その花が咲くのは何がためか
「おはよう、ヨハン」
朝一番、廊下で私が背後からそう声をかけると、ヨハンはおもむろに振り返り、呆けた顔を私に向けた。私は待った。ヨハンは考え込むように自らの顎を撫で、困惑した眼差しを私に注いだ。私はさらに待った。
「……ああ、おはよう」
虚ろなその声に、私は一抹の不安を覚えた。彼は相当怒っているのかもしれない、と。一方的に喚き、散々無視を決め込んでおいて、私がのこのこと目の前に現れたのが気に入らないのではないか。砂を食べているかのような舌の感触が、頼んでもいないのに己の緊張を知らせた。あれほどまでに怒ることではなかったのだと、私に囁きかけ、嘲笑する声が聞こえる気がした。
「……怒っているわよね」
我ながら馬鹿げた問いだったけれど、他に何と言うべきか私にはわからなくなっていた。否、まずは謝るところだろう。思考が空回りを始めそうになり、私は勝手に慌てふためいた。混乱の最中、何とか謝罪の言葉を組み立てようとしていると、ヨハンがふと私に背を向けた。
「怒っているとも。君にはうんざりするよ」
私は耳を疑った。疑い、確信し、愕然とした。世界が色を失った気がした。この人に見捨てられてしまったら、一体誰を縁にすればいいのか。よもや、この屋敷を叩き出されるのではないか。自業自得だ、何故お前はこうも愚か者なのだ。心は動乱の最中にあり、滂沱のごとき後悔と己に対する怨恨に襲われて、私は身動きを取れなくなった。
『我が儘娘』
誰かが私に聞こえるようにそう言った。この部屋には私とヨハンの他に誰もいないというのに。否、これは遠い記憶の声である。そうだ、誰かがよく私を罵ったものだ。私がいけないから。
「――リタ?聞いているか?」
と、ヨハンは私の肩を軽く揺さぶった。私は現実に引き戻され、案じるように私の目を覗き込むヨハンの顔を見つめた。
「酷い顔色だぞ。なあ、さっきのは――」
「ごめんなさい……本当にごめんなさい!私がいけないのはわかっているの。ねえ、許してなんて言えないけれど、でもどうか見捨てないで。私にはあなたしかいないのに、何て馬鹿なことをしたのかしら?お願いだから、独りにしないで。本当に、ごめんなさい」
私は間抜けのようにヨハンに縋りついた。突き飛ばされるのがただ恐ろしくて堪らなかった。私を鬱陶しく思う人間にこのような醜態を晒すなど、むしろ逆効果だということを一切思いつかないまま。錯乱する私は、別の行動を考え付いて実行するに至るまでの精神力を持ち合わせていなかったのである。
ヨハンは黙ったまま、そっと私を身体から引き離した。私は最後の慈悲をかけられている気がした。目を合わせることなどできるはずもなく、私はうなだれて彼の剣の鞘を茫然と見下ろした。すると、彼の温かな手が頬に触れた。
「まあ、待ってくれよ。リタ、まず俺は絶対に君を見捨てはしない。そう約束しただろう?」
私は辛うじて頷いた。ヨハンは不思議なほどまっすぐに、大自然の輝きを包み込んだかのような瞳をこちらに向けている。それから、彼は弾かれたように笑い出した。私はその愉悦についていけず、むしろ零れかけた涙をそのまま流すことしかできなかった。ひとしきり笑った後で、ヨハンは静かに私の髪を撫で始めた。
「いや、参ったな。まさか本気にするとは……悪かったよ。まだ、君が俺の知る通りの君じゃないことを上手く呑み込めていないのかもしれないな」
「……どういうこと?」
「何、記憶を失くす前の君は、喧嘩の後に俺が謝らないと、仲直りしようとしていたことも忘れて怒り出すのが常だったからな。俺はそれが面白くて、わざとふてくされたふりをしたものだよ。だが、本当に悪かった。あんなに取り乱すとは思わなかったんだ」
そう言って、ヨハンはそのまま私の頭を胸に引き寄せた。その鼓動を聞くうちに、私は今唯一持っているものを失わずに済んだことを実感し始めた。安堵が染み渡り、私は何だかそのまま溶けてしまいそうだった。しかし、と、私はヨハンの胸板を両手で優しく押し返し、彼を見上げた。
「ヨハン?」
「何だ?」
「私、虚仮にされていたの?」
「……まさか、怒っているのか?」
「何だかすごく腹が立ってきたわ」
私が絶望の淵に立たされたなどとは、彼も思っていまい。ただの悪ふざけのために喰らうには大きすぎる損害であった。ヨハンは困ったように小首を傾げたが、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「うん、その意気だぞ、リタ」
私はすぐにはその意味を取りかねて唖然とした。しかし、理解した途端、すっかり力が抜けて怒る気にもなれなかった。ため息なのか笑いなのか自分でもわからぬものを吐き出しつつ、私はヨハンから離れた。
「これで仲直りよね?」
「ああ、そうしよう。これ以上サミュエルを困らせるわけにもいかないしな」
それはまったくその通りであった。私は微笑みを返しながら、サミュエルについて尋ねたいことがあったことをぼんやりと思い出した。そのことを口にしようかと考えていると、先にヨハンが尋ねた。
「それより、変なことを聞くようだが、何か思い出したのか?」
「……どうして?」
図星を突かれ、私は奇妙な畏怖をヨハンに対して抱いた。記憶の逆流と共に起こる胸騒ぎが小波のように心を揺らした。ヨハンは墓石でも眺めるかのような神妙で切なげな面持ちで首を振る。
「あの君を、俺は知っているんだ。何か嫌な記憶が蘇ったわけじゃないといいんだが」
実におぞましい記憶だったと、そう言い切っても構わなかった。けれど、それは断片的かつ曖昧模糊としていて、決定的な何かに欠けていた。その手掛かりをヨハンならば持っているかもしれない。だが、今この場で共に記憶を掘り起こすのは気が進まなかった。知りたいと思うことと、実際に知るために動くことはまったく別の問題である。今でなくていい。特別相応しい時機があるとも思えないけれど、己の恐懼に従順であるほうが私には楽だった。
「そういうわけじゃ……あ、ねえ、そういえば、その……そう、サミュエルのことなのだけれど」
我ながら酷いはぐらかし方であった。ヨハンは狼狽えたようであった。しかも、私が切り出しておきながら何も続けようとしないので、さらに彼は困惑して眉をひそめた。
「サミュエルがどうかしたのか?」
「ええ、その、気になることが。つまりね、おかしいのよ……」
まったく、おかしいのは私のほうである。しどろもどろになりながら――それでも、何とか話題を逸らせたことに安堵して――、私は少年に対する懸念を説明しようとした。すると、突然このぎこちない空気を斬り裂くような甲高い声が割り込んできた。
「まあ、リタ!ちょうどあなたを探しにいこうと思っていたのよ!」
うんざりするべきか、よくぞと喜ぶべきか。私が決めかねている間に、軽やかな足音が駆け寄ってきて、私の腕には蔦が絡まった。まだ早朝だというのに、彼女は何時間も前から起きていたかのように溌溂としていて、それが私には気後れするほど眩しかった。
「何だか調子が良さそうね、ヒルダ」
「あら、いつも通りよ。――ご機嫌よう、ヨハン!あなたの妹さん、少しお借りしたいのだけれど?」
「ん?ああ……」
ヨハンは面食らって鈍い返事を返した。それはヒルダにとっては了承の意を十分に示したと見える。彼女は早速私の腕を強く引いた。
「では、参りましょう!」
「待ってちょうだい、どこへ行くつもりなの?それに、出かけるなんて一言も――」
「とっても素敵なことを閃いたのよ、私!けれど、他の方に……特にヨハンのような人には聞かれるわけにはいかないの。さ、いいからいらしてよ」
私はそれ以上の反駁を許されずに連行された。すれ違いざまに見たヨハンの顔は不平に不平を重ねた色をしていたが、彼もヒルダを引き留めることができないことくらいはわかっていた。私はそのままヒルダの部屋まで引っ張られていった。扉を閉めると、ヒルダは興奮した面持ちを私に向けた。どうにもあまり良くない予感がする。
「リタ、私の影武者になってくださらない?」
何と発想力の豊かなことか。危うく卒倒しかけながら、私は何とか平静を保った。
「何……どういうことなの?」
「ですから、影武者よ!今日一日、私のふりをなさってほしいの。ね、簡単でしょう?」
「いいえ、まったく。まず、どうして私があなたの影武者をするの?」
「私、内緒で行きたいところがあるの!けれど、街に出るときは必ずお目付け役の小母様がついてきて、私のことをずうっと見張っているのよ。そこでね、リタ、あなたが私のふりをしてしばらく歩いていてくださるなら、私がこっそりその監視の目から抜け出せると思いついたというわけなの。ほら、あなたって、背格好が私にそっくりでしょう?心配しなくても、サミュエルと出かけるということになっているから、あなたが退屈することはなくてよ。サミュエルにはまだ言っていないけれどね!ともあれ、名案でしょう?」
私はしばらくの間、呆れてものも言えなかった。どこから訂正すべきなのやら。私は出かける気分ではないし、彼女の影武者をしたとて、損こそないが得もない。出かけることになっているとかいうサミュエルを、まず説得してもいないときている。そもそも、この姉弟はさほど仲が良くないのではなかったか。突然二人で街に繰り出すというのもおかしな話である。しかし、それらすべてを懇切丁寧に説明する気にもならなかったので、私は一番最初の誤りだけを指摘することにした。
「私、今日は中にいたいのよ」
「あら、そう?けれど、あなた、ずうっとお屋敷に引き籠っているじゃない?それだから塞ぎ込みたくなるのよ!今日は出かけて、気晴らしをしたほうがいいわ!」
「塞ぎ込んでなんて……」
「隠さなくてもわかるのよ、お友達だもの!それに、ヨハンと喧嘩していたのでしょう?外の空気を吸うとね、リタ、些事も気にならなくなるんですって!まあ、もう仲直りしていたようだけれど。いずれにせよ、街に出るのも悪くないわ!あなたの健康にもね」
何故ヒルダまで、ヨハンとのくだらぬ諍いのことを知っているのだろう。私は密かにため息を漏らした。何はともあれ、これ以上の抵抗は無意味であるように思われた。それに、残念ながら、街に出て普段と違うことをするのは確かに悪くない考えだった。自分が不健康だと思ったことはないにせよ。
「わかったわよ……それで、私はどうすればいいの?」
私が諦念と共に尋ねると、ヒルダはこの上ないほど目を輝かせ、無言で部屋の奥にある扉に向かった。彼女が勢い良く開け放ったその扉の先にはもう一つ部屋があり、ずらりと衣装が並べ立てられていた。そのすべてが丁寧に保管され、次の出番を今か今かと待ち受けている。ヒルダは色とりどりの密林に飛び込むと、ものの数秒で衣装を抱えて戻ってきた。それを私に爛々と差し出す。
「これを着てくださる?ほら、今日の私の恰好と色味がそっくりでしょう?小母様はもうご高齢だから、うっかり目を悪くしてしまわれたのよ。だから、色が同じなら私だと思うはずだわ」
「それはどうかしら……」
「あら、大丈夫よ!近くで見張られるわけでもなし」
ヒルダは自信に満ち満ちて答え、ぐずぐずする私の手に衣装を押しつけた。仕方がない。私がしっかりとそれを受け取ったのを確かめると、彼女は今度は小躍りするような足取りで、唐突に廊下に出ていってしまった。嵐のような人である。彼女の相手をするには、底のない辛抱を要求されるのだ。そうでなければ、根こそぎすべてを吹き飛ばされてしまいかねない。
すでにくたびれた気分で待っていると、廊下からヒルダの弟を呼ぶ歌声が響いてきた。なるほど、私の次は曲者に交渉を仕掛けるらしい。彼女は傍らに弟を従え、再び部屋に姿を現した。サミュエルはまだ寝間着のままで寝ぼけ眼を擦っていたが、ヒルダの衣服を抱える私の姿を見止めて少し目が覚めたようであった。
「姉さん、これは何事?」
「サム、今日は一緒に街に下りましょう!」
「姉さんと?」
サミュエルはあからさまに嫌そうな顔をした。私が普段見るのは素直であどけなさの残る表情ばかりなので、サミュエルのこの様子は少々新鮮であった。ヒルダは見慣れているのか、見えていないのか、弟の不服の顔つきなど気にも留めずに続ける。
「ええ、そうよ。とはいえ、あなたが時間をつぶすのは、私とではなくリタと、ということになるのだけれどね!いいでしょう?あなたたちが仲良しなこと、私は知っているもの!」
すると、サミュエルは姉の企みを察したらしく、大袈裟な仕草で天井を仰いだ。深々とついたため息は、何か大人びたものを私に感じさせた。
「あのね、姉さん。誰に会いにいこうと姉さんの勝手だけれど、僕やリタを巻き込まないでもらえるかな。もし替え玉に気付かれでもしたら、僕たちまで説教喰らうよ」
「大丈夫よ、何度かこういう計画に気付かれたことはあるけれど、私はお説教なんてされたことないもの!」
「それは、父さんの気が鎮まるまで姉さんが部屋から出てこないからだよ……」
サミュエルは呆れたと言わんばかりにかぶりを振った。私とは違い、ちょっとやそっとではヒルダの強引さにも負ける気はないようである。私は内心サミュエルを応援した。彼が来ないと決まれば、おそらく私も出かけずに済むだろう。しかし、ヒルダはまさに強靭であった。
「何よ、サム!姉さんのことを助けたいと思わないなんて、酷い弟ね!いいわ、協力してくれないなら、お父様にあのこと話してしまうから!覚悟なさいよ、悪戯小僧さん!」
と、ヒルダは突然へそを曲げ、ふいと弟に背を向けた。サミュエルのほうはというと、余裕のあった態度は見る影もなく、子どもらしく慌てふためいた顔で姉の背を見つめている。親に知られては困る秘密があるのは、どこの子どもも同じらしい。
「待ってよ、姉さん。それはちょっとずるいじゃない」
「もう決めたんだもの、絶対にお父様に言いつけるわ!残念だったわね、サム!」
ヒルダは弟に見られていないのをいいことに、私に勝ち誇った目配せを送ってきた。私は何とか笑みを堪えた。ここまで来ると、最早面白がる他に手がない。サミュエルは唇を噛んで考え込んだが、結局、不承不承白旗を振った。
「わかったよ、言うとおりにする。だから、とにかく勘弁してよ」
そう聞くと、ヒルダは満面の笑みで振り返った。結果がどうなろうと、ヒルダに初めからサミュエルの悪戯を通報する気がないというのは私には何となくわかるのだけれど、サミュエルにとってはそうではないらしい。彼女はともあれ得意げに鼻を鳴らし、堂々胸を張って宣言する。
「私を根負けさせようだなんて、甘かったわね!さ、リタ、サムの同行も決まったことだし、早速支度に取り掛かりましょう!他の手配はしっかり済ませてあるの、さすがと言ってくれても構わなくてよ!」
そうして、ヒルダの計画の下、私はあれよあれよという間に着替えさせられ、髪を誤魔化すための帽子を被らされ、馬車に乗せられて、先んじて街に送り出された。ヒルダとサミュエル、そして彼女のお目付け役の女性はすぐ後に――ヒルダはすぐだと強調した――私に追いつく手筈になっていた。私は指定された喫茶店で彼らを待つことになっていたけれど、どうやって入れ替わるのかを聞き損ねていたので、必ず上手くいくと言い張るヒルダには半信半疑であった。
屋敷の他の侍従に漏れず、私を乗せた馬車の御者をした男は酷く不愛想だった。それでも、ヒルダからのわけのわからない頼みを聞くだけ、人間味は残っているようだが。私を降ろすと、馬車はさっさと走り去った。帰るときには戻ってきてくれるのかしら。
通りの賑やかさは何となく落ち着かなかった。私は雑踏の中、何とか約束の喫茶店を探し出し、中に逃げ込んだ。建物の中は仄暗く好ましかったけれど、騒がしさは外とあまり変わらなかった。客の大半は口髭を整えた男性で、彼らは顔を突き合わせ、脇目も振らず活発に議論を繰り広げていた。見慣れない光景である。私は横木の端に辛うじて静かそうな席を見つけ、そこに向かった。
少し高すぎる座席に腰掛けると、横木の向こうから給仕が歩み寄ってきた。こうも騒がしいと味を楽しむどころではないけれど、ただ居座っては失礼だろうか。仕方なく、私は顔を上げて給仕を見た。まさか、そうしなければ良かったなどとすぐに思うことになるとは知らずに。
そこに立っていたのはハンスだった。狼藉の廉でゲルトガ邸を追われた彼が、今目の前に突っ立って、茫然と私を見つめているのだ。私たちは言葉を見つけることができなかった。互いに恨み合っていてもおかしくはなかった――私は彼に襲われたことになっていたし、彼は冤罪を訴えながら屋敷を去ったのだ。
しかし、私は己の感情を理解できなかった。あの事件の犯人はハンスでなければおかしかった。他にはありえない、そう私は頭で信じている。けれど、心で感じているものは違った。理屈では説明できない何か、知らないことがあるからこそ判断できないことの真相を教示しようとする奇妙な力が、強く私に訴えかけるのだ。それはあの日、ハンスが裁かれたあの日に、憤怒と憎悪の炎をたちまち掻き消した喪失感であり、今この再会に際して私を温める懐古の情なのであった。
「ハンス……」
私が呟いても、ハンスは身じろぎもせずにただ私を眺めていた。まるで、少しでも動けば、震えた空気が私を破壊してしまうと思い込んでいるかのようである。あるいは、それは嫌悪だろうか。部外者に過ぎなかった私が、彼が心から愛する屋敷を奪ったことに対する怨恨。それが私たちを遠ざけるのか。私はじっと待った。何を期待しているのかは、自分でもわからなかったけれど。
「……逃げないんですか」
やがて、彼はそう呟いた。
「どうして?」
「あなたを傷つけようとした犯人が目の前にいるんですよ」
と、ハンスは自嘲気味に呟き、神経質な笑みを浮かべる。かつて彼の瞳にあった和やかさはどこかに仕舞われてしまっていた。彼は朽ちるのを待っている枯れた植物のようだった。あるべきところから引き抜かれた、嘆きの花。私は身勝手にも彼に同情した。
「あなたが日記を盗んだの?」
「違います」
間髪入れずに彼は答えた。その面持ちは真剣そのものだった。けれど、そこには確かな諦念も滲んでいた。彼には理解できないでいるだろう、何故私がいつまでもここにいるのかを。私が次に選んでいい言葉は一つだった。
「私を恨んでいるでしょうね」
「僕はあなたのことも旦那様のことも恨んじゃいませんよ。結局は、僕が見て見ぬふりを続けてきた罰が当たっただけですから」
ハンスは消え入りそうな声で平坦に言った。私は何も言わなかった。私たちの間の沈黙を、店の奥のほうで絶えず続いている議論の声が埋めた。ハンスは私に珈琲茶碗を出した。私はそれに口をつけた。熱く、苦かった。けれど、砂糖を入れる気にはなれなかった。私は辛抱してもう一口珈琲を飲んだ。ハンスは別の客の注文を取りに離れていった。
私は彼の様子を目で追った。微笑みもするし、客の軽口に言葉を返しもする。けれど、彼には明朗さが足りず、常にその眼差しには影が付き纏っていた。それに気付いた瞬間、心臓ではない何かが私の脈を打った。私は恐れていたのかもしれない、変わりゆくもの共を。すべてが変わってゆくのは、常に私のためだから。変えさせないように自ら選ぶということ、その方法を私は知らない。ずっとそれで良かったのだ。必ず誰かが助けてくれたから。だが、今はどうか。記憶さえない身一つの私は。
目の前で物音がして、私ははっと顔を上げた。どんよりした瞳のハンスがまたそこに立っていた。彼は仕事に身が入らない様子で、何かを躊躇っているかのようにも見えた。私はどうすべきかわからず、ただ彼を見つめ返した。やがて、ハンスは唸るような声で切り出した。
「ねえ、リタさん。もし僕が事の真相を知ってると言ったら、あなたは聞いてくれますか?もう僕にはできないことをあなたに託したいと言ったら?」
そうして、ゆっくりと私のほうに身体を倒し、私の目を覗き込む、その虚空の刻まれた表情が呼び起こす感情を、人は一体何と名付けるのだろう。私は言葉を奪われた。何か答えなければと口を開きかけたとき、私は背に誰かの手の感触を覚えた。反射的に振り返ると、サミュエルがそこにいた。私は過去の日常を抜け出し、現在の日常に引き戻された。
「あら……ああ、サミュエルね」
「お待たせ。姉さんなら、あっという間に店の裏口から出ていったよ。小母さんは店の中までは入ってこないから」
サミュエルはそう言って、私の隣の椅子に腰かけた。鈍い返事をしながら、私はハンスにちらと目をやった。彼はすでに離れたところにいて、私には見向きもしなかった。彼の言う事の真相とは一体何なのであろう。それに、私に頼みたいことがあるとも彼は言った。ゲルトガ邸に纏わることであるに違いないけれど、ならばなおさら、私などにできることがあるとは思えなかった。機械的に珈琲を口に運んでいると、サミュエルが私の顔を覗いた。
「どうしたの、リタ?考え事?」
「……いいえ、何でもないわ。これからどうするの?」
「どうかな。僕、人が多いところを歩くのは好きじゃないんだ」
「そうなの?私もよ」
「それなら、公園にでも行こうよ。結構快適なんだよ。この辺りの人は、煙を吸うほうが健康的だと考えているから。――すみません、新聞ありますか?」
と、サミュエルはハンスに声をかけた。ハンスは客が帰った席に放置されていた新聞を取り、サミュエルに手渡した。私とハンスの視線が一瞬交わったけれど、彼はまたすぐに離れていった。この目ざとい少年が隣にいては、一言ハンスに声をかける隙も見つかる気がしなかった。その少年は肘を突いて新聞を読んでいる。
「アスターシャもとんでもないことになっているみたい」
サミュエルが何でもないことのように呟いたのに、私はぞっとして思わずその話題に食いついた。記憶がなくとも、故郷と言われている場所での有事を他人事だとは思えなかった。
「えっ?アスターシャ?何かあったの?」
「『革命の後、アスターシャでは統治者不在の状態が続いてきた。現在は親王派と反王政派が対立、数日のうちに第二の血の波が当国を襲うと見られる。争点は親王派による次なる国王の擁立か』……だってさ。隣り合うと国同士も似てくるものだね」
サミュエルはいかにも興味がなさそうにぼやいた。無暗に話を深掘りしてアスターシャとの関わりを疑われるわけにはいかないと、私は何度も自分に言い聞かせ、記事の本文を追おうとする食指を引っ込めた。
「このところは、ゴートルーも静かなのよね?」
「うん、デーングリーズ伯が大人しくしているから」
赤の他人を装い、サミュエルはいたずらっぽく笑う。身内だと気付かれては困るのだろう。
「とはいえ、彼がさっさと終止符を打つべきだと考える人もいるみたいだよ。まあ、大半の民衆は玉座のことなんてどうでもいいと思っているけれど」
「あなたはどうなの?」
私が何気なく尋ねると、サミュエルは随分驚いたような顔をした。
「僕?……えっと、そうだね。正直、勝手にしてくれて構わないけれど、こっちが不利益を被るのは勘弁してもらいたいものだよ。姉さんみたいにはなりたくないんだ」
そうぼやく少年の声はいやに低く、顔を見ていなければ、子どもが話しているとは思わなかったことであろう。私は彼の姉に対する評価にわずかな認識のずれを感じた。貴族同士の争いの渦中にある家、その無垢なる子どもたちの闇深いしがらみを私は嗅ぎ取った。
「ヒルダは――」
「ねえ、ここ、もう出ようよ」
私の言葉を遮り、サミュエルは勘定を済ませながら立ち上がった。ぐずぐずする理由は――本当かどうかはさておき――なかったので、私は仕方なく彼に従った。店を出る直前、彼は振り返って私に扇を差し出した。
「忘れるところだった!これで上手いこと顔を隠してくれる?姉さんの扇だから」
「ええ、わかったわ」
私は扇を受け取り、一度開いてみた。繊細で美しい意匠で、仄かに甘い香りがした。ヒルダは感嘆させられるほど趣味が良かった。
店を出ると、サミュエルは私に歩幅を合わせて歩き始めた。曲がり角に来たとき、彼は少し背伸びして私の耳に顔を近付け、囁いた。
「あの喪に服しているみたいなご婦人が小母さんだよ。あの様子じゃ、本当に姉さんとリタが入れ替わったことに気付いていないね」
私は帽子と扇の隙間から様子を窺った。確かに、黒ずくめの恰好をした老齢の女性が遠くからついてきている。目が悪いというのも本当らしい。私とヒルダの恰好は、色こそ同じだが、裾の形や丈の長さが明らかに違うのだ。まったく、とんだ茶番である。お咎めを貰う心配がないのはありがたいけれど。
「ところで、リタ。さっきの給仕と何か話したの?」
ふとサミュエルがそう尋ねた。私は素っ頓狂な声を上げそうになったのを何とか堪えた。サミュエルに私とハンスの話を聞かれていたという可能性が脳裏を過ぎった。それでも、動揺を見せれば相手の思い通りになるような気がした。
「いいえ。どうして?」
「あの人、遠くから時々あなたのことを見ていたから。こう、どんよりした目でね。それで、気味が悪くて出てきたんだよ。本当に何も妙な話はされていない?」
そう不安げな眼差しをこちらに向けてくるサミュエルに、何であれ嘘をつくのは酷く心苦しかった。私は目を逸らして前を見据えた。
「……ええ。心配してくれてありがとう、サミュエル」
「ああいう手合いは、何かにつけて身分のいい女の人を騙そうとするんだ。悪いものも流行っているし……とにかく、気をつけたほうがいいよ」
「そうね。けれど、あまり人を一緒くたにして判断しては駄目よ」
私が言うと、サミュエルが視界の端でゆっくりと首を振るのが見えた。少年には下衆について一家言あるようだけれど、それが暗にハンスへ宛てられた言葉だと思うと、とても聞いてはいられぬ。私は何か別の話がしたかった。そこで、私は剣を本気で振るわない少年の姿をふと思い出した。
「ところで、サミュエル、剣のお稽古は楽しい?」
「毎日やるくらいはね。リタも一緒にやろうよ」
サミュエルは無邪気さを取り戻して言った。その明るい声色に、私は奇妙な安心感を覚えた。剣術も、本当に苦手なだけかもしれぬ。何もかも上手くできる人間、それも子どもなど、そうそういまい。私ははるかに気軽な心境で、用意していた質問を放った。
「私はいいの。ねえ、好きでやっているのなら、どうしてできないふりをしているのかしら?」
「え?」
サミュエルは珍しく呆けた声を上げた。やはり愚問だっただろうか思いつつ、私は少年の表情を盗み見た。その顔つきと言ったら――私の心に芽生えかけていた気安さはたちどころに霧散し、枯れかけた疑念が息を吹き返した。聡いとはいえ、考えていることが時折そのまま顔に出てしまう幼さを、サミュエルはまだ失っていなかった。彼の引きつった頬は物語っていた、予想外の観察に揺るぎない自信が綻んだその心境を。私は触れてはいけないもの、否、触れられるはずのなかったものを突いてしまったのだと悟った。
「嫌だなあ。なかなか上達しないだけだよ。僕、勉学ほど運動が得意なわけじゃないんだ」
そう誤魔化す彼の声音は至って平静だった。けれど、せわしなく動く指先を見れば、彼が狼狽えているのはすぐにわかった。遊びの最中に父親がやってきてくだくだと話を始めたときや、家庭教師が不満をはっきりと漏らすとき、サミュエルは今と同じように指先で落ち着かぬ気分を表すのだった。本人はその癖に気付いていないようだが。
「ヨハンはあなたの腕前について何も言わないの?」
「色々教えてくれるけれど、ほら、僕が苦手なのもわかってくれているから、あまりとやかくは言ってこないんだ。そんなに気にしていないんだと思う。できないものは仕方ないんだもの」
「ええ、そうね」
私はサミュエルの言葉を軽く受け流した。きっとこれ以上追及しても、できないの一点張りでかわされてしまうだろう。話したがらないことをしつこく問い詰めるのも私の趣味に合わぬ。私が黙ったからか、サミュエルは何度か横目で私の顔色を窺い、私はそれを肌で感じた。彼に何か隠し事があるということを私は確信した。
しばらくお互いに何も話さずに歩いていると、サミュエルの言っていた公園が見えてきた。人は見るからに少なく、がらんとした空間に辛うじて緑が添えられているような印象を受けた。確かに、静かに過ごすにはうってつけらしい。私たちはやたらと配置してある長椅子に並んで腰かけた。公園の入り口に陰気な見張り役が佇み、私たちを見守っていた。
「あのさ、リタ」
ふとサミュエルが開口した。私はただ彼に視線を送り、話の続きを促した。
「これから話すこと、誰にも言わないって約束してほしいんだ」
「いいわ。それで、なあに?」
サミュエルは何か覚悟を決めるように、じっと遠くを見据える。私はその横顔を眺め、少年の打ち明け話を待った。彼の顔の線には骨張ったところがなかった。永遠にそのあどけなさを湛えていてもおかしくはないと思えるほどに。やがて、少年は目を伏せ、柔く睫毛を揺らした。
「……父さんのことだよ。さっき話したよね、あの人のために不利益を受けるなんて御免だって。けれどね、もう手遅れなんだ。あの人は実権を得ることに夢中で、僕や姉さんのことは二の次……ううん、二の次だったらまだいいほうだ。結局のところ、僕らは利用されているだけだから。あの人がいる限り、自由が望めないことだってわかっているんだ」
「そんなこと……」
細く鋭い針が胸を貫いたかのような心地がした。その諦観を知らないとは、私には言えなかった。父の肖像画が頭に浮かんだ。私と父の間に何があったというのか。それがわからない。わからないけれど、無自覚ではいられないことがあった。私が自由を渇望していたということ、そして、幸か不幸か、鳥籠から飛び出したということである。
「それなら、どうして逃げ出さないの?」
「他所じゃできないくらい贅沢な生活をさせてもらっているもの。当てもないのに人の温もりから逃げる野良犬なんていないでしょう」
と、サミュエルは自嘲した。私は何と言葉をかけていいかわからなかった。当てがないのは私も同じだった。しかし、私には幸運が続いて、革命を生き延び、ユーリに拾われ、そしてヨハンとの再会を果たしたのである。そのような運命が誰にでも待ち構えているとは、気休めでも言えなかった。サミュエルはふと空を仰いだ。
「何が言いたいって、僕に父さんを止めるほどの力はないっていうことさ。その父さんが、国中を巻き込む身勝手な謀略を企てていると知っていてもね」
その物言いは言葉以上の重みを孕んでいた。わざとらしいまでの言葉選びには、何か私をはっとさせるものがあったけれど、私の平常心を保たせるにはいささか強烈すぎた。
「どういうことなの」
「そのままの意味だよ。それに、僕が正しければ、その企みにはヨハンも加担している」
「……嘘よ」
「僕は皆が思っているよりもずっと皆のことを知っているよ、リタ。それに、中途半端な情報でこんな結論を出すことはない」
サミュエルは身体ごと私のほうを向いて、こちらが目を逸らしたくなるほどまっすぐに私の目を覗いた。畏怖、狂乱、達観の渦巻く瞳は私を混乱させた。私はいとも容易く信じかけた、ヨハンが良からぬ方向に進もうとしているのだと。けれど、それは概念に過ぎず、いずれにせよ私に真偽を判定させることはできないのである。そうして魅惑される私に少年は囁く。
「戦争が始まる。すべてを巻き込んで跡形もなく崩壊させる戦争が……」
その言葉を、声を、私は幾晩も忘れられないことになるのであった。私が打ちのめされたように茫然としていると、サミュエルはつと立ち上がり、天を仰ぎながら伸びをした。
「お腹空かない、リタ?」
「えっ?」
話の落差についていけずに戸惑う私のことなど気に留める様子もなく、サミュエルはのんびりと歩き始めた。
「軽食でも取ろうよ。さっきの店は御免だけれど」
そのまま歩き去ってしまいそうな彼の後ろ姿は無性に癇に障った。私は咄嗟に立ち上がり、この理不尽がまかり通らぬということを教えてやるつもりで彼の背中に言葉を投げつける。
「待って、まだ話は終わっていないわ」
「いや、今日のところは終わりにしよう。僕もあなたも、もう少しよく考える必要があると思う。自分の立場って奴をさ。……っと、そうだ」
数歩先でサミュエルは立ち止まり、軽やかに振り返った。気取って細められた目が、心臓に纏わりつくようだった。
「誰にも言わないって約束、忘れていないよね?」
その天使のような微笑みを見つめ、私は考える。もし神がいるのなら、どうかこの子どもに悪魔を宿すことなどなさらないで、恒久の安楽を与えてくださればいいのに。




