第6話:帳尻合わせ
霧が深く立ち込める未明。雨樋から規則正しく滴る水音だけが路地に落ちる。
袋小路の奥で、ヴェラは旅装のマントを羽織り、革手袋の紐を締め直した。
手元には、偽造された身分証が一枚。
昨夕、王宮の書記官室で「侍女ヴェラ」の死亡届が正式に受理され、保管庫の棚に収まった。
法的に、この世界からヴェラという人間は消えている。
「……随分と手際がいいな、お嬢さん」
湿った石畳を踏む足音とともに、暗がりから人影が歩み出てくる。
灰金色の髪をだらしなく揺らし、林檎を丸齧りしながら現れたのはキリアンだ。
「アウレリア殿下は廃嫡、北方の修道院へ永久幽閉だそうだ。公爵家も取り潰し。君の仕事、百点満点どころかお釣りがくるぜ」
「私の仕事じゃないわ」
ヴェラは視線を向けない。
「あの女が勝手に罪を重ね、勝手に父親を疑い、勝手に自滅しただけよ」
「へえ、そういうことにしておくよ」
キリアンは林檎の芯を路地の隅へ放り、ポケットから分厚い革袋を取り出して放る。硬い金属音が夜の空気に落ちる。
「契約通りの報酬だ。王太子宮の裏金庫から回収してきた。当面の逃走資金には困らないはずだぜ。……あとな、おまけの噂だ」
キリアンは顎をしゃくり、西の空を指した。
「隣の帝国で、〈太陽の剣〉が目覚めたらしい。どこかの馬鹿が力任せに振り回して、軍の砦を一つ吹き飛ばしたそうだ。物騒なこったな」
「そう」
ヴェラが革袋を懐に収めた、その瞬間だった。
路地の入り口に落ちていた街灯の光が遮られる。
濡れた敷石を踏みしめる、重く硬質な軍靴の音。
「――そこまでだ」
霧の向こうから現れたのは、紺青の外套を濡らしたマテウスだった。
供は連れていない。佩いた直剣にも手をかけていない。
ただ、熱を孕んだ瞳が、獲物を射抜くようにヴェラを捉えている。
キリアンが「うげっ」と唇を歪め、両手を軽く挙げながら二、三歩後退した。
「殿下、非番の日にこんな薄汚い路地裏でお散歩ですか? 熱心なことで」
「消えろ、ネズミめ。貴様の処遇は後で決める」
マテウスはキリアンを一瞥もせず、真っ直ぐにヴェラの前へと歩み寄る。
三歩の間合い。
革靴が敷石の泥をきしりと踏み砕く。
「……処刑台で死んだはずの罪人が、王都を出ようとしているな」
「見間違いではございませんか、殿下」
ヴェラはかつて執務机で書類を差し出していた時と同じ、抑揚のない声で返す。
「私はただの旅人です。公文書をご確認なされば、ヴェラという女はすでに死んでおります」
「紙の上の記録などどうでもいい」
マテウスの喉の奥から、低く掠れた声が漏れる。
「あの大広間での自爆……あの女の破滅を寸分の狂いもなく描き切れる人間など、世界中にお前一人しかいない。……逃がす気はない」
マテウスが一歩、間合いを詰めた。手袋を嵌めた手が、ヴェラの手首を掴もうと伸びる。
「私の目の届く場所に置く。この国の歪みを、その頭脳で暴き立てろ。お前の居場所は、陽の当たる場所でも、路地裏の泥水でもない。……俺の傍だ」
指先がマントの縁をかすめようとした瞬間、足元の水たまりが小さく波紋を描いた。
『あははっ! 重い、重いよこの堅物!』
路地の影が薄く波打つ。
濡れた壁面から、膝丈ズボンの少年がふわりと身を乗り出し、マテウスとヴェラの間に割り込んだ。
男には見えない。ただ、背筋を撫でる冷気が二人の間を裂いた。
「殿下、殿下、そこまでですよ」
キリアンが滑り込み、マテウスの伸びた腕の前に立ちふさがる。
口元に笑みを貼りつけたまま、瞳の光を落とす。
「あんまり無粋な真似をなさると、俺の勘が〈この国が終わる〉って言ってますよ。それに……殿下も知っているでしょう? 影を無理に掴もうとすれば、手袋が汚れるだけですよ」
マテウスの眉根が寄る。
「貴様……」
その隙に、ヴェラは音もなく二歩、後退していた。
水路へと続く、朝靄の闇の奥へ。
「マテウス殿下」
霧の奥から、ヴェラの声が届く。
「私は影です。誰の所有物にもならず、誰の光にも従いません。……ご忠告申し上げます。これ以上私を追えば、次に自滅するのは王家そのものですよ」
少年の姿をした夜の剣が、ヴェラの肩のあたりで影を揺らし、金色の瞳でマテウスを見下ろす。
水路の跳ね橋が鎖を軋ませて上がり、霧が奥へ広がっていく。
マテウスが伸ばした指先が虚空を切り、石畳の上に銀のボタンが一つ転がった。
マテウスは手袋の指先でボタンを拾い上げる。
自らの胸元――処刑台で拾った一つ目のボタンが収まる懐へ触れ、奥歯を強く噛み合わせた。
* * *
商船の甲板を、冷たい川風が抜けていく。
遠ざかる王宮の尖塔を、ヴェラは見つめていた。
手すりに腰掛けた少年が、裸足を空中で揺らしている。
掌の上の影が、黒い刃の輪郭をわずかに象っては崩れる。
「ねえ、お姉さん。あの王宮のご飯、最高だったねえ。アウレリアって女の絶望、すっごく重たいコクがあって美味しかったよ」
少年は満足そうに腹を擦り、それから唇の端を吊り上げた。
ヴェラは懐から一枚の白紙の羊皮紙を取り出し、甲板の木樽の上に広げる。
指先で紙の端を撫で、平らにならした。
「ねえ、次はどこの国を壊しに行く?」
少年の金色の瞳が、夜明けの光の中でギラリと笑った。




