勝利を約束する味
私がこのファルガルド砦に来て、早数か月……。
ファルガルド砦は、かつてない実りの秋が到来していた。
南部の湿地帯――バリオス伯爵からむしり取った……もとい、正当に獲得した予算を全額つぎ込み、兵士と領民が一丸となって開拓したその土地は今、見渡す限りの黄金色に染まっていた。
「……信じられん。あの泥と葦しかなかった不毛の地が、これほどの黄金を生み出すとは」
小高い丘の上から吹き下ろす秋風に目を細め、ソルスティス様が深く息を吐き出した。
彼の隣には、今やすっかり「領主の婚約者」として定着してしまった私が並んで立っている。最初は猛反発していた古参の者たちも、私の作る『賄い飯』の前に次々と胃袋を陥落させ、今では「ルシェラ様を泣かせる奴は、たとえ領主様でも俺たちが許さねえ!」と謎の親衛隊と化している始末だ。
「ええ。皆の努力の結晶……『新米』です。水晶穀は、収穫したてが一番水分を含んでいて、甘くて美味しいんですよ」
「新米、か。いい響きの言葉だ」
ソルスティス様は私の腰に自然な動作で腕を回し、ぐっと自分の方へ引き寄せた。
公の場でも平気でこういうことをするようになったのは、あの朝の「プロポーズ」以来だ。
「今日の夕餉は、この新米を使った盛大な収穫祭だ。頼んだぞ、私の専属料理師殿」
「ふふ、お任せください。この黄金色の波にふさわしい、最強の『ご馳走』をご用意しますから!」
────
砦の厨房は戦場のような熱気に包まれていた。
本日は領主と農民たち合同の無礼講の宴。私がその主役に選んだのは、新米のポテンシャルを限界まで引き出す、前世における最強の丼物――『カツ丼』だ。
主役となる肉は、赤身と脂身のバランスが絶妙な『グリス豚』の分厚いロース肉。
まずは肉の筋を包丁の先で断ち切る。これを怠ると、揚げた時に肉が反り返り、硬くなってしまうからだ。さらに肉叩き(この世界では木槌)で全体を均等に叩き、繊維を柔らかくほぐす。
「ヴァルガ料理長! 『白麦パン』は粗めに削ってパン粉にしてください! 乾燥させすぎず、少し水分を残した『生パン粉』でお願いします!」
「おう! 任せとけ!」
塩胡椒で下味をつけた豚肉に、小麦粉、溶き卵、そしてヴァルガ料理長特製の生パン粉をたっぷりとまぶしつける。生パン粉を使うことで、揚げた時に衣がツンツンと立ち上がり、サクサクの食感と、後でつゆを吸い込む「余白」が生まれるのだ。
熱した豚脂の海へ、分厚い肉を静かに投下する。
――ジュワワワワワッ!!
厨房に暴力的な揚げ音が響き渡る。
キツネ色に揚がった豚肉を網に上げ、ザクッ、ザクッと等間隔に包丁を入れる。その断面からは、うっすらと桜色をした肉から透明な肉汁が滲み出していた。これだけでも十分すぎるほど美味しそうだが、カツ丼の真髄はここからだ。
別の浅い鍋に、昆布に似た海草と干しキノコで取った強烈な旨味の出汁、黒豆醤(醤油)、そして太陽樹の蜜を合わせた「特製の割り下」を沸かす。
そこに薄切りの月影葱(玉ねぎ)を入れ、しんなりしたところで、先ほど切ったトンカツを一切れの隙間もなく並べ入れた。
――グツグツグツ……。
甘辛いつゆを、下半分の衣がスポンジのように吸い込んでいく。
ここで、軽く溶いた『風切り鳥』の卵の出番だ。白身と黄身が完全に混ざり切らないよう、あえて粗く溶くのがポイント。
それを鍋の中心から外側へ向かって、円を描くように流し入れる。
すかさず蓋をして、心の中で十秒数える。
九、十……!
火から下ろし、炊き上がったばかりの、真珠のように輝く『新米』をよそった大きなどんぶりの上へ、鍋の中身を滑り込ませた。
「完成……! 『厚切りグリス豚の黄金卵綴じ(カツ丼)』!」
いつものように私のお手本をすぐに取り入れ、ヴァルガ料理長率いる精鋭シェフ達が量産していく。
────
大食堂に集まった兵士たちの前に、次々と、どんぶり(私が鍛冶職人に事前に発注しておいた)が運ばれていく。
上座に座るソルスティス様の前にも、一際大きな特別製のどんぶりが置かれた。
「……ルシェラ。これは、一体なんだ? 揚げた肉を、わざわざ煮込んで卵で閉じたというのか?」
ソルスティス様はどんぶりから立ち上る、出汁と甘辛い醤油、そして豚の脂が混ざり合った圧倒的な香りに、早くも喉を鳴らしていた。
「はい。サクサクの衣につゆを吸わせることで、ご飯に最も合う最強の『おかず』へと進化させたのです。……さあ、冷めないうちに」
彼は迷わず木のスプーン(今回は箸ではなく、豪快にかき込めるようにスプーンを用意した)を手に取り、卵とつゆを纏った分厚いカツ、そしてその下にある新米を一緒に掬い上げ、口へと運んだ。
「…………ッ!!」
カッ! とソルスティス様の目が限界まで見開かれた。
「またこれは、これは……!!」
彼は大声を上げ、咀嚼もそこそこに次の一口を猛然と掬い上げた。
「揚げた衣の上半分は香ばしいサクサク感を残しているのに、下半分は甘辛い出汁を限界まで吸い込み、口の中でジュワァッと旨味の洪水を起こす! そしてこの分厚い豚肉! 噛み切るほどに溢れる野性的な脂の甘みが、ふんわりと綴じられた半熟卵のまろやかさと完璧に抱き合っている……!」
ザクッ、ジュワッ、トロッ。
計算し尽くされた食感の三重奏が、彼の理性を一瞬で吹き飛ばした。
「そして……この底にある『新米』だ! 豚の脂と、甘辛い出汁を吸い込んだ米が、一粒一粒立っている! 以前の水晶穀よりも遥かにみずみずしく、強い甘みを持っているではないか! 上の肉が重厚だからこそ、この米がすべてを優しく、力強く受け止めている……ッ!」
もはや言葉は不要だった。
カチャカチャとスプーンがどんぶりの底を叩く音だけが、食堂中に響き渡る。
兵士たちも農民も同様だった。「うおおお!」「米が止まらねえ!」「俺、この領地に骨を埋めるぞ!」と、あちこちで歓喜の叫びが上がり、狂乱の宴と化していた。
あっという間に大盛りカツ丼を平らげたソルスティス様は、深く、長いため息をつき、空になったどんぶりを置いた。
「……美味かった。このどんぶり一つの中に、我々が泥にまみれて手に入れた『黄金』のすべてが詰まっていた」
「新米のポテンシャルがあってこそですよ。皆さんの努力の味です」
私が微笑むと、ソルスティス様はスッと立ち上がり、私の手を取った。
そして何百人という兵士と領民がいる前で、私の手の甲に恭しくキスを落としたのだ。
「ソ、ソルスティス様、皆が見て……!」
「見せておけばいい。それに皆、食事に夢中だ」
彼は悪びれもせず、低くよく通る声で宣言した。
「聞け、お前たち! この極上の飯を作ったルシェラは、私の未来の妻だ! この領地を豊かにしたのは私の剣ではない、彼女の『料理』だ! 異論のある者は前に出ろ!」
一瞬の静寂の後。
「「「うおおおおおっ!! 領主様バンザイ!! ルシェラ様バンザイ!!!」」」
割れんばかりの歓声と、ジョッキを打ち鳴らす音が大食堂を揺るがした。
真っ赤になってうつむく私の耳元で、ソルスティス様が甘く、悪戯っぽく囁く。
「……これで、お前はもう正式に逃げられなくなったな」
「逃げる気なんて、最初からありませんよ。……私の料理で、一生あなたを太らせてみせますから」
黄金色の新米がもたらした、最高の収穫祭。
辺境の砦は今夜、どこよりも温かく、そして美味しい熱狂に包まれていた。




