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第5話:自滅の引き金

翌日の午後、王宮の大広間は張り詰めた冷気で満たされていた。


高いアーチ天井から吊り下げられたシャンデリアの下、長大な黒漆の円卓が据えられている。

上座には帝国旗を掲げた査問使節団が、黒鉄の軍服で腰を下ろしていた。


迎え撃つ王国側は、首筋に脂汗を浮かべた王太子、腕を組んで微動だにしないロラン公爵、そして――目の隈を厚い白粉で塗り固めたアウレリア。


壁際には近衛兵を束ねるマテウスが直立し、その視線は広間の影、梁の継ぎ目、円卓の足元を拾い集めるように走っている。


給仕が静かに歩み寄り、水差しと冷えたグラスを載せた銀盆を、公爵の肘の脇へと滑り込ませる。

公爵が手元の書類を避けた拍子に、盆の縁が書類の束の端をわずかに押し上げた。


「――では、王国側より提出された【白亜の誓約】に関する担保金の管理記録、ならびに国庫査定書の確認に移る」


帝国の首席査問官が、抑揚のない声で告げた。

アウレリアの指先がピクリと跳ねる。


手元には、執務室の金庫から取り出した改竄帳簿が置かれている。

かつてヴェラに書かせた、すべての横領を侍女の独断として処理した書類だ。

父親が自分を切り捨てる前に、先手を打ってこの紙を突き出せば終わる。


アウレリアは喉を鳴らし、固まった笑みを張りつけて立ち上がった。


「ええ、査問官閣下。我が宮における管理に何一つ不審な点はございません。すべてはこちらの書類に――」


アウレリアが帳簿を押し出そうとした瞬間、足元の影の輪郭が、わずかに濃さを増した。

誰も気にとめない。ただ、円卓の端で壁を背負うマテウスの眉間だけが狭まる。


公爵の脇に置かれた銀盆の底から、先ほど書類束の端に噛み合わされていた紙片が、アウレリアの押し出す帳簿の角に引きずられるように擦れ合った。

紙と紙が擦れ合う微かな摩擦音。

公爵が怪訝そうに腕を伸ばした瞬間、アウレリアの膨らんだ袖口のレースが、手元にあった真鍮のインク壺の角を引っかけた。


ガタン!


重い真鍮が横倒しになり、漆黒の液体が卓上に溢れ出す。


公爵の肩が跳ね、反射的に書類を引き戻そうと指を這わせる。だが、黒く濡れた紙面同士が吸い付くように張り付き、引き戻された反動で、アウレリアの手元にあった別の紙片が、査問官の肘先へと滑り落ちていった。


黒い染みが、純白のレースの縁を瞬時に汚していく。

インクの生臭い鉄の匂いが鼻腔を刺した瞬間、アウレリアの視界から周囲の貴族の顔が白く抜け落ちた。網膜に焼きつくのは、父親の節くれだった手の甲と、その下に覗く見覚えのある羊皮紙の端――。


「な、何をなさるの、お父様!?」


アウレリアの喉が引きつった声を上げる。


「私を陥れる気ね!? 私の書類を汚して、自分の横領を隠す気でしょう! 査問官様、騙されないで! その帳簿は嘘です、公爵が南部の鉱山のために国庫の金を全部吸い上げたのです!」


広間の空気から一切の物音が消える。

ロラン公爵の唇が激しく震えた。


「き、貴様、何を口走って――!」


「口走ってなんかいないわ! 私はお父様に脅されていたのよ! 私のサインの入った預かり証を第二図書塔に隠して、私を盾にしろと言ったのはあなたじゃない!」


止める者はいない。

拷問も脅迫もなく、ただインク壺が転がり、紙が滑り込んだだけだ。それだけの掛け違いが、頭の中に溜まりきっていた猜疑の蓋を吹き飛ばす。


査問官が無言のまま、卓の縁へ滑り落ちてきた濡れた紙を拾い上げた。

そこに記されていたのは、アウレリアの直筆サインが刻まれた、本物の送金記録原本だった。


「……なるほど」


査問官の平坦な声が、石の壁に跳ね返る。


「王太子妃殿下の直筆署名による公金横領の受領書、ならびにロラン公爵による不法着服の証明。……査問の必要すらありませんな。明白な契約不履行、ならびに国家反逆だ」


「ち、違う、それは……!」


アウレリアが周囲を見回す。

公爵の顔には血の気がなく、王太子は視線を天井へ逃がしている。


「近衛、両名を拘束しろ」


マテウスの声が、鋭く響いた。

直剣の柄に右手を添えたまま、一度もアウレリアを見ずに顎で兵を示す。


「反逆および横領の容疑で、王太子妃アウレリア、ならびにロラン公爵の身柄を直ちに地下牢へ送致する」


「嫌っ! 離しなさい! 私は王太子妃よ! あの女……あのヴェラって小娘の仕業よ! あいつが生きてるのよ! 幽霊があそこに――!」


兵士に両腕を固められ、床を擦る靴音が遠ざかっていく。


大広間の高い天井。

装飾用の太い梁の影の奥で、少年がだぶだぶの上着の膝を抱え、喉を鳴らしていた。


『はあ……すごい。酸っぱさの奥から、ねっとりした苦い脂がじわじわ滲み出てきた……。これだよ、この重たいコクが一番美味いんだ!』


少年が黒い舌先で唇を舐める。

その隣で、黒い外套のヴェラは乱れる広間に背を向け、影の濃い梁の奥へと音もなく足を踏み出した。

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