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16話 獣人差別

「だが、今日の訓練を完走できなかった。それが事実じゃないか?」

「……テメェ」

「ブリュンヒルダ。やめろ。相手にするな」


 廊下の後ろからイリスが声をかけた。


「だけど——」

「やめろと言った」

「……ちっ、分かったよ」


 そう言うと拳を握り固めたまま、ブリュンヒルダは相手から視線を外す。


「そう言えば一班って、獣人もいるんだよな。あれ、本当に使えるのか? もし満月の夜に暴走されたら——」


 頭を左右に振りながら、大きく肩を竦めると、カイルは話を続けた。

 しかし次の瞬間、ブリュンヒルダの拳が光りの速さで動く。

 そう、カイルの頬に重い一撃が入ったのである。


 そのままカイルは吹き飛ばされ、背名から壁に衝突した。瞬時に廊下が静まり返る。

 レオンハルトが、騒々しい物音を聞いて廊下に来た時、状況は既に固まっていた。

 カイルが壁に手をついて立っており、顎から血が流れ出ている。


 ブリュンヒルダが前に立っており、イリスが横から腕を掴んでいた。

 レオンハルトは、状況を一秒で見渡す。それからブリュンヒルダの前に立った。


 次の瞬間、レオンハルトの右手が、ブリュンヒルダの頬を打つ。乾いた音が鳴り響く。

 ブリュンヒルダが一歩よろめいた。百九十一センチの体格が、それだけで揺れる。

 廊下が完全に静まった。


「教官……!」


 イリスが声を上げる。


「黙れ」


 レオンハルトは動じていない。血紅色の瞳が、ブリュンヒルダを、まっすぐに見ていた。


「拳を使う場面ではなかった。分かるか?」

「だけどよ! アイツはアタシの仲間を……!」

「仲間を守りたいなら、もっと賢くなれ。お前が殴ることで何が解決する。カイルの偏見は消えるのか?イリスへの目が変わるのか?」

「……っ”」


 ブリュンヒルダは黙り込む。


「何も変わらない。むしろお前が暴力を振るったという事実が残る。それが証拠に使われる。獣人の仲間がいる班が暴力的だ、という話になる。お前の行動がイリスを傷つけることもある。分かるか?」

「……分かった」

「本当に分かったのか?」

「……はい、分かりました」


 口元を歪めつつも、ブリュンヒルダは、理解した素振りを見せる。


「カイル、お前の事は二班の担当教官に報告する。殴られた事実と、殴られる前に何を言ったかも含めてだ。いいな?」


 鋭利な視線でレオンハルトはカイルを見た。

 彼は渋々という感じで頷き、顎の血を袖で拭いながら、目を逸らした。


 そして夕方、一班が訓練棟の教室に集まる。ルシアが医療棟から戻っていた。

 右手首に包帯が巻かれている。もう顔は泣いていない。しかし、目が少し腫れていた。


「今日のことを話す」


 腕を組みながらレオンハルトが正面に立つ。全員が前を向いた。


「ノクターンの怪我について、脱落ではないと言った。それは本当だ。しかし、訓練中に怪我をしたことは事実。原因は足元の確認不足だ。霜が降りていた。それを踏まえて動く必要があった。次回は防げ」

「……はい」


 弱々しい声で返事をするルシア。


「次、ガルヴァーンについて」

「くっ……!」


 俯かせていた顔を、ブリュンヒルダが即座に上げた。打たれた頬が僅かに赤くなっている。


「お前が殴った理由は分かる。仲間を守ろうとした。それは否定しない。だが方法が間違っていた。ここは組織だ」

「……っ」

「組織では感情で動く前に判断が必要だ。怒りは力になる。しかし、怒りで動けば隙ができる。隙は死に繋がる。お前の怒りは理解できるが、その怒りを使う場所と方法を間違えるな」

「だけど教官、アタシは黙っていられなかった! 仲間のことを——」

「黙れとは言っていない。戦場以外で、やれと言っている。今は訓練期間だ。個人の感情を戦場に持ち込むな。それが一つ目だ」

「……はい」


 そう言うとブリュンヒルダは口を閉じた。


「二つ目。イリスについて」

「……なんだ」


 イリスが顔を上げる。金色の目がレオンハルトを見た。


「カイルの言葉は間違っている。獣人が暴走するという前提で話すことは偏見だ。ただし、その偏見は戦場にも存在する。仲間にも存在する可能性がある。それに対して、どう動くかは、お前が決めることだ。俺が決めることではない」

「……それは、アタシが自分で示せってことか」

「ああ、そうだ。言葉で変わらない人間は結果でしか変わらない。結果を出せ」

「……分かった」


 一秒だけ黙ると、イリスは静かに返す。


「質問があれば今聞け」


 レオンハルトが言った。すると狩人候補生(男性)の一人、アレクが手を挙げる。


「教官に聞きたいんですが……ここが組織だ、っていうのは分かります。でも、俺たちは命令されたから来たんじゃない。自分で選んで来た。それでも感情を捨てないといけないんですか?」

「捨てろとは言っていない」

「でも感情で動くなって——」

「感情で動くなと、感情を持つなは違う。感情があるから動ける。恐怖があるから生き残れる。悲しみがあるから仲間を守ろうとする。それは否定しない。ただし、感情に支配されると判断が消える。判断が消えれば死ぬ。感情を持ちながら判断できる人間になれ。それを訓練している」

「……難しいですね」


 少し間を置いてからアレクは呟く。


「教官は、感情と判断を両立させて、いらっしゃいますの?」


 静かにセレスティアが言い放つ。途端に教室内が静まり返る。


「できていない部分はある。確かにな」


 彼女を見ながらレオンハルトは答えた。


「正直なのですね」

「嘘をついても意味がない」

「それでも続けているのですね、教官は」


 静かにセレスティアは微笑んだ。


「ああ、続けるしかないからな」

「わたくしたちも、そういうことですわね」


 目を閉じながら、セレスティアは、小さく肩を竦める。

 それに対して、レオンハルトは答えなかった。しかし、それこそが答えである。

 そして夜の消灯前、廊下でブリュンヒルダが、イリスの前に立っていた。

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