水晶穀の輝きと禁断の豚角煮
領主直属の「専属調理師」という異例の肩書きを手に入れてから数日。
私はファルガルド砦の巨大な厨房で、我が物顔で――いや、実際には周囲の料理人たちと丁々発止のやり取りを繰り広げながら――食材庫の全容把握に努めていた。
「ヴァルガ料理長、この奥の樽に入っている穀物はなんですか?」
私が指差したのは、厨房の最も奥、薄暗い貯蔵庫の隅に追いやられた麻袋と木樽の山だった。
大柄で強面のヴァルガ料理長は、怪訝そうな顔で鼻を鳴らす。
「あぁ、そいつは『水晶穀』だ。南部の湿地帯で取れる穀物だが、パサパサしてて不味い。煮込んでも芯が残るし、どうにもならんから、主に軍馬の飼料か、貧民への炊き出し用の粥にしてるんだよ」
飼料。貧民の粥。
私は木樽に近づき、中から一握りの穀物を掬い上げた。
淡い半透明の粒。少し小ぶりだが、その形状、そして微かに香る穀物特有の甘い匂い。
(……間違いない。これ、前世の『お米(インディカ米とジャポニカ米の中間くらい)』に近い!)
心臓が早鐘を打った。
異世界転生モノのお約束として「米を探す」というミッションがあるが、まさかこんなにあっさりと、しかも大量に見つかるとは。
前世で日本人だった私の魂が、歓喜の雄叫びを上げている。
「料理長、これ、私が頂いても?」
「勝手にしろ。だがそれは、馬や貧民すら不味いと拒絶する代物だ。そんなもんを閣下に出したら、いくらお前でも首が飛ぶぞ」
呆れ顔のヴァルガをよそに、私は水晶穀を両手で抱え込んだ。
彼らがこれを「不味い」と言う理由は明白だ。この世界の調理法は「煮る」か「焼く」が基本。「炊く(蒸し焼きにして水分を芯まで吸わせる)」という概念がないのだ。
適当な水で煮ただけの米など、芯が残ってパサつくに決まっている。
「首が飛ぶどころか、閣下は今日、この穀物の虜になりますよ。……さあ、最高の『背徳ごはん』の準備を始めましょうか」
閣下ために、というのは半分。もう半分は自分のため。
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まずは水晶穀の精米と吸水からだ。
外側の硬い糠が少し残っていたため、すり鉢に入れて木の棒で優しく突き、精米度合いを上げる。その後、たっぷりの水で研ぐ。最初は白く濁っていた水が、完全に透明になるまで三度、四度と繰り返す。
ここからが重要だ。夏場なら三十分、今の少し肌寒い気候なら一時間は、たっぷりの水に浸して芯まで水分を含ませる。この工程を怠ると、ふっくらとは炊き上がらない。特に炊飯器なんて家電がないなら尚更だ。
水晶穀が水を吸って白く不透明に変わっていくのを見届けながら、私はメインディッシュの準備に取り掛かった。
(白いご飯に最も合う、暴力的なまでの飯テロ料理。……それはもう、『豚の角煮』しかないでしょう)
用意したのは、先日も活躍した『グリス豚』の、今度はバラ肉。赤身と雪のように白い脂身が、美しい三層を描いている極厚の塊肉だ。
まずは、この塊肉をそのまま熱した鉄のフライパンに押し当てる。
――ジュゥゥゥゥッ!!
油は敷かない。豚自身の脂で、表面全体にしっかりとした焼き目をつけていく。
こうすることで、肉の旨味を閉じ込めるだけでなく、メイラード反応による香ばしさを付与し、さらに余分な脂を落として仕上がりを重くしすぎない効果がある。
こんがりと狐色に焼けた肉を取り出し、今度はそれを五センチ角の大きなブロックに切り分ける。
大きな深い鉄鍋に、切り分けた肉、臭み消しの『月影葱』の青い部分、そして薄切りにした『星型大蒜』を放り込む。
味付けの要となるのは、昨日貯蔵庫の奥で発見した『黒豆醤』という調味料だ。黒い豆を発酵させた塩気のある液体で、日本の醤油に酷似している。これに、琥珀色の甘い『太陽樹の蜜』と、風味付けの酒をたっぷりと注ぎ込む。
ここからが、時間と温度の魔法だ。
強火で一気に沸騰させ、アクを丁寧に掬い取った後、火を極限まで弱める。
ボコボコと沸騰させてはいけない。肉のタンパク質は六十五度を超えると硬く縮み始めるが、バラ肉に多く含まれるコラーゲン(結合組織)は、八十度前後の温度で長時間加熱することで、初めて柔らかいゼラチン質へと変化するのだ。
落とし蓋をし、微かな湯気が立つ程度の温度を保ちながら、じっくりと、ただじっくりと煮込んでいく。
「……また、妙な匂いを充満させているな」
背後から、低く響く声がした。
振り返ると、漆黒の執務服に身を包んだソルスティス閣下が、厨房の入り口に立っていた。
本来、領主自らが火の気と油の匂いが充満する厨房に足を運ぶなどあり得ない。周囲の料理人たちが慌てて平伏する中、彼はそれを手で制し、真っ直ぐに私の鍋へと歩み寄ってきた。
「閣下、執務はよろしかったのですか?」
「匂いが、執務室まで届いて集中できんのだ。風魔法の換気口を伝い、開いた窓から風となり、この……甘く、焦げたような、脳の髄を痺れさせるような暴力的な香りがな」
ソルスティスの琥珀色の瞳が、コトコトと音を立てる鉄鍋に釘付けになっている。
要約すると、醤油と砂糖、そして豚の脂が溶け合った匂いは、日本人なら誰もが抗えない魔性の香りだが、それは異世界の鉄血領主にとっても同じだったようだ。相変わらずちょろい。
「もう少しで完成します。……あ、ちょうど『主食』が炊き上がるところです」
私はもう一つの分厚い鉄鍋――水晶穀を炊いている鍋の前に移動した。
重い木の蓋からは、シュンシュンと勢いよく白い蒸気が噴き出している。
はじめチョロチョロ、中パッパ。赤子泣いても蓋とるな。
前世の炊飯器の無い時代の教えに従い、火加減を強火から弱火、そして最後の一瞬だけ強火にして水分を完全に飛ばし、火から下ろす。そこから十分間の「蒸らし」の時間を取る。
「主食だと? 我が軍の主食は白麦パンと肉だぞ。その鍋の中身はなんだ」
「まあ、見ていてください」
蒸らしを終え、私は満を持して重い木の蓋を開け放った。
ファワァァァァッ……。
立ち上る圧倒的な蒸気と共に、甘く優しい穀物の香りが厨房いっぱいに広がった。
蒸気が晴れた後、鍋の中に現れたのは――。
「……な、なんだ、これは。白く……輝いている……?」
ソルスティスが、息を呑んで鍋の中を覗き込んだ。
一粒一粒が真珠のように立ち上がり、水分をたっぷりと含んで艶やかに光り輝く、完璧な「銀シャリ」がそこにあった。
私は木の杓文字っぽいもので、ふんわりと空気を含ませるように底から水晶穀を混ぜ返す。そのたびに、艶やかな粒が煌めき、極上の香りが鼻腔をくすぐる。
「これが、水晶穀の真の姿です。閣下、お腹は空いていますか?」
「……愚問だ。すぐに食わせろ!」
私は深い漆黒の陶器の丼を用意した。
そこに、炊き立ての純白の水晶穀をたっぷりと盛り付ける。
その上に乗せるのは、二時間じっくりと煮込まれ、黒豆醤と蜜の色に照り輝く『豚の角煮』だ。箸で持ち上げようとするだけで、自重で崩れてしまいそうなほど、ふるふると震えている。
厚切り肉を三切れ、豪快にご飯の上に乗せ、最後に鍋の底でトロトロに煮詰まった甘辛い漆黒のタレを、肉とご飯の上からたっぷりと回しかける。
白いご飯に、琥珀色の脂と黒いタレが染み込んでいく様は、まさに視覚の暴力(飯テロ)だった。
彩りとして、少し茹でた青菜を添え、ピリッとした辛味を持つ『辛子根』のペーストを皿の縁に付ける。
「お待たせいたしました。『グリス豚の極柔琥珀煮と、水晶穀の炊き立て』です。……タレの染みた穀物と一緒に、お肉を頬張ってください」
食堂へ移動する間すら惜しみ、ソルスティスは厨房の片隅に置かれた作業台で、荒々しくスプーンを手に取った。その光景は他のシェフには異様に映っているだろう。
まずは、タレが染みた水晶穀をすくい、その上に震える角煮の一片を乗せて、大きく口を開けてかき込む。
「…………ッッ!!」
ガタンッ! と、彼が立ち上がった衝撃で椅子が倒れた。
周囲の料理人たちがビクッと肩を震わせるが、ソルスティスはそんなことにはお構いなしだった。
「……溶けた。なんだこれは! ……肉が、肉が噛む前に舌の上で溶けて消えたぞ!?」
彼は驚愕に見開かれた目で、丼の中を見つめた。
「脂身はどこまでも甘く、ゼリーのように崩れる。赤身の部分には、黒豆の塩気と蜜の甘さが髄まで染み込んでいる。そして……なんだ、この穀物は! パサつきなど微塵もない。もっちりとした弾力があり、噛むほどに自然な甘みが滲み出してくる!」
「それが『炊く』という調理法です。水と熱の力で、穀物の中のデンプンを糊化させ、最も美味しい状態を引き出しました」
「……この甘辛いタレと、豚の濃厚な脂。それが、この白く淡白な穀物と合わさることで、互いの長所を爆発的に高め合っている。濃い味付けの肉を、穀物が優しく受け止め、口の中をリセットし……そしてまた、強烈に肉を欲する無限の連鎖……っ!」
鉄血領主の知的な分析は、そこまでだった。
あとはもう、理性を投げ捨てた獣のように、彼は丼に噛み付くようにしてかき込み始めた。
ハフッ、ハフッ、と熱さを堪えながら、スプーンを動かす手が止まらない。
時折、辛子根のペーストを少しだけ肉に乗せることで、ツンとした刺激が味を引き締め、さらに食欲をブーストさせる。
甘辛いタレが染み込んだ純白の米。トロトロの脂身。濃厚な赤身。
それらが口の中で渾然一体となる快感に、彼の額にはうっすらと汗が滲み、普段の冷徹な仮面は完全に崩れ去っていた。
あっという間に丼が空になり、最後の一粒まで舐めとるように食べ尽くした彼は、荒い息を吐きながら天を仰いだ。
「……負けた。私は完全に、この一皿に敗北した」
「お気に召したようで何よりです」
私が安堵の笑みを浮かべると、ソルスティスは倒れた椅子を起こして座り直し、じっと私を見つめた。
その琥珀色の瞳には、かつてないほどの熱と、そして得体の知れない「独占欲」のようなものが揺らめいていた。
「ルシェラ。先ほど、この水晶穀は軍馬の飼料にされていると言っていたな」
「はい。ヴァルガ料理長がそうおっしゃっていました」
「……狂気の沙汰だぞ、これは! 今日から、我が領地における水晶穀の扱いは『特級食材』へと引き上げる。栽培面積を拡大し、お前のその『炊く』という技術を全軍の調理兵に徹底させろ」
たった一食で、領地の農業政策が変わってしまった。
プロの料理人として、自分の出した食事が世界に影響を与えるのは誇らしい反面、彼の安易な決断の速さには恐れ入る。
「分かりました。でも、美味しいご飯を炊くには、ちょっとしたコツと愛情が必要ですよ?」
「お前が教えれば済むことだ。……だが」
ソルスティスはスッと立ち上がると、私の目の前まで歩み寄り、その大きな手で私の頬にそっと触れた。
剣ダコのある硬い指先が、私の頬に付いていたらしい、たった一粒の水晶穀を拭い取る。
「この『極柔琥珀煮』とやらは……私以外の前で作ることは許さん」
彼自身の指についたその一粒の米を、彼は私の目を真っ直ぐに見つめながら、己の口へと運んだ。
その仕草は、どんな愛の言葉よりも艶かしく、そして絶対的な命令を含んでいた。
「あれは、理性を失わせる毒だ。私の前でだけ、その毒を盛れ。いいな」
あまりの距離の近さと、普段の彼からは想像もつかない漢としての色香に、私の顔が一気に熱を持つのを感じた。
「……っ、承知、いたしました。閣下」
その後、当然のお代わりコールである。
領主様は毎日お代わりしに来る。
どころか、どうやら私は、とんでもない美食の猛獣を飼い慣らしてしまったらしい。
次はどんな前世ごはんでこの鉄血領主の胃袋を攻め落としてやろうか。火照る頬を押さえながら、私の料理人魂は密かに、かつ熱烈に燃え上がり始めていた。




