開かれる。

 そして一回、二回と咀嚼した瞬間、彼は言葉を失い、ただ深く、深く息を吐き出した。


「……信じられん。口の中で、肉が……爆発した」


 彼はうわ言のように呟きながら、再びフォークを動かす。


「紅岩牛の暴力的なまでの野性の旨味。それが、グリス豚の甘い脂によって完璧に包み込まれている。粗く叩かれた肉の粒が噛むたびに弾け、その隙間から、無限に肉汁が湧き出してくる……!」

「ソースはいかがですか?」

「この甘辛いソース……そして微かに香る酸味が、溢れる脂のくどさを完全に中和している。……いかん。これは、いかんぞルシェラ。噛むほどに脳が覚醒していくのが分かる」


 深夜の静寂の中、執務室にはただ、領主が一心不乱に肉を食らう音だけが響いていた。

 溢れ出た肉汁とソースが混ざり合った極上の液体を、彼は付け合わせの滑らかなピューレに吸わせ、最後の一滴まで残さず掬い取った。


 カチャリ、とフォークが皿に置かれる。

 完全に空になった皿を見つめ、ソルスティスは大きく背もたれに寄りかかり、ネクタイを乱暴に緩めた。

 その額にはうっすらと汗が浮かび、先ほどまでの疲労感は嘘のように消え去っていた。代わりに、肉を食らった人間特有の、ぎらついた生気が全身から立ち上っている。


「……恐ろしい女だ。お前は、私の理性をどうしたいのだ」

「あら、少しでも閣下のお疲れを癒やせればと思っただけですけど」


 私が空の皿を片付けようと手を伸ばした時。

 不意に、彼の手が私の手首を掴んだ。

 先日の食堂での出来事よりも、ずっと強い、しかし痛みを感じさせない絶妙な力加減。


「あっ……」


 引かれるままに体勢を崩し、気がつけば、私は彼が座る重厚な革張りの椅子の肘掛けに、半ば抱き寄せられるような形で腰を下ろしていた。

 顔が近い。

 彼の吐息から、先ほどのスパイスとソースの微かな香りが漂い、心臓が跳ね上がる。


「か、閣下……?」

「……ソルスティスだ」


 彼は低い声で囁き、私の手首を掴んだまま、その親指で私の脈打つ手首の内側をゆっくりと撫でた。


「私の前では、そう呼べ。……お前が持ち込んだあの『水晶穀』のせいで、私は過労死寸前だった。だが、お前がこうして直接私に『燃料』を注ぎ込みに来るなら、悪くない」

「そ、それは……私が作った料理のせいでは……」


 言い訳をしようとした私の言葉は、彼がそっと私の耳元に唇を寄せたことで、完全に消え去ってしまった。


「明日の夜も、待っているぞ。……私を眠らせない気なら、とことん付き合え」


 その甘く危険な響きに、私の顔は火の出るように熱くなった。

 領主様がお代わりしに来るどころか、私が夜な夜な領主様の部屋に「お代わり」を届けに行く羽目になるなんて。

 この鉄血領主の胃袋だけでなく、心まで掴んでしまったのだと確信するには、私自身が彼に惹かれすぎている。


「……しょ、承知いたしました、ソルスティス様。明日は、もっと刺激的な夜食をご用意しますね」


 逃げるように執務室を後にした私の胸の鼓動は、厨房に戻っても、当分鳴り止むことはなかった。

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