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【連載完結】領主様と私の前世ごはん。領主様が毎日お代わりと言ってくるのですが。  作者: 逆立ちハムスター


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13/14

絶望を溶かす黄金の泉

 昨夜の、文字通り獣のような激しさと甘い熱の名残は、翌朝の私の身体に重く心地よい疲労感として残っていた。


 分厚いカーテンの隙間から差し込む、雪に乱反射した鈍い灰色の光。私が重い瞼を開けると、視界いっぱいに、ソルスティス様の均整の取れた胸板と、鎖骨のあたりに私が無意識に付けてしまったらしい微かな赤い痕が飛び込んできた。


「……んっ」

「起きたか、ルシェラ。随分と可愛らしい寝息を立てていたぞ」


 頭上から降ってきた、いつもよりワントーン低く甘い声。見上げれば、鉄血領主という恐ろしげな異名を持つ男が、私だけに向ける蕩けるような微笑みでこちらを見下ろしていた。彼の手が私の背中を滑り、腰のあたりを引き寄せる。その度、筋肉の軋むような気だるさが全身を駆け巡った。


「ソ、ソルスティス様……。もう朝ですか。私、厨房に……」

「今朝はよい。ヴァルガには、お前は私の看病で手が離せないと伝えてある」

「看病って……ソルスティス様、どこも悪くないじゃないですか!」

「昨夜、お前の与えた『大蒜と紅岩牛の夜食』のせいで、私の理性が深刻なダメージを受けたのだ。その治療には、こうしてお前を抱きしめている時間が必要不可欠だ」


 どこでそんな口説き文句を覚えてきたのか。呆れながらも、彼の体温の心地よさに、私はもう一度だけシーツの海に沈み込むことを許してしまった。


 しかし甘い時間は永遠には続かない。

 午後になり、砦の執務室に戻ったソルスティス様のもとに、深刻な報告がもたらされた。


「――生鮮食品の備蓄が、限界を迎えつつあります」


 報告に上がった後方支援部隊の隊長が、重苦しい表情で告げた。

 予想外の猛吹雪はすでに五日間続いており、王都や南部の豊かな農村地帯からの補給路は完全に絶たれている状況らしい。ファルガルド砦のような最前線の軍事拠点は、もともと長期戦を想定して大量の食糧を備蓄しているが、新鮮な野菜や生肉といった傷みやすい食材から先に消費されていくのは道理だった。


備蓄は大量にあるものの。「残っているのは、大量の『岩塩漬け肉』や『干し肉』、カチカチに乾燥した『山羊のチーズ』、それに備蓄用の硬い『白麦パン』、あとは土室で保管している芋や根菜類ばかり。兵士たちの間でも、『また塩辛い干し肉のスープか』と不満の声が漏れ始めているらしい。私が舌を肥えさせたのも、一因かもしれない。


 その報告を聞き、ソルスティス様は深く眉間を寄せてため息をついた。

 寒さと過酷な雪下ろし作業に耐える兵士たちにとって、「食事」は唯一の娯楽であり、士気を維持するための最大の燃料だ。それが単調で味気ないものになれば、心は容易に折れてしまう。


「干し肉と固いパンの無限ループ(私の口癖から学んだ)か。……ルシェラ、どうにかなるか?」


 執務机の横で報告書を整理していた私に、彼が期待の眼差しを向ける。その瞳の奥には、「お前ならまた奇跡を起こすのだろう?」という絶対的な信頼があった。

 私は小さく頷き、食材のリストに目を通した。


「……問題ありません。乾燥した食材も、固くなったパンも、アプローチを変えれば『最高のご馳走』に生まれ変わります。今日の夕食は、私が兵士全員の胃袋と心を、芯から温めてみせます」


────


 厨房に降り立った私は、ヴァルガ料理長と数人の手伝いのシェフたちを前に力強く指示を飛ばした。


「まずはカチカチに固まった山羊と羊の混合チーズです! これを全部、表面の蝋を削り落としてから、おろし金で細かく削ってください! 腕が痛くなると思いますが、兵士たちの笑顔のためです!」

「おう! 任せとけルシェラ様! この程度の重労働、兵士達の雪下ろしに比べりゃあ準備体操だ!」


 シェフたちが一斉にチーズを削り始める。厨房はすぐに、チーズ特有の熟成された濃厚な香りに包まれた。

 次に私は、大鍋で干し肉と岩塩漬け肉の処理に取り掛かった。

 干し肉はそのまま煮ても固くて塩辛いだけだ。まずは一度、香草を入れたお湯でサッと茹でこぼし、余分な塩分と臭みを抜く。その後、新しく水を張った大鍋に、下処理をした肉、皮ごと大きく切った芋、甘みの強い人参に似た根菜、そして月影葱を放り込み、じっくりと弱火で煮込んでいく。

 これが、前世のフランスの家庭料理『ポトフ』の原型だ。塩漬け肉から染み出した極上の旨味がブイヨンとなり、根菜がその旨味をスポンジのように吸い込んでいく。


「ルシェラ様、チーズの用意ができました! 山のような量ですぜ!」

初めて工場を見学した時を思い出した。

「ありがとうございます。では、各テーブルに用意した小さな鉄鍋を準備してください。……いよいよ、『黄金の泉』を作りますよ」


 私は各テーブルに配るための鉄鍋の内側に、半分に切った星型大蒜の断面をこすりつけ、香りを移していく。そして、鍋を火にかけ、辛口の白ワイン(バルル酒)を注ぎ入れた。


――フツフツフツ……。


 ワインが沸騰し、アルコールが飛んで芳醇な葡萄の香りだけが残る。

 そこへ先ほど削った大量のチーズを数回に分けて投入していく。ここでのポイントは、チーズが分離して油っぽくならないよう、あらかじめ『水晶穀の粉(コーンスターチの代用)』をチーズにまぶしておくことだ。

 木べらでゆっくりと「八の字」を描くように混ぜていくと、カチカチだったチーズがワインの水分と熱でとろけ出し、やがて滑らかで艶やかな、黄金色の液体へと変貌を遂げた。


「仕上げに、黒胡椒とナツメグ(に似た香辛料)を削り入れます。……これで完成です!」


 夕刻の大食堂。

 疲労困憊で席に着いた兵士たちの前に、ポトフの大皿、一口大に切り分けられた固い白麦パン、そして、魔力コンロの上でフツフツと熱い気泡を立てる「チーズフォンデュ」の鉄鍋が運ばれた。


「……なんだこれは? 溶けたチーズのようだが」

「お好みで、パンやポトフの野菜を、串に刺してそのチーズの泉に沈めてからお召し上がりください」


 上座に座るソルスティス様に、私は長い金属製の専用串を手渡した。

 彼は不思議そうに串でパンを刺し、熱々のチーズの中へとくぐらせる。引き上げると、黄金色のチーズがトロリと糸を引き、パンにねっとりと絡みついた。

 湯気とともに立ち上る、熟成されたチーズの暴力的な香りと、白ワインの高貴な風味。

 ソルスティス様はそれをフーフーと軽く冷まし、パクリと口に含んだ。


「…………ッ!!?」


 彼の目が、カッ! と見開かれた。


「な、なんだこの暴力的なコクと旨味は……!!」


 ソルスティス様は串を持ったまま、感嘆の声を漏らした。


「カチカチに乾燥してただ塩辛いだけだった備蓄チーズが、白ワインの酸味と風味が加わることで、信じられないほど芳醇で滑らかなソースへと進化している! そしてこの……固くて顎が疲れそうだった白麦パンだ! 熱いチーズを纏うことで表面が柔らかくなり、噛み締めるほどに小麦の甘みとチーズの塩気が口の中で爆発する!」


 彼はすぐさま次の串に、ポトフで煮込まれた大きく柔らかい芋を刺し、再びチーズの泉へと沈めた。


「そしてこのポトフ! 塩抜きされた肉の旨味が根菜の芯まで染み込んでおり、これだけでも極上の煮込み料理だ。それが、この濃厚なチーズと合わさることで……まるで宮廷の晩餐会で出されるような、重厚で華やかな一皿に化ける! なんだこれは、手が……串が止まらんぞッ!!」


 ソルスティス様の絶叫に近い食レポを合図に、大食堂は狂乱の渦に包まれた。

「うおおお! チーズが、チーズがとろける!」「この芋、肉の味がするぞ! それにチーズが絡んで……最高だ!」「固いパンがこんなに美味くなるなんて!」

 あちこちのテーブルで、兵士たちが串を片手に鍋を囲み、笑顔でチーズを絡め合っている。先ほどの重苦しい空気など、完全に溶け去っていた。

 保存食という制限された食材だからこそ生まれた、知恵と工夫の結集。それが兵士たちの心と胃袋を見事に満たしたのだ。


────


 しかし、自然の猛威は食事の喜びだけで乗り切れるほど甘くはなかった。

 翌日の午後。吹雪がわずかに弱まった隙を突くように、砦の警鐘がけたたましく鳴り響いたのだ。


「――北西の森より、魔物の群れが接近! 『氷牙狼ひょうがろう』の群れです! 数はおよそ五十!」


 伝令の切羽詰まった声に、執務室の空気が一瞬で凍りついた。

 氷牙狼。体長が三メートルを超える巨大な狼の魔物で、雪中での機動力に優れ、その牙には触れたものを凍らせる冷気が宿っているという。普段は深い森の奥に生息しているが、この異常な大雪で獲物が捕れず、飢えに狂って人間の砦まで降りてきたのだ。


「チッ、よりによってこんな時に……!」


 ソルスティス様は壁に立てかけてあった剣を手に取り、分厚い外套を羽織った。その顔は、私に見せる甘い表情から一転し、冷酷で研ぎ澄まされた「鉄血領主」のそれになっていた。


「ソルスティス様、自ら出陣されるのですか!?」

「ああ。吹雪で視界が悪い中、五十の氷牙狼を砦に近づけるわけにはいかん。門の防壁を破られれば、兵だけでなく領民にも被害が出る。精鋭を率いて、森の入り口で止める」


 彼は私の肩を力強く掴み、その琥珀色の瞳で私を真っ直ぐに見据えた。


「心配するな、ルシェラ。夕食までには必ず戻る。……お前の作る温かい飯が待っているからな」

フラグ掠ってるけど……。

「……はい。最高の温かいお料理を用意して、お待ちしております」


 私が気丈に微笑むと、彼は私の額にコツンと自分の額を当て、踵を返して雪の舞う中庭へと向かっていった。


────


 彼が出陣してから、私は落ち着かない気持ちを必死に抑えながら厨房に立っていた。

 討伐隊が戻ってきた時、冷え切った体を一瞬で温め、そして張り詰めた神経を優しく解きほぐすものが必要だ。

 私は夕食の仕込みとは別に、特別な「飲み物」の準備に取り掛かった。調理に打ち込んでいないと、心配でどうにかなりそうだった。屈強なシェフ達は、万が一の為に出払っている。他の使用人達も救急の用意などの設営で忙しい。


 用意したのは芳醇な赤ワイン。それを複数の大鍋に注ぎ、決して沸騰させないように弱火にかけていく。

 そこへ体を温めるスパイスを惜しげもなく投入していく。

 樹皮を丸めたような甘い香りの『桂皮シナモン』、釘のような形をした刺激的な香りの『丁子クローブ』、そして爽やかな風味の『星屑の果実(オレンジやレモンのような柑橘類)』の輪切り。さらに、強い甘みを持つ『太陽樹の蜜』をたっぷりと加える。


――ふわり……。


 いつもより忙しい厨房。でもワインのアルコールがスパイスの香りを引き連れて立ち上り、厨房全体が、まるで冬の暖炉の前のような、深く、甘く、スパイシーな香りで満たされていく。

 前世のヨーロッパの冬の定番、『スパイス入りホットワイン(ヴァン・ショー)』だ。


「どうか、皆様がご無事でありますように……」


 複数の鍋を一人でせっせとかき混ぜながら、私は窓の外の吹雪に向かって何度も祈り続けた。この世界には神がいると信じて。


────


 数時間後。

 すっかり日が落ちた頃、砦の中庭に重々しい足音が響いた。

 討伐隊の帰還だった。怪我人は数十名出たものの、大半は軽傷で、また氷牙狼の群れは見事に殲滅されたという。負傷した兵士達が急遽設営された救急家屋へ使用人達に案内され向かっていく。

そして、愛しい姿がようやく私の視界に。


「ソルスティス様……!」


 私は彼の胸に飛び込んだ。

 そこには、雪と魔物の血に塗れた外套を脱ぎ捨て、深く息を吐く彼の姿があった。怪我はないようだが、その顔色は寒さで青白く、手先は凍えるように赤くなっていた。


「……ただいま戻った、ルシェラ。約束通り、夕食までには間に合ったな」

「お疲れ様でした。本当に、ご無事で……良かった」


前世では戦争経験も、戦地へゆく身内もいなかった平和な日々。

 私は急いで手を引き、閣下専用の休息家屋へ。中に置かれたホットワインのマグカップを、座って休む彼の手の中へと押し付けた。


「まずは、これを飲んでください。体を芯から温める魔法の薬です」

「……いい香りだ。スパイスと果実の香りが、凍てついた鼻腔を優しく撫でていく」


 ソルスティス様はマグカップを両手で包み込み、その温もりを確かめるようにしてから、ゆっくりと口をつけた。


「…………ふぅっ」


 彼が息を吐き出した瞬間、張り詰めていた彼から、闘気という名の鎧が音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。


「……美味い。赤ワインの渋みが蜜の甘さでまろやかに調和され、シナモンとクローブの香りが、喉から胃の腑へと熱い一本の道を作り出していく。飲んだそばから、指先から足の先まで、凍っていた血が溶けて巡り始めるのが分かる……」


 彼はゆっくりと、しかし確実にカップの中身を飲み干していった。

 飲み終わる頃には、青白かった彼の頬に赤みが差し、その琥珀色の瞳は、いつもの私を射抜くような熱と優しさを取り戻していた。


「……ルシェラのおかげで、完全に生き返った。お前は料理だけでなく、こうして私の魂まで温めてくれるのだな」

「そんな、大げさです。ただのホットワインですよ。……でも、効果があったみたいでよかったです」


 私が空になったカップを受け取ろうとした瞬間、彼は私の手首を掴み、そのまま自分の膝の上へと私を引き寄せた。


「ソルスティス様、まだ雪の冷たさが……」

「いや、もう熱い。お前が飲ませたこの魔法の酒のせいでな」


 彼の腕が私の腰を強く抱きしめ、首筋に顔を埋めてくる。

 スパイスの香りと、赤ワインの芳醇な香り、そして彼の男らしい匂いが混ざり合い、私の頭までクラクラしてくる。ホットワインのアルコールは少し残っていたため、彼も少し酔っているのかもしれない。


「配膳の準備が……兵士たちも待っています」

「食べる前に、少しは休憩を挟まねば。息が上がったままでは入る物も入らん。……それまで、この温まった体で、私をさらに燃え上がらせてくれないか?」


 彼の大きな手が私の背中をなぞり、熱を帯びた唇が、私の耳たぶを甘く噛んだ。

 ビクッと肩が跳ね、口から微かな吐息が漏れる。


「あ……んっ、だめです、誰か来たら……」

「鍵は閉めた。……お前が私をこんなに甘やかすから、私はもうお前なしでは生きていけなくなったのだ。責任は、一生かけて取らせるからな」


 もはや逃げ場はなく、そして私自身も逃げる気など微塵もなかった。

 ホットワインの熱に浮かされるように、私たちは互いの体温を確かめ合うように深く口付けを交わした。

 雪に閉ざされた辺境の砦。しかし、この部屋の中だけは、どんな真夏の太陽よりも熱く、そして甘く、二人の時間を焦がしていくのだった。

 黄金のチーズと琥珀のワインが繋いだ絆は、もうどんな吹雪にも凍りつくことはない。

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