冬の籠城戦
黄金色の秋が過ぎ去ると、国境の地ファルガルド砦には、容赦のない長く厳しい冬が訪れる。
数日前から降り続いた雪は砦の周囲を白一色に染め上げ、王都へと続く峠道を完全に封鎖してしまった。いわゆる「雪による天然の籠城戦」の始まりである。
砦内の大広間では、ソルスティス様をはじめとする軍の幹部たちが、分厚い毛皮の外套に身を包みながら、寒さと疲労で険しい顔を突き合わせていた。
「……南部の備蓄庫への道は確保できたか?」
「はっ。しかし、例年よりも積雪が多く、雪下ろしの作業で兵たちの体力は限界に近づいております。このまま猛吹雪が数日続けば、士気の低下は免れません」
吐く息は白く、部屋の隅にある暖炉の火も、広大な石造りの広間を温め切るには到底足りない。
鉄血領主と呼ばれるソルスティス様でさえ、その端正な顔立ちには疲労の色が濃く滲んでいた。
(……こんな時こそ、私の出番よね)
私はヴァルガ料理長と頷き合い、あらかじめ用意しておいた「秘密兵器」を乗せたワゴンを押して、重い扉を開け放った。
「軍議の最中に失礼いたします。領主様、並びに将軍の皆様。……冷え切った体を芯から叩き起こす、冬の『特効薬』をお持ちしました」
幹部たちの怪訝な視線が私に集まる。
私がワゴンの上にセットしたのは、魔力石を熱源としたドワーフ製の携帯用のコンロと、底が平らで浅い、分厚い、巨大「黒鉄の鍋」だった。
「ルシェラ。これは、なんだ? 錬金でも始めるのか?」
「錬金ではありませんよ。そして、煮込み料理でもありません。『焼き』と『煮る』の境界線を攻める、究極の肉料理――『鋤焼き(すきやき)』です!」
私は幹部たちの目の前で、熱した黒鉄の鍋に、雪のように白い『紅岩牛』の牛脂の塊を滑らせた。
――チリチリチリッ……!
牛脂が溶け出し、野性的な甘い脂の香りが一気に広間を満たす。
そこへ投入するのは、限界まで薄く、そして大きくスライスした紅岩牛の霜降り肉だ。
――ジュワァァァァァァッ!!
鉄肌に肉が触れた瞬間、暴力的な焼き音が爆発する。
赤い肉がみるみるうちに茶色く色づいていく。私はすかさず、そこに『太陽樹の蜜(砂糖の代わり)』と『黒豆醤(醤油)』、そして少しの酒を直接肉の上から回しかけた。
「肉を焼いている最中に、甘みと塩気を直接ぶつけるのか?」
焦げた黒豆醤と蜜が鉄鍋の上でキャラメリゼされ、先ほどの牛脂の香りと混ざり合い、もはや致死量とも言える「甘辛い焦がし肉」の香りが幹部たちの鼻腔を直撃した。
喉を鳴らす音が、広間のあちこちからゴクリ、ゴクリと聞こえてくる。
「これが『関西風』と呼ばれるロジックです。まずは肉そのものの旨味と香ばしさを、ダイレクトに味わっていただきます」
私は焼き上がったばかりの熱々の肉を小鉢に取り分け、あらかじめ用意しておいた『ハルブネラの生卵』を一つ割り入れた。唯一、生でいける卵だ。
シャカシャカと軽くかき混ぜてから、ソルスティス様の前に差し出す。
ヴァルガ料理長は次々と将軍達の前にも溶き卵を用意していく。
「さあ、ソルスティス様。この溶き卵に、熱いお肉をたっぷりと絡めて……一口でどうぞ」
「……生卵に、焼きたての肉を沈めるのか? ますます正気を疑う調理法だが……」
彼は疑り深い目をしながらも、漂う香りの暴力には抗えず、黄金色の卵液を纏った大きな肉切れを口へと運んだ。
「…………ッ!!?」
ソルスティス様の琥珀色の瞳が、驚愕に見開かれた。
「なんだ、これは……!!」
彼は言葉を失い、すぐさま二口目を要求するように私を睨みつけた。
「黒豆醤と蜜の、焦げるほどに強烈な甘辛さ! それが、溶け出した紅岩牛の強烈な脂と絡み合っている。だが、それだけならただ味が濃いだけの肉だ……。この『生卵』が、すべてを支配している!!」
彼は興奮した様子で、小鉢の底に残った卵液を見つめた。
「熱々の肉を冷たい生卵にくぐらせることで、火傷するほどの温度が心地よい温かさに中和される。そして、卵のまろやかなコーティングが、暴力的なまでの味の濃さを優しく包み込み、噛んだ瞬間に肉の奥からジュワリと旨味を解放させるのだ……! まるで、肉が黄金の衣を纏って舌の上で踊っているようだ!」
鉄血領主の完璧な食レポに、周囲の幹部たちももはや我慢の限界だった。
「ル、ルシェラ様! 我々にも! その『すきやき』とやらを!!」
「俺にもだ! 早くその肉を味わわせてくれ!!」
「はいはい、順番ですよ♪ ここからは野菜も入れますからね!」
私は肉汁と甘辛いタレ(割り下)が残る鍋に、白麦パンの生地を茹でた『焼き麩』、長ネギ(月影葱)、そしてキノコ類を次々と投入していく。
肉の旨味を吸い込んだ野菜たちは、それ自体が主役級のご馳走へと変貌する。
寒さに震えていたはずの広間は、いつの間にかすき焼きの熱気と、肉を奪い合う幹部たちの熱気で、むせ返るような暑さになっていた。
最後に、余った卵液とタレを、炊きたての『水晶穀(お米)』にかけてかき込む「すき焼き卵かけご飯」を提供すると、幹部たちの何人かはあまりの美味さに涙を流して天を仰いだ。そしていつの間にか運び込まれた麦酒やハチミツ酒で宴会のような盛り上がりになっていた。
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「……まったく。我が軍の精鋭たちが、揃いも揃って餌を与えられた猟犬のような顔になりおって」
嵐のような宴が終わり、幹部たちが満足げに(あるいは腹を抱えて)部屋に戻った後。
少し窓を開けて換気をしている私の背後から、分厚い毛皮の外套がバサリと掛けられた。
振り返ると、ソルスティス様が私ごと外套で包み込むように、後ろから抱きしめていた。
「ソルスティス様……。お口に合いましたか?」
「愚問だな。あの冷え切った軍議の空気を、錬金鍋一つで吹き飛ばしたのだ。……お前は本当に、私の軍の士気を操る魔女だな」
彼の大きな手が、私の冷えた手先を包み込み、優しく揉み解す。
彼の体温が背中越しに伝わり、すき焼きとは違った意味で、体が芯から熱くなっていくのが分かった。
「皆さんが元気になってくれてよかったです。これで雪下ろしも頑張れますね」
「ああ。……だが、一つだけ不満がある」
彼が私の耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。
「お前が他の者たちにまで、あんな蕩けるような『黄金の肉』を振る舞ったことだ。……あの肉を美味そうに頬張る者たちの顔を見た時、すべて私の皿に取り上げてやりたくなったぞ」
「ふふっ、領主様がそんな子供みたいな我儘を言わないでください。あれはみんなの士気を高めるための……」
言い訳をしようとした私の言葉は、彼の唇によって塞がれた。
彼の熱い吐息が絡み合う。
「……罰として、今夜は私の部屋で『私だけの夜食』を作れ。雪に閉ざされて暇を持て余しているのだ、朝まで寝かさんぞ」
「そ、それなら、もっとスタミナのつくものを……」
窓の外では容赦ない吹雪が吹き荒れていたが、彼の腕の中にある限り、この砦の冬はどこよりも甘く、そして熱く溶けていく。
私と鉄血領主の美味しい籠城戦は、まだ始まったばかりだった。




