第3話:濡れた封蝋
深夜の王宮は、昼間の華美な熱気を脱ぎ捨て、巨大な石の墓標のように静まり返っている。
回廊の天窓から青白い月光が差し込み、大理石の床に柱の影を等間隔に落とす。微かな金具の音を立てながら巡回兵の足音が遠ざかるのを、ヴェラは天井近くの採光用通路の暗がりから見下ろしていた。
影武者として王太子宮の構造を把握していたヴェラにとって、衛兵の巡回周期も、鍵の開閉スケジュールも、頭の中に刻み込まれた時刻表にすぎない。
「ねえ、お姉さん」
耳の裏で、布が擦れ合うような声が立つ。
実体を持たない少年が、影の裾を揺らすように囁く。
「公爵の部屋に行くの? それともアウレリアの部屋? どっちの首を絞める?」
「誰の首も絞めないわ」
梁を伝い、壁面の飾り棚を踏み台にして音もなく床へと滑り降りる。
「ただ、自分たちの手で首に縄をかけさせるだけよ」
目指すのは、王太子宮の西翼にあるロラン公爵の滞在用私室、そしてアウレリアの執務室だ。
キリアンから買い取った情報通り、公爵とアウレリアの間にはすでに修復不能な亀裂が走っている。
公爵は娘の浪費癖と短慮を軽蔑しつつ金蔓として利用し、アウレリアは父親の威光に怯えながら「自分を守ってくれる盾」として縋りついている。
共犯関係にある人間が最も恐れるのは、相棒が自分を切り捨てて先に逃げ出す事態だ。
ヴェラはロラン公爵の私室の前に滑り込む。
鍵穴に細い真鍮の針金を差し込み、わずか数秒で内部の爪を弾く。軋みもなく開いた部屋の中に気配はない。公爵は今夜、自派閥の貴族たちと夜通しの賭博に興じている手はずだ。
黒檀の執務机。
引き出しの隠し底から、公爵が保管していた私信の束を抜き取る。
鉱山開発の負債に関する督促状、そしてアウレリアが国庫から横流しした金の受領書。
机の書類立てには、公爵が帝国大使館へ送る予定の「鉱山利権に関する定期連絡の書状」が用意されていた。
社交辞令の並ぶ退屈な報告書。
ヴェラはその末尾、日付の欄を指先で叩いた。
「少年。ここ、よろしく」
少年の気配が喉の奥で小さく吹き出す。
『あは。了解』
机の上の羽ペンの軸が、微かに震える。
ペン先から落ちた黒いインクが滲み、日付の数字の隙間を埋めた。
本来なら「査問使節が到着した翌週」を指していた発送期日の数字が、滲んだ線の掛け違いによって、「使節が到着する前日――明日」へと姿を変える。
ヴェラはその親書の束の真ん中に、引き出しから抜き取った「アウレリアからの送金記録の控え」を無造作に挟み込んだ。
隠すのではない。公爵自身が「帝国への書状と一緒に送るつもりで取りまとめた」かのように、書類用の真鍮針で頑丈に留め合わせる。
さらに、机の引き出しの奥から、公爵が私的な連絡に用いる黒瑪瑙の印章――公爵家の裏紋章が刻まれた私印をつまみ上げる。
「これ、どうするの?」
影の中から少年が覗き込む。
「娘への贈り物よ」
ヴェラは部屋を出て施錠を戻し、アウレリアの寝室へと続く回廊を進む。
アウレリアの私室の隣、筆頭侍女が寝起きする小部屋の扉を開ける。室内には主人の世話で疲弊した侍女の寝息が響いていた。
ヴェラは足音を殺して寝台の脇へ寄り、侍女の私物入れ――洗濯物をまとめた籠の底へ、先ほど公爵の机から持ち出した黒瑪瑙の印章を滑り込ませた。
父親の持ち物が、なぜか最も身近な侍女の荷物に紛れ込んでいる。
それだけで十分だ。疑心暗鬼に苛まれるアウレリアの頭の中で、物語は勝手に完成する。
すべては、本人たちの胸の内にある後ろ暗い悪意を反射させるだけの、小さな配置換え。
実体のない刃は、人の肉体ではなく、張り詰めた猜疑心の糸を的確に弾いていく。
「さあ、戻るわよ」
回廊の影へと身を滑り込ませようとした、その瞬間だった。
「――そこまでだ」
低く、硬質な声が背後から落ちてくる。
角から現れたのは、灯りを落とした一隊。
先頭に立つのは、濃紺の外套をまとった男――王弟マテウスだ。
抜身の直剣が、月光を吸って白く冴え返る。切っ先は寸分のブレもなく、ヴェラの喉元を捉えていた。
白刃の冷たさが首筋の産毛を逆立て、マテウスが柄を握りしめる黒革の手袋が、ぎちりと軋む。
「足音が軽すぎる。……王太子宮の巡回周期と死角を熟知している侵入者など、この城には数えるほどしかいない」
マテウスの瞳が、射抜くようにヴェラを縛る。
「顔を上げろ。……処刑台から消えた亡霊か、それとも」
切っ先がヴェラのフードの縁へ、あと指三本分というところまで迫っていた。




