表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/12

その花が咲くのは何時なのか

 二人で出かけた日以来、サミュエルは父親の企みについて一言も口にしていない。少年が何事もなかったかのように接してくるせいで、私は白昼夢でも見たのではないかと己を疑った。けれど、時折彼が向けてくる思わせぶりな眼差しは、すべてが転覆するときが刻一刻と迫っているということを暗に伝えてきているような気がした。


 私を悩ませるのは、どの問題を取ってみても、解決するには誰かの手を借りなければならないということである。ヨハンの知る私の過去という真実、サミュエルの知る伯爵の企みという真実、そして――これを信じたものか――ハンスの知るゲルトガ邸の真実。信じられないならば、各々の話も聞くべきではないのだろうけれど。


 最も安全なのは、ヨハンにすべてを打ち明けることだ。三人のうち、信頼を置けるとはっきり言えるのは彼だけだし、ことによると彼も胸襟を開く気になるかもしれない。ハンスの話を聞くことはできなくなるだろうけれど、サミュエルの話の真偽を確かめることならできる可能性は高いだろう。しかし、ヨハンはこのところ伯爵に山のような用事を押しつけられて忙しくしているようであった。


 そう頭では考えていたけれど、動き出すにはどうにも踏ん切りがつかなかった。私は自室で孤独にため息をついた。外は生憎と言っていいほどの晴天で、苦悩するにはあまりにも快適である。どうにも落ち着かず、私は窓の傍へ足早に近づき、素早く帳を下ろした。部屋が薄暗くなり、気分を少しだけ持ち直した私は、忙しなく部屋の中を歩き回り始めた。しかし、そうしたところで斬新な考えが舞い降りるわけでもなかった。


 鬱々としたまま、私は何というわけでもなく鏡を覗いた。疲れた顔をした私が映っている。無気力に鏡を眺めるうち、私は己がその表情を見慣れているということに気付いた。すぐに胸がざわつき始めた。過去が隆起し、意識に覆い被さろうとしているのだ。説明のつかない恐怖が影のように過去に付き纏い、私に目を瞑らせようと躍起になっていた。だから、私は逃げたいという欲求を自覚する前に過去に飛び込んだ。


 これはいつのことなのだろうか。険しく、そしてどこか虚しい面持ちで、私は鏡の中の自分と見つめ合っている。その顔立ちは幼くはない。つい最近のことだ、と私は内心囁いた。何故くたびれているのであったか。物思いに耽っていると、背後で扉の開く音がした。私は咄嗟に振り返った。その光景はデーングリーズ邸のものではなく、思い出すに物悲しい城の一室であった。戸口に立っていたのはヨハンで、彼は少し青い顔をして肩で息をしていた。


『一緒に来てくれ』


 と、彼はずかずかと部屋に踏み入りながら言った。そういう態度は珍しい、と私は考える。ぼんやりと待っていると、ヨハンはどこか苛立ったように厳しい顔つきをして立ち止まった。


『頼むよ。急がないとまずい』


 何故なのか私が尋ねると、彼はいよいよ耐え兼ねて私の腕を掴み、強く引いた。


『道すがら話すさ』


『やめてちょうだい。あなたらしくもないわ』


 私は反射的に腕を振り払っていた。けれど、ヨハンは何度でも私を捕まえる覚悟があるようだった。彼は私に強いて歩かせ、部屋を出た。そのまま、私が小走りにならないと追いつけないほどの大股で廊下を進んでいく。遠くから、悲鳴や怒声が入り混じった地響きのような騒音が聞こえた。嫌な言葉が頭に思い浮かぶ。私がその考えを振り払う前に、ヨハンはあっさりと私に現実を認めさせた。


『暴動だよ。奴らに追いつかれれば、君も命を落とすぞ』


『私も?すでに誰かが刃にかかったと言うの?』


『……君の兄君だ』


 そう聞いて、私は思わず足を止める。ヨハンが私の様子を窺うように、静かにこちらを顧みた。私の胸の中にあったのは、間違いなく悲哀ではなかった。また、歓喜とも違う。これは、そう、この状況が正しくないという直感である。あるいは、蓋然性の問題か。


『お父様は無事なの?』


 私がそう尋ねたことにヨハンは呆れたようであった。彼は再び私の手を引いて歩き始める。


『どっちでも構わないだろう』


『構うわ。こんなこと、間違っているもの』


『間違えたのは陛下だし、これはそのつけが回ってきただけに過ぎないと思うがな』


 その冷ややかな言い草は気に食わなかった。私は手を離してもらおうと腕を思いきり振ったけれど、彼の力は太刀打ちできないほど強かった。必死でもがきながら、私は彼の背中に向けて大声を上げる。


『あなた、それでも騎士なの?』


『ああ。君に仕える騎士さ』


 それはヨハンの口癖だった。初めはそう言ってもらえるのが嬉しかったものだ。けれど、免罪符のようにその言葉を使われる度、私は思いきり打たれたような気分に陥るのだった。彼が本気で言っているのがわかっていても、結局それは正しくないことだという思いが拭いきれなかったのだ。私は爪を立てて無理矢理彼の手から逃れた。


『……それなら、命令よ。すぐにお父様を助けにいきなさい。そうするまで、私はここから動かないわ』


 ほとんど怒っているかのような面持ちのヨハンと対峙することの恐ろしさたるや。否、私が恐れていたのは、この胸に巣食う自己矛盾なのだ。本当は、今すぐにこの城を抜け出したい。赤い衣装など脱ぎ捨てて、平凡な娘になりたい。だのに、そうしていいと心が許してくれないから、私はここに留まろうとしている。馬鹿げていた。しかし、そうでもしないと己を保てないことを私は直感していたのだ。かつ、そうしたことすべてをヨハンはわかっていた。おそらく、逃げ出して初めて私がこの足枷から解放されるということも。だから彼は強いて私を連れ出そうとするのだ。わかっている、そのようなことは私にもわかっている。


『俺がそうしないと知っているんだろう?』


 ヨハンは優しく私の両肩に手を乗せた。彼は私に対してその時々にどう振舞えばいいのかさえ心得ていた。そうやって窘められるのが癪だから、私はどうしても反抗するほうを選ぶ。


『だから命令しているのよ』


『賢いことだな』


 彼は低く呟いた。けれど、愛でるように私の髪を梳く、その抗いがたく温かい手を感じながら、どうして彼の想いを無視できるだろう。動乱を雨音のように聞きながら、私たちは見合って動かなかった。どちらかが信条を捨てる必要があったけれど、そうできるほど私たちは大人びてなどいなかったのだ。それでも、ヨハンは最後の説得を試みた。


『リタ、俺たちには、今逃げるか命果てるかの二択しか残されていない。戻っても構わないさ……君がどうしてもと言うのなら、俺はあの屑を助けにいくよ。だが、そうなれば、俺が君を守り通せるという保証はなくなる。そもそも、俺自身が生き残るかすら怪しいんだ。だから、戻れと命じるなら約束してくれ。決して振り返らず、国の外まで逃れると』


 つまり、どちらにせよ彼は私を逃がすつもりなのだ。私が命令を取り下げなければ、ヨハンは本当に父を救いにいくだろう。そして、命懸けであの男を守り抜き、きっと父共々力尽きてしまう――それがわからないほど私は間抜けではなかった。ならば、今ここで彼の手を取り、二人で暴動から抜け出したほうがいい。何故なら、私がこの命を引き換えにしてでも守りたいと思えるのは、ヨハンただ一人だったからだ。彼は私の我が儘のために死んでいいような人では決してない。地獄を抜け出すのなら、今なのだ。


『いいえ、あなたも――』


 私が言いかけたとき、すぐ傍でけたたましい怒声が聞こえた。思わず振り返った先にいたのは、持ちうる用具で武装した民衆であった。彼らは私を見るなり気勢を上げた。


『いたぞ、赤薔薇姫だ!』


『俺たちの血の上で贅沢の限りを尽くす罪の重さを知れ!』


 人々は口々に叫び、獰猛な目を私に据えてこちらに突進してきた。視界の端で、ヨハンが剣を抜いたのが見えた。


『走れ、リタ!』


 私を庇って立つヨハンの後ろに私は立ち尽くした。民の声が激しく耳の中で木霊した。贅沢者の赤薔薇姫。人は私を揶揄してそう呼んだ。そこに何も事実などないというのに。けれど、それが運命と私は黙って受け入れた。それがすべての痛みを押し流していくだろうと思って。そうはならなかった。父からの嫌悪が募るほど、人々からの憎悪も募った。父は根を回して私の醜聞を流布し続けた。私が父の醜聞の種になるから。私が一族から消えるべきだったから。


『リタ!』


 最後に聞いたのはヨハンの鋭い呼び声だった。私は悪意の波に飲まれ、よろめき、迫り来る床を見つめ、死を覚悟したのだ。


 私ははっとして意識を取り戻した。記憶の中の城ではなく、デーングリーズ邸に両足をつけて立っている。少なくとも、記憶を失くした以後の出来事は夢ではないらしい。そのことに安堵しながら、私は鏡から目を逸らした。生きていることが不思議でならなかった。


 生命への深い感慨に浸っていると、すぐそこの廊下で微かな物音がした。普段ならば気にも留めないはずだが、今の私は酷く神経質だった。まだ、私を罵倒する声が聞こえる気がしていたのである。私は落ち着きなく扉のほうへ歩いていった。すぐに、扉の下から滑り入れられたらしい紙片が目に付く。手紙だろうか。私は咄嗟に扉を開け、廊下に人影がないかを確かめた。曲がり角に鮮やかな服の裾が見えただけだったけれど、抑えようとしてもなお甲高い靴の音を聞けば、それが誰であるか推察するに難くなかった。


 ひとまず、私は手紙に目を通すことにした。面と向かって言えないこと――例えば、何かしらの不平不満だとか――がなければ、手紙など書かないだろう。何かしてしまった覚えはないけれど、うっすらとかつての苦渋の記憶を取り戻し始めた今、どのような理不尽でも受け入れられるような素晴らしい気の持ちようさえ思い出したかのように感じられた。私は半ば諦めながら文面に目を通し始めた――が、それはたったの一文で、かつ見るからに走り書きであった。


≪同じ場所であなたを待ち続けます≫


 恋文にしては味気ないものだ。そうくだらないことを考えて、私は独りで卑屈に笑った。それにしても、差出人は一体誰なのだろうか。この手紙を私の部屋に滑り込ませたのは間違いなくヒルダだが、まさか彼女がこのようなことを書いて寄越したわけではあるまい。とはいえ、他にこの手紙の差出人になりそうな人物に心当たりはなかった。考える気にもなれず、私は紙片を机の上に無造作に放り出した。


 そのとき、私は机の隅に放置された小袋に目を止めた。このようなものがあっただろうかと、私は首を傾げながら中身を手のひらに出した。出てきたのは枯草のようなものだったが、どこかから持ってきた覚えはなかった。しかし、わざわざ捨てずに置いてあったということは、何か意味があったのではないか。思い出せぬものなど、些事に過ぎないものだけれど。


 私はひとまず枯草を袋に戻し、部屋を後にした。いくつかはっきりさせなければならないことがある。書置きのことをヒルダに尋ねるのは後回しにするとして、私はまずヨハンに話を聞きにいくことにした。あの記憶に間違いがないか確かめたかった。


 しかし、階段を下りた先で私が目にしたのは、デーングリーズ伯に伴われて出かけようとしているヨハンの姿だった。落胆を隠せずにいる私の表情に気付いたのか、彼は申し訳なさそうに小さく肩をすくめた。一声でもかけようかと思ったけれど、伯爵が出ていくほうが早かった。ヒルダに話を聞くほうが先というわけである。見送りに出ていたサミュエルと目が合ったのに気付かないふりをして、私はそのまま階上に引き返した。


 私は少年から逃げるように廊下を進んだ。といっても、サミュエルが追ってきていたわけではないのだけれど。そうして私が駆け込まんばかりにヒルダの部屋を訪ねていったとき、彼女は窓の傍に椅子を置いて座り、物思いに耽るように外の景色を眺めているところであった。彼女は不作法なほどの勢いで扉を叩いた私にも不満を示さず、ただ穏やかな眼差しを投げかけてきた。


「あの手紙は何?」


「どの手紙かしら?」


 そう白を切り、ヒルダは再び窓の外に目を向けた。私は自分でも理解できない緊迫感に襲われて、苛立ちのままに彼女に詰め寄った。


「あなたが持ってきたのはわかっているのよ。誰からもらったの?ただの悪戯?」


「悪戯をする趣味はサムに譲ったわ。差出人の名前が書いていなかったみたいだけれど、生憎と、私もあの人の名前は知らないのよ。一方的に知られているって、何だか気分の悪いことではありませんこと?そう何度も顔を合わせたわけでもないの。物覚えのいい男の人は嫌いだわ。あなたもそうではなくて、リタ?」


 長広舌はいつものことであったが、今日のヒルダは何か様子がおかしかった。私は暫し黙り、彼女をじっと観察した。眠たげにも見える。寝不足だろうか。


「……ヒルダ、何かあったの?」


「何か?何かはいつでもあるわよ。ええ、けれど、特別なことは何もないわ。ありがとう。それで?手紙のことだった?あれは喫茶店の給仕にもらったのよ。あなたもこの前入ったでしょう?」


 あの喫茶店の給仕ならば、差出人はハンスということだ。思いも寄らなかったとは言えないけれど、正直なところ、そうでなければいいと願っていたのは確かである。ほとんど面識のない令嬢に書きつけを押しつけるほどだから、ハンスはいかなる手段を使ってでも私と話をするつもりだろう。そのうち、屋敷に乗り込みかねない。


「ただの給仕が図々しい真似をしてきたものだわ。あなた、あれ、恋文ではなくって?そうだとしたら、すぐに捨てておしまいなさいな。ああいう手合いは、関係が長引くと厄介だもの。ま、ちょっとした刺激を求める分には手頃だけれど。それにしても、少し年の差がありそうだったし、やはり無視するに限るわ。ところで、何と書いてあったの?」


 ヒルダは至極退屈そうに振り返った。たとえ彼女が心の友であったとしても、本当のことを教える理由はない。


「いえ、その……勘定を忘れたみたいなの。それだけよ」


「そんなことで手紙を?馬鹿馬鹿しいこと。他に用事があるに違いないわ。気を付けることね。あなたって何だか心配になるの。大切に育てられたのではない?気を悪くしないでちょうだいね、けれどとにかく心配なのよ」


 彼女の声は平坦で、言葉は上辺だけのものに私には聞こえた。何か別のことを考えているのだろう。そうでなければ、そもそも私の酷い嘘に引っかからないはずがないのだ。けれど、ヒルダは何にせよ私のことを詮索するつもりがなく、それは私に都合が良かった。彼女にとっても同じことであろう。私は礼を言って部屋を引き取ったが、彼女は特に返事をしなかった。


 廊下に出た私は自室を目指してのろのろと歩き出した。ハンスのことをどうすればいいかわからなかった。ようやく自分を取り戻す希望が見えてきたのだ……それなのにどうして、己を見失っていた頃に取り縋った希望を顧みようか。振り返るべき過去があるとすれば、それはこの私を作り上げた苦悶の時代であって、一時の楽園のような時期ではない。しかし――。


「――え、ねえってば。リタ?」


 突然肩を叩かれ、私は思考の波から引きずり出された。見ると、ちょうど上がってきたらしいサミュエルが不審げな顔をして傍に立っていた。私はそう異様な顔つきをしていたのだろうか。


「あら……どうかした?」


「あ、用があったわけじゃないんだ。でも、壁にぶつかりそうなくらいぼんやり歩いていたから」


 私はさっと前方に目をやった。もう階段に差し掛かっていようとは、確かに考えていなかった。


「本当ね。ごめんなさい」


 私が答えると、サミュエルは小首を傾げて目を細めた。その老成た表情で、私は少年に対する警戒心を思い出した。全面的に彼を信用する気にはなれなかった。私がユーリやヨハンの前に感じた壁、あるいは見分けのつかない仮面を、もれなく――かつ早くも――サミュエルも持っているような気がした。私が考えすぎているということはない――男というものは、その特別な代物で女を欺き値踏みするもので、女の複雑さという特性は、男に相対するために使わねばならない不格好な道具なのである。だから、私はこの少年にも気を緩めることはないし、あらゆる言動をややこしく捉えなければならない。それが何気ない言葉に聞こえたとしても。


「それより、今日の予定は?」


「ないと言えばないけれど。どうして?」


「また街に行かない?」


 そこに深層的な意味があるということを疑わないわけにはいかなかった。屋敷の人間に聞かれる心配のないところで、再びデーングリーズ伯の策謀の話を持ち出すに違いない。わからないのはそれを私に打ち明ける理由だけれど。そうは言っても、ヨハンが関わっているというのが事実なのであれば、是が非でも話を聞かなければならなかった。それに街に行くのならば、あるいはハンスに会うこともできなくはないだろう。


「……いいわ。私も訪ねたいところがあるの」


「良かった!それなら、支度が済んだら教えてね」


 と、サミュエルは跳ねるように去っていった。廊下の角に消えていったまだ子どもらしい背中には、闇を打ち消しうる無邪気さがあった。だというのに、何故彼の心が乾ききらなければならなかったのか。何故彼がそのことを隠して日々を過ごさなければならないのか。清純を奪う早熟こそ、魂においては最も残酷なものである。往々にして、他人にその魂を救う手立てはない。けれど、もしサミュエルが私に救済を見出しているとしたら……私がその手を振り払うことは決して許されないだろう。


 昼過ぎ、私とサミュエルはあてどなく街を歩いていた。今回はやたらと顔を隠す必要はなかったけれど、私の気分は少しも開かれたものではなかった。反面、サミュエルは気楽なもので、あの店の料理は評判だとか、あそこのご婦人の服の意匠は何がいいのかさっぱりわからないとか、そういったことを思いつくままに話し続けた。私が話半分に聞いているのも気にならないようである。この姉弟も似ているところがあるのか、と私はぼんやりと考えた。


「――だからね、父さんがわざわざ少し遠いところに舞踏場を建てたのも、おかしなことじゃないんだよ。あそこは国のちょうど中央でもあるし、流行にはさほど敏感じゃないものね。そういえば、そろそろ舞踏会の時期だよね」


「そうなの?」


「うん、僕にはさほど面白くないんだけれど、姉さんは楽しみにしているみたい。リタも行ってくるといいよ、仮面をつけるから快適だって姉さんが。ところで、行きたいところがあるって言っていなかった?」


 と、サミュエルは通りの脇で足を止めた。それに従って立ち止まりながら、私はばつの悪い思いで彼を振り返った。というのは、サミュエルがただの給仕を不審に思っていたとき、私はそれがハンスという人間だということも、彼との関係も明らかにしなかったからだ。しかし、説明するにしてもどこまで語っていいものか。デーングリーズ邸に来る前の知り合いと言えば、嘘にはならない。その程度なら……否、やめておいたほうがいい。サミュエルの鋭さを前にして下手に情報を出せば、すべて開示しようとするよりもずっと多くを指し示すことになる。


「ああ……その、まだいいのよ。あなたは?行きたいところはないの?」


「僕はいいよ。リタと歩きたかっただけだから」


 冴えない言い訳である。またさりげなく歩みを進め始めたサミュエルに私はついていった。例の喫茶店はすぐ近くにあるはずだった。と、再びサミュエルが口を開く。


「ねえ、ヨハンに聞いたんだけれど、二人一緒に魔女狩りに巻き込まれそうになったんでしょう?」


 ゲルトガ邸を去ったときに立ち寄ったあの奇妙な村のことだろう。御伽噺に惑わされ、虚構と現実の狭間を彷徨う村人たちの狂気めいた目を思い出すと、馬鹿馬鹿しさと共に異様な寒気が湧いた。人を魔女と呼ぶのも、その魔女に好きなように言葉を送って貶すのも簡単なものだ。


「そんなこともあったわね。でも、そう大仰なことでもなかったのよ」


「そうなの?いいなあ、僕も行ってみたいよ」


「あの村に?どうして?」


「まったく違う考えを持って、まったく違う生活を営んでいる人たちのことなんて、気になるに決まっているじゃない。呪術が使えるって話だし」


「誰か呪いたい人がいるわけじゃないわよね」


「そういうわけじゃないよ。でも、もし呪術が存在するなら、使えるに越したことはないと思う。まあ、魔女の話と同じで、呪術も何かの勘違いみたいだけれど。有名なのは、嘘つき殺しの薬草だっけ」


 サミュエルがふと呟いた言葉にはどこか覚えがあった。墨が紙に滲むようにゆっくりとあの日の出来事が思い出され、炎を瞳の中で揺らす子どもの顔が現れた。その子が私に握らせたのが、机に置かれたままであったあの小袋ではなかったか。


「嘘つき殺し?」


「うん。その昔、罪を認めようとしない大罪人にある薬草を煎じて飲ませたところ、彼の舌は燃え尽き、命まで灰に埋もれた……なんて言い伝えがあるんだって。でも、一説には、薬草にそんな効能はなくて、誰かが毒を混ぜただけだとか。何にせよ、薬草なんかに嘘つきを見極める力がないのは確かだよね」


 サミュエルの言うことはもっともだった。似たようなことを私も考えたものだ。あの村の中で聞けば、特別な薬草のことも信憑性の高い話に聞こえるけれど。ともあれ、屋敷に戻ったら、ただの野草など捨ててしまおう。あれではお守りにもならない。


「結局、頼れるのは呪いでも薬でもなく自分というわけね」


「かもね。あとは良き友って奴も」


 と、少年は私を覗き込み、からかうような笑みを浮かべた。あざとい子である。私はちょうどいい答えを見つけられなかったので、そのまま黙り込んで歩いた。しばしの間、サミュエルの視線を感じた。私たちは喫茶店を通り過ぎた。横目で中を窺うと、店の奥にハンスがいるのが確認できた。けれど、止まるわけにもいかない。どうサミュエルを誤魔化そうかと考えていたとき、少年はふと前方を指さした。


「あっ、見てよ、リタ!あれ、有名な大道芸人だよ!」


 サミュエルの示した先には、顔を白塗りにした道化師がいた。手足よりも多い手玉を器用に投げており、周りにはかなりの人だかりができている。確かに感嘆ものだが、私はあまりいい印象を受けなかった。何か、肌を張り詰めさせるような、不愉快なものを感じた。


『赤鼻姫!』


 聞き苦しく虫唾が走る声が近くで聞こえた気がした。瞬きをすると、赤い夜会服に身を包んだ道化が裾を摘んで挨拶の真似をしているのが見えた。私を揶揄しているのだ。もう一度瞬きをすると、その幻影は見えなくなった。


「ちょっと見ていかない?すごいんだよ」


 サミュエルが無邪気に言った。私はとてもその場に留まる気にはならなかった。くだらない芸を披露して小銭を稼ぐなど、下賤の極みである。しかも、彼らは人を愚弄するのだ。


「いえ……私、用事を済ませてくるわ。ここで待っていて」


 私は返事を聞く前に踵を返した。無理矢理振り切るのは酷く無様な作戦だったけれど、過去の残滓のために私は多少混乱していたし、あのように興奮するのなら、サミュエルも道化を見て待っていてくれるだろうという気がしたのである。少し進んでから振り返ったとき、少年はやはり道化に釘付けになっていた。彼にはどうにも幼いところがあるのだ。


 それでも、探しにこられては堪らないので、私は早足で道を進み、迷いが生じる前に例の喫茶店に足を踏み入れた。されど、客の気配に機敏に振り返ったハンスの顔を見たとき、私の胸には一抹の不安が生じた。自分の決断が正しいのか、よくわからなかった。余計な波風を立てているだけなのではないか。せっかく逃げ出したゲルトガ邸に、どうして想いを馳せるのか。しかし、こうしてハンスと相対している今、後戻りもできなかった。


「……来たわよ」


「あなたなら戻ってきてくださると思ってましたよ。どうぞ、座ってください。珈琲をいかがです?」


 ハンスは陰気な微笑を浮かべ、私を席に誘導した。私はひとまず頷き、椅子に腰を下ろした。前回来たときと同じ席だった。ハンスは私に飲み物を出すと、ふと裏に消えた。戻ってきたとき、彼は一片の紙を手にしていた。新聞ではないらしい。


「俺も仕事がありますから」


 そう言って、彼は紙片を私の前に置いた。まるで私が押しかけたかのようである。ともあれ、私は大人しくそこに記された文章に目を通し始めた。案外細々とした字で書かれたその告発文は、私の想定とは少し、否、かなり異なっていた。


≪こんな形で真相を語る僕を許してください。上手く話を纏められる自信がなかったのです。


 単刀直入に書けば、あの屋敷での混乱を引き起こし、またこれからもきっと引き起こそうとしているのは、他でもないアンナなのです≫


 私は思わずもう一度その箇所を読み返した。確かに、そこにはアンナという名が書かれている。私はきっとして顔を上げ、目でハンスを探した。彼は私の視線に気付いていたようだけれど、決して私に目を向けようとはしなかった。仕方がないので、私は再び手元に目線を落とした。


≪あなたは信じないかもしれませんね。アンナの奴の優しさを知るあなたは……僕だって、あいつが心無い人間だと思っているわけじゃありません。アンナは根っからの悪人ではないですから。ただ、あいつがゲルトガ邸にいるのは目的あってのことです。つまり、旦那様に復讐するという目的が≫


 私はまたも顔を上げることになった。あまりにも突飛な話だった。酷く馬鹿げた嘘を聞かされているのではなかろうか。妄言に付き合うためにここまでやってきたのではないというのに。ハンスの様子を窺うと、彼は仕事に集中していて、やはり私に視線を寄越す気配はなかった。このまま黙って帰ってしまおうかという考えが脳裏にちらつく。けれど、くだらないと切り捨てたい反面、直感が強く私の心に働きかけてきた。この話は他の誰でもない私が知っておかなければならないのだと。それとも、そう思いたいだけなのか。あの人には何の未練もないけれど。


≪数年前、酒に酔ったアンナは、僕に自分の身の上話を始めました。いわく、自分はさる名家の令嬢だったのだと。そのとき、僕はあいつが冗談を言い始めたんだと思ったものです。しかし、すぐにわかったことですが、アンナは真剣そのものでした。


 彼女の家は先代のゲルトガ辺境伯に潰されたのだとアンナは言いました。僕に真実を判断することはできません。それでも、あいつが本気だということはわかっていたんです。僕が思うに、あいつが日記を盗んだのは、先代が彼女の家のことを何か記していると期待してのことでしょう。


 何が書かれていて、あるいは何が書かれていなかったのかを僕が知ることはできませんでしたが、きっとアンナの考えは、復讐するという狙いは変わらなかったんだと思うのです。そうでなければ、あいつが屋敷を摘み出される僕を見て見ぬふりするはずがない。本当はそういう奴なんです、アンナは。


 僕もあなたもいなくなった今、最早アンナに復讐を思い止まらせるものはありません。きっと、旦那様に命をもって先代の罪を償わせるつもりです。もしかしたら、もう手遅れかも。あんな屋敷ですから、何かあっても周りが気付かないなんてこともありえます。ですが、もしまだ間に合うなら、僕は旦那様を助けたいんです。返しきれないほど恩がありますから。


 ここに記したことは、誓ってすべて真実です。あなたがこれを信じ、ゲルトガ邸に働きかけてくれることを願っています≫


 手紙はそう締めくくられていた。私はしばらく茫然として動けなかった。ようやく顔を上げて周囲を見回したとき、ハンスがじっと私の様子を窺っているのに気付いた。彼は私が内容を理解したと確信するや、おもむろにこちらへ歩いてきた。


「……冷めちまってますね」


 彼は手付かずの珈琲に目を落として呟くと、聞きもせずにそれを下げた。いずれにせよ、私も何かを飲食する気は起きなかった。私は紙片を誰もいないほうの脇へ除け、両手を横木の上に置いてハンスを見上げた。


「嘘だと白状するなら今よ」


「しませんよ。嘘じゃないので。あなたもわかってるんでしょ?」


 不思議なことに、ハンスはかつての陽気さを感じさせる笑みを浮かべていた。否、それは郷愁であった。あの屋敷を懐かしんでいるが故の穏和なのだ。彼の気持ちは、正直なところ、私にもよく理解できた。私たちはあの場所を愛していたのだろう。理由はよくわからない。閉じられた温い世界で萎れていく、それが喜ばしいはずがないのに。


「……これが本当なら、どうして自分であそこに戻らないの?あなたが自分の手で彼女を止めたらいいでしょう」


 私が尋ねると、ハンスは暗い顔つきを取り戻して私を見つめた。


「あの場所に戻る資格は僕にはありません。一度あの屋敷を見捨てた僕には」


「そんなの、私だって……」


「何が起きたのかは知りませんが、でもあんたは旦那様を――」


 そう一段ハンスの声が大きくなりかけたとき、誰かが私の横で強く台を叩いた。私たちは――そして周りの客も――その音に驚いてそちらに目をやった。サミュエルだった。彼が来ていたことなど、少しも気付かなかった。私はどうしていいかわからず、椅子の上でじりじりと身を引いた。サミュエルは俯いたまま目だけを上げてハンスを見た。


「注文いいかな?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ