第4話:帳簿の隙間
切っ先がヴェラの眉間を捉えたまま、マテウスはわずかも重心を揺らさない。
「顔を見せろと言った」
低音が石壁にぶつかって跳ね返る。抜刀した白刃が月光を吸い、青白く光る。逃げ場のない一直線の回廊。
ヴェラは息のテンポを崩さず、顎をわずかに引いた。
「夜回りの範囲がずいぶん広いのね、殿下」
フードの奥から滑り出る声は低く、ひび割れ一つない。
執務机で外交文書を代筆していた頃と寸分違わない、平坦な抑揚。
マテウスの目がわずかに焦点を絞る。手袋越しに柄を握る指関節が白く浮き上がった。
「……やはり、貴様か」
「死刑囚の身元確認なら、処刑台の瓦礫の下を掘り返せばいいでしょう」
「戯言を。あの場で起きた不条理な事故……貴様が何を仕掛けた」
「腕のいい処刑人を手配し直すことね。人が勝手に足を滑らせただけよ」
直剣の間合い。半歩踏み込めば、マテウスの刃は彼女の喉笛を貫く。
だが、男の革靴は敷石に食い込んだまま動かない。
目の前に立つ女の輪郭の裏にある、不気味な底割れの気配を測りあぐねている。
「貴様を捕らえれば、すべて白日の下に晒される」
「できるなら」
靴底の影が、床面からわずかに浮き上がる。
マテウスの足元、そして近衛兵たちの影の輪郭が、重力を失ったように薄く波打つ。
『ねえ、お姉さん。この堅物、すっごく美味そうな匂いがするよ』
少年の湿った囁きが、マテウスの耳朶をかすめる。
「……何だ」
男の視線がブレた瞬間、壁の燭台の油が小さく弾け、金具が擦れ合う音が響いた。
視界が乳白色の刺激臭で埋まる。
「構うな、踏み込め!」
近衛兵たちが靴音を荒げて前進する。だが、踏み込んだ先頭の足先がタイルの角を滑り、隣の胴当てに激しく激突した。
互いの甲冑が噛み合い、乾いた金属音を立てて床へ倒れ込む。
「殿下、姿がありません!」
「中庭の通路を塞げ!」
煙が引いていく中、マテウスは一人、動かない。
足元のタイルの継ぎ目を見下ろす。油など引かれていない。乾いた石のささくれがあるだけだ。
右手に握られた直剣――その鋼の腹に、細い指の腹で触れられたような微かな曇りが残っている。
「……悪魔め」
鞘に刃を戻す音が、喉の奥の毒づきと重なる。
* * *
翌朝、王太子宮の静寂は、硬い陶器の割れる音で断ち切られた。
「――どういうことよ、これは!」
アウレリアの叫びが扉の隙間から漏れ、絨毯を揺らす。
床には、朝の紅茶が注がれていたはずの白磁の破片が散らばり、茶色い染みを広げている。
握りしめた掌の中で、黒瑪瑙の角が皮膚に食い込む。
公爵家の裏紋章が刻まれた、父親の私印。その足元で、筆頭侍女が額を床に擦りつけていた。
「め、滅相もございません! 私などがあのような品を――」
「嘘をおっしゃい! お父様ね……? なぜお父様の私印が、あなたの籠にあるのよ!」
昨日の朝、サイドテーブルの上に投げ出されていた、あの血の手形。
そして、侍女の荷物から出てきた父親の印章。
視界の端で赤黒い染みと黒い石がちらつき、喉の奥が引きつる。
「殿下、落ち着いてくださいませ! 閣下がそのような――」
「衛兵! この女を地下牢へ叩き込みなさい! 今すぐ!」
同じ時刻、西翼にあるロラン公爵の滞在私室でも、机の上の空気が止まっていた。
「……何の真似だ」
ロラン公爵は机上の書類を睨みつけている。帝国大使館へ送るはずの定期親書。
その紙片の間に、真鍮針で噛み合わされていたのは、アウレリアからの不正送金記録の控え。
発送期日の数字が不自然に滲み、査問使節が到着する前日――まさに今日の日付を示している。
娘の短慮。王太子の無能。
だが、この針を通したのは誰だ。自分の私室の鍵を外せる人間など、王宮には――。
まさかアウレリアのやつ、身代わりの侍女を処刑しても追及を逃れきれぬと悟り、父親を道連れにして帝国へ泣きつく手はずを整えたのか。
「閣下、いかがなさいましたか」
側近の声に、公爵は書類の角を指先で強く折り曲げた。
「アウレリアをこれ以上表に出すな。……査問使節が到着する前に、あの娘の病気療養の手配を進めろ。王太子宮の権限はすべて我が手で回収する」
* * *
夕刻、ヴェラは王宮の第二図書塔の地下に潜んでいた。
キリアンの手帳にあった通り、老司書の机から掠め取った予備の真鍮鍵を差し込むと、重い鉄扉の錠前は呆気なく開いた。
金庫から抜き取ったのは、公爵が娘への脅迫材料として隠していた「送金記録原本」――アウレリア直筆のサイン入り受領書だ。
「すごいね。誰も何も言ってないのに、勝手に喚いて互いの首を絞め合ってる」
梁の上にしゃがみ込んだ少年が、天井の隙間から中庭の衛兵を見下ろして笑う。
「ねえ、あの金ぴかの女の絶望、だんだん熟してきたよ。まだ青いけど、酸味が尖ってていい匂いだ」
「熟れさせるのは明日よ」
ヴェラは羊皮紙を二つ折りにし、使節団を迎える大広間の配膳台の隙間――給仕が必ず手をつける銀盆の裏へ、細い針で留め合わせた。
「最後の引き金を、あいつら自身の指にかけさせてあげる」




