3話 まだ試験は続く……
「臭い……」
「立ち止まるな」
レオンハルトの声が鋭く放たれた。志願者たちは詰めながら部屋の中に入る。
「これから布を外す。E級の怪異の標本だ。安心しろ、死んでいる。しかし、死して尚も体組織から魔力が放たれている。それに当てられた時、お前たちの身体が、どう反応するかを見る。おそらく……いや、絶対に気分が悪くなる者が出る。倒れる者が出る。それは恥ではない。ただし、それが番犬団員としての限界を示す場合がある」
「こ、怖い……」
後列の男が、隣に小声で呟く。
「黙れと言った」
短く吐き捨てるレオンハルト。男は縮んだ。そして彼は布を静かに引く。
台の上には、E級の小型怪異が横たわっていた。
外見は人間の子供に似ているが、頭部が通常の二倍に肥大化しており、眼球が六つある。
口腔内は深く、牙が三列並んでいた。四肢は細く長く、関節が人間とは逆方向に曲がっている。
皮膚は灰色がかった青白い色で、表面に細い血管が黒く浮き出ていた。前列の男が、一歩後ずさる。
茶色い髪の女が、唇を噛んで前を向く。後列の獣人族の女は、それをまっすぐに金色の目で見ていた。
「……すみません、駄目です、俺……」
部屋の端で、一人の男が膝をつく。
「外に出ろ。他の狩人が案内する」
男を見ながらレオンハルトは指示を飛ばす。
「すみません……本当に、すみません……」
「謝るな。お前の身体が正直なだけだ」
別の狩人に男は支えられて部屋を出た。続いて二人が外に出る。一人は激しい嘔吐を繰り返した。
残された者たちは、台の上の標本を見続ける。
「これがE級だ。最も格下。お前たちが前線で、最初に相対する可能性が、最も高い等級だ。これを見て立っていられない者は、前線には出せない」
レオンハルトは全員を見渡した。訪れる沈黙。茶色い髪の女の手が、小刻みに震えていた。
しかし、足は動かない。レオンハルトはそれを見た。だが何も言わない。
三段階の試験が終わりを迎えた頃、空は夕方に差し掛かっている。
薄曇りの空に、西の光が橙色を滲ませていた。
中庭の石畳が夕の光を受けて、染み込んだ血の赤茶色を浮かび上がらせている。
風が出てきた。冷たく、乾いた夕風だ。百三十七名の志願者のうち、中庭に残ったのは二十八名である。身体検査で弾かれた者、魔力適性がなかった者、怪異耐性検査で限界を示した者、そして途中で自ら辞退した者。それぞれの理由で、百九名が去った。
残された二十八名が、中庭に整列している。茶色い髪の女がいた。黒髪の獣人族の女がいる。
スラム出身の三人組のうち、二人が残っていた。
「最後に血契の説明をする。よく聞け」
全員の前にレオンハルトが堂々と立つ。全員が前を向いた。
「血契は誓約だ。番犬団への服従、任務の遂行、機密の保持。それを血を使った呪術的な契約で身体に刻む。効果は三つ。一つ、命令への反逆が身体に拒絶される。二つ、任務拒否が物理的に不可能になる。三つ、一部の戦闘能力が解放される」
右手を大きく振りながら、選別された志願者たちの覚悟を、今一度問うように語るレオンハルト。
すると彼の話を聞いて、誰かが小さく息を呑んだ。
「代償も三つある。一つ、命令違反をすると身体拘束が発動する。二つ、血契を破ろうとすると激しい苦痛が伴う。三つ、団を裏切った場合は処刑権が発生する」
「……処刑、ですか……」
前列の女が思わず声に出した。
「そうだ。お前たちは処刑される側になる可能性がある組織に入る。それが嫌なら今すぐ言え」
女へと鋭い視線を向けながら、レオンハルトは門を指差す。すると彼女は唇を引き結んだ。
「……嫌じゃないです」
「嫌じゃない、じゃなく、覚悟があるかどうかだ」
「……あります」
「本当か?」
「ありますっ!」
女は目を逸らさなかった。レオンハルトは一秒だけ、その目を見る。それから視線を全員に戻した。
「血契は今日ではない。正式入団の日に行う。今日は、ここまでだ。一次試験通過者は明朝、ここに今日と同じ時刻に来い。来なければ、それで終わりだ。連絡は不要」
静かに腕を組み直すと、レオンハルトは話を終えて今一度、志願者たちの顔を両の眼に映す。
そして短い沈黙が、この場に流れた。
「解散」
両手を叩いてレオンハルトが言うと、二十八名が一斉に動き始める。門が開かれた。
夕の冷気が中庭に入る。茶色い髪の女が、門を潜る直前に、一度だけ振り返った。
中庭の中央に立ったまま、レオンハルトが空を見上げている。
血紅色の瞳が夕の光を受けて、濡れた血のような赤色に浮かび上がっていた。
女は何も言わずに門の外に出る。そして志願者たちが、全員外に出ると門が閉じられた。
中庭に残されたレオンハルトは、空を見たまま動かない。夜が来る。また狩りが始まるのだ。
――翌朝、空は晴れていた。昨日の薄曇りが嘘のように、王都の上に青い空が広がる。
しかし朝の冷気は昨日より鋭く、石畳から立ち上る霜が朝の光を受けて白く輝いていた。
日の出から一時間、中庭には既に二十八名、全員が揃っている。誰一人、欠けていなかった。
レオンハルトが主棟から出てきたのは、全員が揃ってから五分後である。
昨日と同じ黒の狩人外套。同じ血紅色の瞳。前髪が朝の冷気の中で僅かに揺れた。
「ふむ、全員来たか」
全員を一度見渡して、レオンハルトは口を開く。誰も答えない。答えが必要な問いではなかった。
「今日の試験は身体を大きく動かす。昨日の服装では話にならない者がいる。全員、更衣室に行け。訓練用の装束に着替えてから戻れ。安心しろ、男女で部屋は分かれている。他の狩人に案内させよう」
静かに腕を組みながらレオンハルトは、近くにいた狩人へと視線を配り合図を送る。
更衣室は訓練棟の一階にあった。石造りの廊下を進んだ先に、木製の扉が二つ並んでいる。
左が男性用、右が女性用だ。扉の前に狩人が一名ずつ立っており、中に入る人数を確認していた。
女性用更衣室は縦長の造りで、壁に沿って木製のベンチが並んでいる。
ベンチの上には折り畳まれた装束が人数分置かれていた。
石造りの壁は無骨で、採光窓が一つだけ高い位置にある。
朝の光が斜めに差し込んでおり、部屋の半分だけを照らしていた。
訓練用の装束は、動きを最優先に設計されている。
上衣は薄手の麻布で作られた半袖のシャツで、締め付けを最小限にするため、余裕のない裁断がされているのだ。下は膝上までの丈の短い訓練用ズボンで、腿の動きを妨げないよう内側に切り込みが入っている。足元は薄底の革靴だ。全体的に布地が薄く、動きやすさと引き換えに保護性能を、ほぼ持たない設計。
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