第1話:夜の剣
夜明け前の大気が、薄い囚人服の粗い麻を抜けて皮膚へ張りつく。
処刑台の板張りは湿り気を帯びて、素足の裏から容赦なく体温を奪っていく。
手首を拘束する鉄環は重く、内側にこびりついた赤錆の粉が皮膚の擦り傷に食い込む。
ヴェラは顎をわずかに上げ、視線を石畳の広場へと投げかけた。
「――罪人ヴェラ。王室への反逆、ならびに王太子妃殿下の御名に対する不敬・冒涜の廉により、これより斬首刑を執行する」
執行官が掲げた紙片の端が、朝の風にパタパタと乾いた音を立てる。抑揚のない棒読みだ。
広場の端に散る衛兵のひとりが、槍を握り直すふりをして口元を歪め、あくびを噛み殺している。
あの男たちの網膜に映るのは、処刑台の黒ずんだ染みでしかない。
髪の編み目を揃え、扇を開く角度を指三本分に保ち、夜半過ぎの執務机でアウレリアの署名を真似続けた月日など、ここには持ち込めない。
使節団に握らせた担保金の穴埋め。公金から消えた銀貨三万枚の行方。
それらを書き連ねた帳簿を暖炉へくべたときの、燻る灰の匂いだけが喉の奥に残っている。
足元が僅かに揺れる。
筋骨隆々の処刑人が壇へ上がり、巨大な斧の柄を両手で握り直した。
研ぎ澄まされた刃先が、朝靄の中で鈍い油の光を返す。
「ねえ、すごく退屈そうにしてるね」
真横から声が落ちてくる。
首は動かせない。視界の隅、手すりの角に、膝を抱えた小柄な輪郭が乗っかっている。
薄汚れただぶだぶの上着。銀混じりの灰色の髪。泥のついた裸足の爪先が、空中でぶらぶらと揺れている。
周囲の衛兵の視線は、その輪郭を素通りして虚空を睨む。
「……誰?」
唇の端をわずかに割る。
「僕? 絶望を食いに来た通りすがり」
少年は手すりの上で片足を投げ出し、こちらの喉元を細い指で指す。
「死ぬ寸前のやつが一番いい匂いを撒くんだよね。王宮の身代わりが使い捨てられて首を落とされる場面なんて、極上の蜜のはずなのにさ」
指先が空を掻き、少年は眉をひそめた。
「ぜんぜん甘くない。泥の混じった雪を舐めてるみたい。許しを乞うて喚くとか、あのアウレリアって女の名前を叫んで暴れるとか、そういうのないわけ?」
「勝手に引き受けた仕事の清算よ」
視線を広場の敷石に戻す。
「計算が狂って盤面を降ろされるだけ。最初から誰にも期待していない」
少年の喉が小さく鳴る。
「あはは。死ぬのが怖くないわけじゃないくせに、ただの引き算で済ませてる。いいね、それ。すごく乾いてる」
足音がしないまま、気配が壇上へ滑り落ちてくる。
歩いた跡の敷石の影が、墨を垂らしたように濃く滲む。
「僕ね、このあたりじゃ〈夜の剣〉なんて呼ばれてる」
「……」
「剣って言っても、僕自身は虫一匹すり潰せないよ。でもね」
背伸びをした少年の呼気が、耳たぶをかすめる。
「――こういうことなら、できるんだ」
耳朶の奥へ、いくつかの単語が滑り込んでくる。
「……ふ」
喉から乾いた音が漏れる。
処刑斧を構えた男の目の前で肩の力が抜け、口元が引きつった笑みを刻む。
「……何を笑っている、罪人!」
執行官が書類から顔を上げ、苛立ちを含んだ声を張り上げる。
「処刑人、早く首を落とせ!」
処刑人が短く息を吐き、両腕の筋を浮き彫りにして斧を振りかぶる。
足元で、乾いた擦過音がした。
振り下ろされるはずの足の踏み込みが、ぐらりと傾ぐ。
敷石の上に落ちていた羊皮紙に靴底を取られた処刑人が、無様に体勢を崩した。
両腕からすっぽ抜けた斧の刃が、耳を劈く破砕音とともに処刑台の太い支柱へ深々とめり込む。
「な、何をしている!」
執行官が叫び、自分の手元を見下ろす。
持っていたはずの処刑宣告書がない。代わりにその右手が握りしめていたのは、鞘から引き抜かれた細身の解体用短剣だった。
「ひ……っ!?」
「執行官殿、なぜ刃物を――!」
「謀反か!?」
周囲の衛兵が一斉に腰の鞘へ手をかける。
引き抜かれた白刃の切っ先が、わずかに狂った間合いのせいで隣の兵士の肩当てを激しく弾き、火花が散る。
「貴様、私を斬る気か!」
「違います、手が――!」
怒号が重なり、互いの腕が絡み合って団子状に転倒する。
足元で、カランと硬い金属音が落ちる。手首を塞いでいた鉄枷の蝶番が、最初から噛み合っていなかったかのように外れ、板張りの隙間に転がる。
擦りむけた手首を乱暴に払い、足元の影を踏む。
執行官は尻餅をついたまま短剣を手放せず、処刑人は柱に食い込んだ斧の柄にしがみつき、兵士たちは互いの襟首を掴み合っている。
誰の視線も、立ち上がった罪人の足元を捉えていない。
「……行くわよ」
「え、もう行くの? あっちの兵士、味方の太もも刺しそうだよ」
「死刑囚が長居する場所じゃない。……もっと美味いものが食べたいんでしょう」
影の中から金色の光が小さく瞬く。
「うん、もちろん」
壇上に脱ぎ捨てられていた黒い羊毛の外套を掴み、肩へ引っ掛ける。
怒声と金具の擦れ合う音を背中に残し、木組みの階段を一歩ずつ下りる。
* * *
銀のフォークが皿の縁を小さく叩く。
白葡萄の果汁を飲み干し、口元をナプキンで拭う。
「……ふふ。今頃はもう、あの目障りな小娘の首も落ちたかしらね」
帳簿の穴も、裏金の控えも、すべて処刑の手続きとともに焼却に回してある。
間もなく到着する帝国の査問使節には、無知な侍女の横領に心を痛める悲劇の妃を演じればいい。
手鏡を取ろうと、サイドテーブルへ右手を伸ばす。
指先に触れたのは、湿った羊皮紙のぬめりだった。
「……あら?」
手鏡の脇に、一枚の紙片が重なっている。
中央には、自分が今朝署名した金泥のサイン。
【反逆者ヴェラに対する処刑執行命令書】――宮廷の書類庫に封印されるはずの原本。
紙面の余白に、まだ乾ききっていない赤黒い手形が、擦れた跡を残してべったりと押し付けられている。
鉄の錆びたような生臭さが、鼻腔の奥を突く。
椅子の脚が床を削る鈍い音が鳴り、アウレリアの背中が壁にぶつかる。
鍵は内側から掛けたままだ。廊下の扉の前には近衛を立たせている。
処刑台からここまで、誰の手も介さずにこの紙が届くはずがない。
紙面の赤黒い染みの縁が、じわりと羊皮紙の繊維を吸って広がっていく。
窓枠の濡れた瓦の上に、一羽の黒い鳥が留まっている。
鳥は首を傾げ、金色の目をこちらへ向けたまま、羽音も立てずに朝の光の中へ飛び去った。




