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その花が咲くのは如何にしてか

 サミュエルは悧巧な少年で、あらゆることを何の問題もなくこなせてしまう才覚の持ち主だった。家庭教師はサミュエルが怠けずに勉学に取り組むよう見張るためだけにいるようなもので、どうやらお互いに相手を良く思っていないようであった。それで、ちょうどいい時間に私が暇を持て余しているのを見つけると、少年は私に見てもらうから大丈夫だと言い張って、家庭教師を勝手に帰らせることがあった。彼の父親はやたら忙しくしているため、そのような事実には気付いていないようだったけれど。


 とはいえ、サミュエルはやるべきことはしっかりと片付ける性質だったので、私の見ている横で――いともあっさりと――課題を終わらせるのが常であった。彼が言うには、家庭教師は彼があまり早く問題を解くといい顔をしないのだとか。その気持ちもわからないでもないけれど、私はサミュエルの賢さに素直に感嘆するほうを選んだ。彼の欠点と言えば、十四という歳の割には幼いことだろうか。やたらとはしゃぎたがり、年頃の少年たちのように自らを大人びているように見せようとは少しもしない。厳粛さを好む伯爵とは正反対である。


「付き合わせてごめんね、リタ。ヨハンはこういうの嫌がるんだ」


 サミュエルは机上を素早く片付けながら言った。私は暇つぶしに読んでいた本を閉じた。


「いいのよ。彼もあなたの言うことを何でも聞いてくれるわけではないのね」


「大体聞いてくれるんだけれどね。じっとしているのが嫌いなんだと思うな。僕が何かを書きつけているのを見ていたって、楽しくないってことだよ。それはあなたもかな?」


 と、私がどう答えるかを知っていながら、サミュエルはいたずらっぽい微笑と共に私を見上げた。その小憎らしい目の細め方に思わず頬が緩む。


「そんなことはないわ。賢い人を見るのって、退屈しないものよ」


「僕なんか、大したことないよ。姉さんよりはましだろうけれど」


 そう、サミュエルにはヒルダという姉がいた。しょっちゅう外出していて、そうでなければ部屋に引き籠っているので、私と彼女はほとんど顔を合わせる機会がなかった。けれど、私は彼女と二人きりで話したことがあった。あの舞踏会の夜、私のことをとやかく詮索してきた女性、それがヒルダなのである。そのことに確たる証拠はないけれど、彼女の高飛車で己を疑わない態度が唯一無二のものでなければ、世の中に対して悪いというものだ。


「じゃあ、僕遊んでくるよ。ヨハンもそろそろ帰ってくる頃だし」


 サミュエルはそう言って、私の返事も聞かずに部屋を飛び出していった。孤独に反響した自分の相槌を聞いて苦笑しつつ、私はおもむろに部屋を出た。


 デーングリーズ邸に来てからもう三日になる。ヨハンは今後の展望についてまだ話してくれていなかった。何やら目処は立っているようなのだけれど、二回聞いて二回はぐらかされたので、私は追究を諦めたのだ。とはいえ、己に声を高くすることしか能がないのはこれまでの出来事から察していたし、上手くいくなら何でも構わない気がしていた。だから、本を読むか、サミュエルに構うかして時間を過ごしてばかりいるのである。


 伯爵も寛大なものだ。事情を知っているとはいえ、何をするでもない小娘を黙って屋敷に置いてくれるとは。ヨハンをいたく気に入っていることもあるのかもしれないが、私やヨハンの素性を確かめる術を伯爵が持っているとも思えぬ。私たちがただの逆賊だったらどうするのかしら。


 そうくだらないことに思いを巡らせながら廊下の角を曲がったとき、私は向こうから誰かが近づいてくるのに気付いた。その派手な身なりは見紛うことなく、サミュエルの姉ヒルダである。彼女は私を視界に捉えると、勝気な笑みを浮かべてこちらに向かってきた。


「あら、奇遇ね、リタ!」


「ご機嫌よう、ヒルダ」


 彼女の馴れ馴れしさに少々面食らいつつ、私はひとまず愛想を自分の顔に張り付けた。ヒルダは私の様子にまるで注意を払うことなく、いささか短い髪を指で弄びながら続ける。


「あなた、これから時間あって?あるでしょう?お茶会でもしませんこと?私、あなたがいらしてからずうっと忙しくしていたものだから、あなたとお話しする時間を取れなくって残念に思っていましたの。お好きな銘柄を教えてくださる?」


 怒涛の勢いで話を進める上、こちらの意向を確かめる気すらない態度には、私も感心せざるを得なかった。きっと何を言ってもこの誘いを断れないだろうと思い、私は渋々ながら了承するほうを選んだ。


「何でも構いませんわ」


「ええ、あなたならそういうと思いましたわ!それでは、そうね、私のお部屋にしましょう。すぐに支度させますわ」


 そう言って、ヒルダはいそいそと来た道を戻り、階段を数段下りた。下まで行くのが面倒になったのだろう、彼女はそこから少し身を乗り出し、持ち前の甲高い声を上げる。


「誰か、お茶を用意しなさい!二人分よ、今すぐに!」


 そうして、彼女はまた軽やかに階段を上がり、私のほうへと戻ってきた。


「さ、参りましょう!」


 と、当然のごとく私の腕を取る。何とまあ、溌溂としているものだ。私は引きずられているかのような気分でヒルダの部屋に入ることになった。彼女の私室には、意外にも必要最低限のものしか置かれていなかった。その分、家具の類は極めて派手であり、それが部屋のがらんとした空白を曖昧に埋めている。要するに、釣り合いの取れていない空間だった。私は勧められるままにぼってりとした椅子に腰かけた。私を食べようとしているかのように、その椅子は私の身体を必要以上に沈めた。ヒルダが私の向かいに座ったとき、お茶が運ばれてきた。随分仕事の速いことだ。


「ありがと、下がってちょうだい!――リタ、お砂糖はいかが?」


「いらないわ。ありがとう」


「そう?少し入れておくわね」


 ヒルダは匙二杯分の砂糖を私の紅茶に入れた。ぎょっとしたにはしたけれど、私は特に咎めずに茶器を受け取った。ヒルダは自らの紅茶には山のように砂糖をなだれ込ませた。それから、彼女は満悦の表情で、一緒に運ばれてきた焼き菓子を取り分ける。


「このお菓子はね、北のほうで有名なんですって。あなた、あちらに行ったことがあって?そも、どちらの出身だった?ヨハンは私と口を利かないの。だから私、あなたたち兄妹の身の上なんてちっとも知らないわ。ヨハンは騎士だったのよね?動きを見ればわかるわよ、もちろん」


 すべてが質問なのか、はたまた何もかも独り言なのか、私は判断しかねた。時折サミュエルが姉に対する気まずい考えを示す理由も、何となくわかるというものである。


「私たち、西のほうから来たの。国の北側には行ったことがないわ」


 私は答えを濁した。ヨハンの話――彼にヒルダへ語る話があるとしてだが――と辻褄が合わなくなっても困る。茶器を置いたヒルダがまた口を開こうとしているのがわかったので、すぐに答えずに済むよう、私は目の前に置かれた焼き菓子を口に運んだ。それはなかなか美味であった。


「西?では、ゲルトガ領のこともわかるでしょう?あそこの領主をご存知?若いけれど、他の方々よりずっと聡明なのよ。若いと言ったって、私やあなたよりはいくつか上ですけれどね。あなた、いくつだった?」


「……もうじき十九よ」


 その答えは自然と口をついて出たが、確証はなかった。しかし、私にそのことについて考える余裕もまたなかった。ヒルダの口にした話題のために頭に浮かんだあの人の横顔が、すべてを阻害していた。忘れたくなかったあらゆる記憶はどこかに置いてきてしまったのに、どうして忘れたいことを捨て去れないのだろうか。ヒルダは私の煩悶に気付く由もなく、歌うように続けた。


「では、同い年ね、私たち!そんな気がしたわ。それで、ユーリは二つ三つ上だというわけなのよ。ああ、ユーリって、その領主のことよ。あの人は笑ってしまうくらい賢いの。そうね、サムも何年かしたらああなると思うわ。あの子は私よりずうっとしっかりしているもの。知っているでしょう、よく遊んでいるものね」


「ええ……」


「サムったら、私には構ってもらおうとしないのよ。でも仕方ないの。あの子がもっと小さかったとき、私、全然一緒に遊んであげなかったんですもの。けれど、嫌ではなくて?お父様からは女らしくしなさいだとか、貴族である自覚を持ちなさいだとか教えられて、自分でも淑女たることに目覚め始めて、そんなときに、どうして泥塗れの弟と一緒に遊びましょう?けれどね、リタ、サムがいつまでもああしてやんちゃなのは、ひょっとして私が遊んであげなかったからではないかしら、なんて思うのよ。私もサムも、昔は寂しい思いばかりしていたから。ね、あなたはどう思って?」


「サミュエルは健全よ」


「そうね!お父様の教育が厄介な中で、自由にするのも並大抵のことではできないわ。私を見習ったのだとあの子に言われても驚かないけれど!お茶をいかが、リタ?」


 その後も、ヒルダの調子は崩れず変わらず、些事を積み上げては引き延ばし、長いような短いようなお茶会を彼女だけの歌劇に仕立て上げてしまった。私が上の空であることには最後まで気が付かなかったようである。部屋を出たとき、私はほとんど彼女の話を覚えていなかったけれど、それでも時折彼女がユーリの名を出すのを聞かぬふりができたわけではなかった。私が知らなかっただけで、彼に親しくしている女性がいたのだということに、私は無意味ながら深く虚しい落胆を覚えた。


 私の暗く沈んだ気持ちに反して、外はまだ明るかった。私はあてがわれていた客室に引き取り、何をする気も起きずにただ椅子にだらしなく腰かけた。あらゆる思念が頭の中を駆け巡っていた。掻き消えぬあの人の眼差しを無理に押し退けようと、私は己の記憶に纏わる考えを引き捉えた。


 例えば、王宮での生活を何とか思い出せはしないだろうか。ヨハンによれば、私は随分好きなように城を歩き回っていたようだが。彼がかなりの時間を共に過ごしてくれていたというけれど、他に親しくしていた人間はいたのだろうか。両親はどのような人間だったのだろう。私が王女なら――私はそのことに多少の疑念を覚えている――、父は国を負って立つ王であったはずだけれど。その思いつきには私は驚きや違和感を覚えなかった。どうにも、父親は国王であるような気がしたのである。何か、私の自覚している身の上と噛み合わない部分があるように思えてならない。


 それに、ユーリが私の正体を知っていたなどということが、本当にあり得るだろうか。あり得たとして、何故ヨハンがそのことを見抜けたというのか。ヨハンはもっともらしい説明をしてくれたが、以来何かと説明を避ける節があるし、私の大袈裟な性分をわかった上で、上手いこと私を連れ出したと言われたほうがまだ合点がいく。もし私を騙しているのが――。


 そこで、私ははっとして、思わず立ち上がった。いつの間にユーリのことを考えていたのやら。思い出せもしないことをくだくだ考えて、いらぬことに思いを馳せるなど無駄以外の何でもない。私は気分転換を求めて忙しなく部屋を出た。すると、ちょうど階下からサミュエルの軽く爽やかな声が響いてきた。彼に答える低い音はヨハンの声に違いなかった。私は急ぎ足で下に下りた。


 彼らはおもむろに階段を上がってこようとしているところであった。少年は私の顔を見止めて満面の笑みを浮かべる。


「あっ、リタだ」


「おかえりなさい。楽しかった?」


「いつも通りかな。ヨハンに何か用があるの?」


 そう言われ、私は目を上げてヨハンを見た。用がないとは言わないが、あるとも言い難い。というのは、過去のことも今後のこと幾度となく尋ねてきたし、その度に答えを保留にされてきた経験があるからだが。しかし、私が口ごもっていると、ヨハンのほうが先にこう言った。


「ああ、俺が君に話したいことがあるんだ。少しいいか?」


「ええ、もちろん」


 私は何ということもないようなふりをしてそう答えた。私とヨハンは階段を駆け上がるサミュエルの背中を見送り、それから庭園に出た。外は暖かくなりつつあり、出歩くには心地良かった。しばらく進んだけれど、どこか険しい顔つきのヨハンは何も言わなかった。私にも特に言うことはなかった。先ほど誤って芽生えさせてしまった疑いは、できるだけ心の片隅に押し付けた。考えすぎるのが私の悪い癖であるということは嫌というほどわかっている。


「……俺も、何もしていないわけじゃないんだ」


 唐突にヨハンは言った。私はそれまで彼が何か話していたのを聞き逃しでもしたのかと訝った。


「なあに、急に?」


「いや、すまない。俺が君を煙に巻こうとしているとか、そういう類のことを君が疑っているんじゃないかと思っただけさ」


 私がぎくりとしたのはきっと顔にも出ていたことだろうけれど、どのみちヨハンは前を見据えていて、こちらには目をやった気配もなかった。私の考えることなど顔色を見ずともわかると言いたげな横顔に、私はおぼろげな敗北感を味わった。それでも、平静を装うことは諦められず、私は何故かヒルダを思い出しながら、澄ました声で言った。


「あなた以外に信じられる人がいないのに、どうしてあなたを疑うの?」


「君がそう言ってくれるのは嬉しいが、俺からすれば、君は疑心暗鬼になっているな。伯爵のことさえ信じちゃいないんだろう?」


「よく知らないもの。サミュエルのほうがよほど信頼に値するわ」


「あいつはまだ子どもだぞ」


 と、ヨハンがようやく明るい声色になったので、私は安堵に少し笑い声を立てた。彼もまた、私が不機嫌なわけではないということを確信したように表情を和らげた。私たちは実に穏やかにお互いの腹を探り合っていたけれど、それは険悪な不信感から来るものではまったくなかった。かといって、その正体を的確に言い当てるのも難しいのだが、ともあれ我々の関係は良好なのである。


 私たちは見つめ合ううちに足を止めた。自信に満ち溢れたヨハンの眼差しは私の心を優しく慰めるようだった。私が彼についていく理由こそ、何の隔たりもなく陽光のように降り注ぐ彼の熱意と輝きなのだ。そして、陽光が何にも取って代えられぬように、ヨハンがもたらすものは彼だけが表出できるものなのだと、私は本能で理解しているのだった。だからこそ、私は何としても疑念という心の扉を取り払うよう努力しなければならないのである。この葛藤のことなど知る由もないヨハンはそっと私の手を取った。


「なあ、リタ。俺は君に余計な心配をかけたくないが、これからは絶対なんてものはない。だが、伯爵が手を貸してくださるし、俺なりに算段もついている。後は時機を待つだけなんだ」


 その力強い手を感じて、どうして彼を無力だと思えるだろう。どうして彼がこの手を離すと思えるだろう。甘いと笑いたいならば笑うがいい、彼が今私の目の前に掲げているものが親愛でないのならば、私はこの手を切り落としても構わないのだから。それでいいのである。それでいい。私は空いているほうの手を彼の手の甲に添えた。


「そう……私は何もしなくていいの?」


「君に負担を強いることはしないさ。これでも、君に命を捧げることを誓った身だ。俺たちの未来のためにできることは俺が何でもする。君には、信じて待っていてほしい」


 私は考えるまでもなく頷いていた。ヨハンの決意は固く、私の逡巡が介入する余地など残されていなかった。私にできるのは信じることのみなのだ。彼は私が多かれ少なかれ疑義を抱いていることに目ざとく気付いているし、それでも折れるつもりはないのである。ならば、いくら疑いを差し挟もうと、この状況は変わらない。そういうものなのだ、男女というものは。


 私はヨハンを見上げた。傾いた日の光を受けて、その金色の髪が煌めいた。風が吹き、どこかから仄かに花の香りがした。私の顔に髪が靡いてかかったのを、ヨハンは指でそっと抑えた。手慣れた仕草だった。私はその動きを知っている気がした――確かではないにせよ。ああ、どれほどの真実とどれほどの欺瞞が私たちの間にあるのだろう。傷つけ、同時に傷つく覚悟さえあれば。


 そう憂鬱な思いに吐息を漏らしそうになったとき、私はあることに気付いて思わず身構えた。ちょうど、私の目線の先、二階の窓の傍に、影のように誰かが立っているのが見えたからである。私の様子に気付いたヨハンが振り返り、窓を見上げた。


「デーングリーズ伯……?」


 明らかに彼我の目は合っていたけれど、あちらは身じろぎもせず、じっと私たちを見下ろしていた。表情が不明瞭であるのがなおさら不穏だった。私は意味もないのに後退りをした。一方的に見られているかのような錯覚に不快感を覚えたのだ。やがて、伯爵は小さく頷くように首を動かし、すぐに窓辺から見えなくなった。


「……いつから見ていたのかしら?」


「偶然窓の外を見ていただけじゃないのか?」


「本気で言っているの?」


 私は思わず眉をひそめた。ヨハンは私に向き直り、困ったように頬を引きつらせて笑う。


「あまり物事を深刻に考えすぎるなよ、リタ」


 その顔つきや言い草は妙に私の癇に障った。誰のせいでこのような目に遭っていると思っているのだろう。ともすると、すべての責任を彼に押し付けるのは不合理かもしれない。否、そうだとしても、私を不完全ながら安全な場所から連れ出したのはヨハンであるし、それが正しいことだったのかはっきりとわからないからこそ、私には彼を糾弾する権利がある。その上、彼が私に呆れるなど、理不尽極まりない。


「私がいけないとでも言いたげね」


「いけないとは言わないさ。自分で自分を追い詰めてもいいことはないというだけで」


「私が、私を、追い詰めるですって?違うわ、断固として否定します。私を追い詰めているのはあなたや、あの老獪な伯爵、それから……」


 私はもう一人分の名前を出そうとしたが、その音は喉で閊えた。中途半端に口を開いた私をぼんやりと見つめながら、ヨハンは皮肉な笑みを浮かべる。


「ユーリ、か。俺は奴にすべての償いをしてほしいがな」


「どうかしら。私、あなたに騙されていると知っても驚かないわ。ユーリのほうが親切だったもの」


 私が言ってのけると、途端にヨハンの表情が曇った。彼の眉根に怒りが滲むのを、私はこの目で見た。


「俺を信じてくれるものだと思ったんだが、どうも違うらしいな。さっきまでの態度は君なりの嘘か?」


「嘘?そうかもしれないわね!あなたが必死なふりをするから、私も我慢してあげようとしたのよ。けれど、もうその必要もないみたいね」


「必死なふりだと?俺がどれだけのものを犠牲にしようとしているかわかっていないな、リタ」


「知ったことですか!私がほしいのはあなたの犠牲ではなくて、平穏無事な生活だもの!けれど、どうぞお好きになさいよ。せいぜい伯爵に騙されないよう気を付けることね」


 私は腕を掴もうとしたヨハンの手を思いきり振り払い、足早に屋敷に取って返した。背後から彼の呼びかけが聞こえてきたけれど、私はそれを虚しく響かせることに執心して、一層足を速めた。賢明にもヨハンは追いかけてこなかった。


 それから、私とヨハンのくだらない攻防が始まった。私は逃げ惑い、ヨハンは先回りに苦心した。私は彼の声など聞こえていないふりをして、ヨハンは私が無視をしていることになど気付かないふりをした。私たちに共通していたのは、絶対に譲るまいと決めていたことだけだった。夜が過ぎ、朝が来て、太陽が降下を始めたが、私はヨハンを視界にすら入れないでいた。


 サミュエルは私たちの間に起きている異変にすぐに気付いたようだったが、仲を取り持とうとはせずにいた。聡い少年はその日、初めの一度を除いては、決して私の前でヨハンの名を出さなかった。それでも、彼は日課の稽古のために部屋を飛び出していったけれど、私にそれを引き留めるほどの図々しさはないのである。


 生憎と――そう思うのが自分でも奇妙だが――、ヒルダは例によって町に繰り出していて、私が時間をつぶす相手はいなかった。デーングリーズ伯なら書斎に引き籠っていたけれど、居心地の悪い相手と過ごす時間ほど間延びするものもない。かといって、数ばかり多い使用人たちは揃って愛想がなく、数少ない図書は退屈でがめつい内容のものがほとんどなので、屋敷の面白味は無に等しかった。せめてため息だけでも遠い楽園まで逃げてほしいものだ。


 私はサミュエルの部屋の窓から庭を見下ろした。ヨハンとサミュエルが木剣を打ち合って遊んでいる姿が見える。私は念のため下から姿を見られぬよう注意しながら、二人の様子を見守った。毎日のように同じことをしていてよく飽きないものである。それも、サミュエルの腕前は少しも上達しないというのに。それはある種の儀式であった。はて、何が私にそう思わせるのだろう。私の目には、彼らの戯れは至って普通に映っていた。しかし、何かが胸に引っかかる。私は息を潜めて彼らを注視した。


 だが、しばらくの観察の甲斐もなく、私は違和感の正体を見極めることができなかった。推理の真似事にも早々に辟易し、私はだらしなく窓辺にもたれた。別に、彼らに姿を見止められたところで、元より不利益はないのである。そも、二人は上を見上げる素振りすら見せていなかった。


 ぼんやりとしているうちに思い浮かんだのは、今より背が伸びたサミュエルが麗しく剣を振るう姿だった。それは容易に想像できた。今はどちらかというと遊戯に近い動きも、いずれはヨハンのように熟達することだろう。いつまでも上達しないのはまったくサミュエルらしくはない。そう、いつまでもちゃんばら遊びに興じているなど――。


 そこで、私は違和感の正体に気付いた。おかしいのはサミュエルだった。何度か稽古を見てきたけれど、彼の腕前は一進一退、日を新たにするごとに教えをすっかり忘れ、がむしゃら具合ばかりが残留し続けていた。しかし、サミュエルは一度言われたことを忘れない性質であるし、身体を動かすのが苦手というわけではない。稽古をつけてもらうと言い張っている以上、習熟するつもりもあるはずなのだから、あの様子はいささか不可解である。


 私は改めてじっくりと稽古を観察した。見れば見るほど、サミュエルが手を抜いているように思えてならなかった。ヨハンはそのことに気付いていないのだろうか。それとも、私が考えすぎているだけで、サミュエルは剣を振り回すことを純粋に楽しんでいるに過ぎないのか。私は余計に心配して疑心暗鬼を生じているらしいから。


 と、ちょうど二人が稽古をやめたので、私は何となくばつの悪い気分で急ぎサミュエルの部屋を出た。私が部屋にいたところで少年が気にしないけれど、気付かれていなかったにせよ、覗き見は双方にとって気分のいいことではなかった。


 私は誰にも出くわすまいとして、はしたないほど慌ただしく廊下を進んだ。しかし、サミュエルの部屋と私のが正反対に位置しているおかげで、私は酷く長い距離を慌てふためいて歩かなければならなかった。普段ならば多少なりとも運動になることを良いことだと見做したであろうが、今ばかりは空間を突っ切って自室に飛び込みたい気分であった。それはともすると、本能があの嫌な気配を嗅ぎ取っていたせいかもしれない。


 その気配というのは、私がちょうど進路の半分ほどに差し掛かったとき、姿を現した。今のところ私が最も恐れているその人を目にした瞬間、私の足はぴたりと止まった。デーングリーズ伯の姿勢は奇妙なもので、一体何をしていたのやら、壁際に静かに佇んでいたのだった。危うく、装飾か何かと思って見逃すところであった。私は早足のせいで少し荒くなった呼吸を密かに整え、平静を装って彼に声をかけた。


「ごきげんよう」


「おや、リタ様。ご機嫌麗しゅう。急いでおられるようですが、どちらへ?」


 そう言いながら、デーングリーズ伯は目の前の壁掛け燭台を指先でいじった。私は面映ゆさを隠しながら、ゆっくりと伯爵の前を通り過ぎようとした。


「いえ、何でもありませんの。部屋に戻るだけですわ」


「左様ですか。すみませんな、このようなところで立ち尽くして。驚かれたのでは?」


「え?ええ、少し」


 そのまま通り過ぎるわけにもいかず、私は仕方なく立ち止まって伯爵の様子を窺った。彼は何だかのっぺりした眼差しをこちらに向けていた。沈黙が走った。私も走り出したかった。異様に長く感じられたその睨み合い――そう呼んで構わないだろう――に終止符を打ったのは向こうだった。


「昨日はヨハンと何か言い争っていらっしゃったようですね」


 私は警戒のために何も言葉を返さなかった。私が動揺しているのは火を見るよりも明らかだったので、伯爵は人の良さそうな――私はまったくいけ好かないけれど――笑みを作った。


「内容までは聞いていませんとも。ですが、ヨハンもあなた様の怒りが鎮まらないことを嘆いていましてな。いかがでしょう、リタ様の寛大な御心をもって、彼を許してやるというのは?」


「ええ、そのうち。許す理由を彼が作ってくれるなら、私も微笑む準備はできていますの。それでは、失礼を」


 私は早口にそう答え、伯爵に背を向けた。この男が、私とヨハンには無関係であるはずのこの男が、下卑た笑顔と共にヨハンの味方をしていることが途轍もなく不愉快だった。特に、寛大こそ最も無縁に近い今の私の心境には。


 デーングリーズ伯の応えはなかった。私は苛立ちに任せて礼を失したことを恥じつつ、咎められなかったことに内心胸を撫で下ろしながら歩き去った。突き当りに来て、曲がるついでにそれとなく伯爵のいたほうに目をやると、彼はまだそこにいて、庭を上から見下ろしていたときのように、まったく澄んでいない眼差しをこちらに向けていた。手遅れと知りながら、私は気付かぬふりをして足を進めた。


 部屋に引き取るところまでは、さすがに伯爵の目もついてきていなかった。私は扉を閉めてようやく一息ついた。あの男は何か企んでいる。私はあの目を知っていた。人を欺き、己が利ばかりを追い求める邪悪の瞳である。どこかで見た――それも、幾度となく。何とか思い出そうと、私は固く目を閉ざした。すると、一筋の光のように、ある人の姿が瞼の裏に浮かんだ。


 私はその人を、否、正しくはその人の肖像画を見上げていた。すぐに目につくのは緻密に描き込まれた冠。その下に、絵だとしても冷ややかすぎる瞳と、太い鼻筋、そして上がることを知らない口角。胃が強く締め付けられるような心地がした。私はその男を酷く嫌っていたのだ。少し幼げのある誰かの――いや、これはヨハンだ――声が呟く。とんだ屑なのに、と。私は何と答えたのだろう。記憶の中、目を落とし、私は気に入りの赤い衣装をそっと撫でる。


『いいの、お父様には十分良くしていただいたわ』


 私ははっとして目を開けた。父王である。私が最も憎いと思っていた人間、それが父なのだ。その企みに何度眠れぬ夜を過ごしたことか。怖気が傷口を溢れ流れる鮮血のようにどくどくと記憶の奥底から湧き上がった。しかし、父との間に何があったのかはとんと思い出せぬ。それに、良くしてもらったという私自身の言葉――これは本物の記憶なのだろうか――もまた奇妙である。記憶と心の齟齬が気色悪かった。


 この謎を解き明かすには、ヨハンに頼る他なかった。彼がすべてを知っているのは確かなのだ。この時点で、私の彼に対する憤りはすっかり消え失せていた。問題は、彼がなかなか過去のことを語ろうとしないことである。何か、私に知られて不都合なことでもあるのだろうか。どうやら、彼もまた私の父を快く思っていなかったようだが。


 そういえば、先の革命では、アスターシャの王家は皆――私を除いて――犠牲になったと聞いた。だから、父ももうこの世にはいないはずである。そう思うと、ふと心が安らいだ。やはり、私が父親に当たる人間に対して本能的な悪感情を抱いているのは間違いないようだ。それにしても、何故私だけがのうのうと生きているのだろう。革命が王家に対する敵意の爆発であったなら、何故私に追手がいないのか。死んだと思われているか、あるいはヨハンが何か手を打ったか。私の逃亡に加担したのなら、彼がこのゴートルーに身を置かなければならない理由は十分にあるだろう。


 いや、そも、ヨハンに企みがないと本当に言っていいものだろうか。彼には秘密が多すぎるし、彼に都合がいいように物事が進んでいるとしても不思議ではない。気がかりなのは、やはりユーリのことだ。あの人が悪役だと決めつけたのは尚早ではなかったか。確かに、彼は見知らぬ人間であった私の身に余るほどの厚意でもって私に接してくれ、それは彼を取り巻く時勢を考えればいささか不自然である。何か狙いがあってのことだと言われれば十分合点がいってしまう。しかし、元よりユーリが不親切な人間ではないというのは、どのような愚か者でもわかることだ。かといって、謀っているのがヨハンだと見做すのも筋違いだという気がしてならぬ。


 堂々巡りであった。私は深々とため息をつき、思い出して椅子に腰を下ろした。疲れが一気に押し寄せてきた。ひとまず私がすべきは、ヨハンと和解をし、父について尋ねることである。少し気の進まないところはあるが、私が非を認めれば向こうも同じようにするだろう。それから、サミュエルの不可解な振舞のことも頭に留めておかなければなるまい。直感に過ぎないが、何か根深い要因があるような気がしてならないのだ。

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