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第2話:共犯関係

王都の下町は、陽が昇りきっても湿った油と饐えた麦酒の匂いが立ち込めている。


王宮の尖塔が見下ろす目抜き通りから三本路地を入れば、衛兵の巡回すら気まぐれになる貧民街の縁だ。

傾いた看板を掲げた居酒屋【片目の豚亭】の最奥、昼間でも薄暗い仕切り席に、ヴェラは深くフードを被ったまま腰を下ろしていた。


手元には、ぬるいエールが半分。口はつけていない。


「お待たせ、幽霊のお嬢さん。まさか広場に布告が出る前に、処刑台の主賓自らお茶のお誘いをくれるとは思わなかったよ」


だらしない足音とともに、向かいの長椅子に男がどさりと身を沈めてくる。


灰金色の髪を適当に後ろへ撫で付け、ボタンを二つ外したシャツの上に使い古した革のベストを羽織っている。

王都の泥水を吸い尽くした密偵――キリアンだ。


「遅いわ」


「これでも辻馬車を乗り継いだんだ。王宮の周りは今、蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。執行官が発狂して刃物を振り回しただの、罪人が煙のように消えただの、噂が百通り飛び交っていてね。……で、君は首も繋がったままここに座っている、と」


キリアンは手にした油紙の包みからナッツのクッキーをつまみ、放り込むように口へ放る。咀嚼しながら、ヴェラの首筋や手首に残る赤錆の痕へ値踏みするような視線を這わせた。


「憲兵に突き出せば、懸賞金くらい出るんじゃない?」


「冗談。そんな面倒で儲からない仕事、誰がやるものか」


キリアンは口元を歪め、指先についた粉をテーブルへ擦りつける。


「それに、俺の勘がさっきから騒いでいる。『この嬢ちゃんを敵に回したら、次は自分の首が飛ぶぞ』ってね。……で、あの見事な狂言はどう仕組んだ? 執行官に毒でも盛ったか?」


「人間が勝手に足をもつれさせただけよ」


「へえ、そういうことにしておくよ」


キリアンはそれ以上突っ込まず、懐から角の擦り切れた革手帳を引き抜いて卓上に放り出した。

ヴェラは相手が指を離すより早く手帳を引き寄せ、親指でページを弾く。


「おいおい、扱いの荒い客だな。アウレリア殿下の直近三ヶ月の金の流れ、それから取り巻き連中の動向だ。第二図書塔の老いぼれ司書に年代物の蒸留酒を二本呑ませて、閲覧記録の裏帳簿を引っこ抜いてきた。……安くはないよ?」


「ツケにして。あの女が失脚すれば、王太子宮の裏金庫からいくらでも払えるわ」


「いいね、そういう不敬な掛け売りは嫌いじゃない」


手帳には、侍従の筆跡を真似た出納記録の控え、貴金属商への不審な支払い、直轄領からの穀物輸送費の中抜きが殴り書きされていた。

ヴェラの目が、手帳の六ページ目に並ぶ数字の歪みを拾い上げる。


「……鉱山の負債穴埋めね。公爵が南部の開発で開けた穴に、【白亜の誓約】の担保金を注ぎ込んでいる」


「話が早くて助かるよ。本来なら国庫の地下に封印されてなきゃいけない公金を、アウレリア殿下が実家に立て替えた体で横流しした。で、帳簿の辻褄を合わせるはずだった影武者――君を処刑台に送って、証拠ごと灰にする算段だったわけだ」


「原本の隠し場所」


ヴェラはキリアンの軽口を途中で断ち切り、顔を上げずに言った。


「公爵邸の金庫……と言いたいところだが、ロラン公爵は娘を信用していない。万が一の保険として、アウレリア殿下の直筆サイン入りの預かり証を、王宮内の旧式金庫に隠してある。……第二図書塔の地下だ。本鍵は公爵自身が首から下げてるがね」


「老司書に酒を飲ませたなら、地下の予備鍵のありかも聞いたでしょうね」


「手回しがいいねえ。司書の鍵束の隠し場所なら、その手帳の裏表紙にメモしてあるよ」


「十分よ」


ヴェラが手帳を閉じると、足元の深い影の底から、衣擦れに似た乾いた笑い声が微かに湧き上がった。


『ねえ、楽しそうな話してるじゃん』


影が蠢き、膝丈ズボンの少年――夜の剣の化身が、頭をもたげかける。

ヴェラが卓の下で爪先をわずかに動かすと、少年は不満そうに影の奥へ退いた。


キリアンがぴくりと眉を跳ねさせ、首筋を掌で撫でる。


「……おいおい。今、急に背筋が寒くなったんだが。隙間風か?」


「埃でも吸ったんじゃない?」


「ならいいがね。……で、これからどうする気だ? 金庫破りでもするか? さすがの俺も、公爵の私兵や近衛とやり合うのは御免だぜ」


「そんな下品な真似はしないわ」


ヴェラはぬるくなったエールグラスの縁を指先で叩く。


「公爵とアウレリアは、互いを血の繋がった味方だと思い込んでいる。だからこそ――互いが一番隠しておきたい嘘を、相手の目の前に落としてあげるだけでいいのよ」


「……相変わらず、いい性格をしている」


キリアンは口角を引き上げ、椅子を押して立ち上がった。


「ま、楽しませてくれよ。金が回収できなくなるのだけは勘弁だからな」


キリアンが去り、再び一人になった席で、ヴェラは胸元を押さえる。

薄い麻越しに、冷え切った金属のような気配が微かに蠢く。


「ねえ、夜になったら王宮に行くんでしょ?」


影の中から、少年が楽しげに声を潜める。


「今度はどんな悪戯をしてあげるの? あの金ぴかの女、さっき朝ごはんの部屋で腰を抜かして泣いてたよ。すっごく不味い涙だったけど!」


「そう急ぐことはないわ」


ヴェラは立ち上がり、フードを目深く引き直す。


「まずは、彼女の周りにある小さなネジを、一本ずつ緩めていくだけよ」


* * *


同刻、王都中央広場の処刑台。


立ち入りを禁じる荒縄が張り巡らされた現場で、一人の男が敷石の上に片膝をついていた。

濃紺の軍服に銀の飾緒。腰に佩いた直剣の柄には、王家の紋章が刻まれている。


王弟――マテウスだ。


「……殿下。現場の状況がまとまりました」


近衛兵の隊長が、報告書を差し出す。

マテウスはそれを受け取らず、処刑台の木柱を見据えていた。処刑人の斧が深々とめり込み、いまだに引き抜けないまま放置されている。


「執行官の証言は?」


「それが……『気がつけば手に短剣を握っていた』『魔術による精神干渉だ』と錯乱しておりまして。ですが、現場周辺から魔力の残滓は一切感知されませんでした」


「……魔術ではないな」


マテウスは立ち上がり、手袋を嵌めた指先で敷石の隙間をなぞる。


「執行官が短剣を取り違え、処刑人が足を滑らせ、衛兵が同士討ちを始めた。……どれも一つ一つは、ただの不注意や過失として処理できる矮小な事故だ」


「はっ……ですが、それらが同時に重なるなど、到底偶然とは……」


「ああ。何者かが作為的に仕組んだ『狂言』だ。だが、物理的な仕掛けも、魔術の痕跡もない」


マテウスの視線が、処刑台の脇の側溝へと向けられる。泥の中に、半ば埋もれるように落ちているものがあった。


銀の小さなボタン。

王太子宮の侍女が身につける、標準的な制服の留め具だ。


マテウスはそのボタンを拾い上げ、手袋越しに硬い感触を確かめる。


半年前、兄である王太子の執務室で、アウレリアに代わって外交条約の草案を整理していた少女の姿が浮かぶ。

感情を交えず、ただ機械のように正確にペンを走らせていた菫色の瞳。


あれほどの知性を持つ女が、公金横領などという杜撰な罪を犯すはずがない。

実務のすべてを彼女が背負っていたと知りながら、王家の体面と法秩序を盾にして、その理不尽な処刑を止めなかった己の胸の奥が、鈍く軋む。


そして――あの女が、黙って首を落とされるはずもないのだ。


「殿下? どうかされましたか」


「……いや」


マテウスはボタンを懐深くに収め、鋭く指示を飛ばす。


「処刑台の事故として片付けるな。行方不明となった罪人ヴェラの捜索を、王都の裏路地に至るまで極秘裏に開始しろ」


踵を返し、大股で階段を下りる。手袋の内側で、握りしめた銀の縁が皮膚を痛いほど圧迫していた。

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