第7話 嫉妬の念と自律神経
「意味わかんない! じゃあね、真乃極さん! 頼斗、そろそろ自由時間終わりよ! 先行くわね」
さくらは呆れたように僕の背中をバシッと叩き、自分の友人たちのグループへと戻っていった。
物理的障壁を失った僕は、再び真乃極さんの不可視の精神波に晒されることになったが、振り返ると彼女はすでに先ほどの殺気(と僕が推測したエネルギー)を霧散させていた。
「もう……頼斗くんってば、さくらちゃんと本当に仲がいいんだね」
少しだけ拗ねたような、それでいてどこかホッとしたような声色。
「幼馴染という初期配置の特性上、接触時間が長かっただけです。特筆すべき相関関係はありません」
僕が事実だけを淡々と述べると、真乃極先輩は「そっか」と小さく呟き、ふわりと花が咲くように微笑んだ。
その瞬間、僕の左胸の奥で、ドクンと不規則な拍動が起きた。
……異常事態だ。心拍数が徐々に上がっている
僕は自分の手首に指を当て、脈拍を計測した。平常時を大きく上回る数値だ。これは一体どういうことだ。彼女の笑顔という視覚情報が、僕の脳の扁桃体に何らかのエラー信号を送ったというのか? いや、そんな非論理的な現象はあり得ない。
僕は冷静に周囲の環境変数と自己の内部状態を再計算した。
結論が出た。先ほど摂取した未知の卵焼きだ。あれに含まれていた糖分と栄養素が急激な血糖値の上昇を引き起こし、生理現象として自律神経の乱れを誘発したのだ。さらに言えば、五月の強い紫外線による急激な気温上昇も影響しているな。
完璧な論理的帰結だ。自分の肉体に起きているエラーを、すべて物理的・生理的な要因として処理できたことで、僕は深い安堵を覚えた。
リュックから新調した『エスパー育成防衛対策録』を取り出し、新しいページにペンを走らせる。
『透視能力テスト:統計的推論により回避。ただし、未知の食物(彼女が手作りしたと思われる卵焼き)摂取および気温変化による自律神経の乱れ(心拍数の上昇)を観測。物理的接触および視覚的催眠の可能性あり』
うん、完璧な防衛策だ。僕のような変人に女子が好意を向ける確率は0%という宇宙の真理がある以上、僕が特定の人を意識するということもありえない。
僕はノートを閉じ、防衛策は順調だと一人で満足げに息を吐いた。
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五月の爽やかな風が吹き抜ける、遠足の翌日の放課後。
私、高橋沙紀は、三年生のフロアから階段を下り、二年生の教室がある廊下へと足を運んでいた。
昨日の遠足で、私の親友である凛が、意中の亀岡くんにどのような「非科学的なアプローチ」を仕掛けたのか。そして、それがどう物理的に論破されたのか。
呆れつつも少し気になっていた私は、情報通の後輩――佐藤健太くんから直接話を聞こうと思ったのだ。
二年A組の教室の前まで来ると、開け放たれたドアの近くに、首にワイヤレスイヤホンをかけた見慣れた後ろ姿があった。
「健太くん……」
声をかけようとして、私はピタリと足を止めた。
彼の様子が、いつもと違ったからだ。
普段なら、飄々《ひょうひょう》とした態度でニヤニヤと薄笑いを浮かべて周囲を観察している彼が、今はまるで時間が止まったかのように、一点を静かに見つめていた。
その視線の先を追う。
教室の後ろの方で、数人の女子生徒と楽しそうに笑い合っている、栗色のポニーテールの女の子。
亀岡くんの幼馴染の、伊藤さくらちゃんだ。
健太くんの横顔には、いつもの余裕はなかった。ただ真っ直ぐに、少しだけ切なさを滲ませたような瞳で、さくらちゃんの眩しい笑顔に視線を釘付けにしている。
その表情を見た瞬間、私の頭の中で、散らばっていたピースがパチリと音を立ててはまった。
……そっか。そういう、ことだったのね。
彼がいつも情報通として周囲の人間関係を面白がって観察していたのは、特定の誰かから目を逸らすため、だったのかもしれない。
健太くんの視線の先には、最初から彼女しかいなかったのだ。
「…………っ」
不意に、胸の奥がチクリと、鋭く痛んだ。
彼と話す時間が楽しいと気づいたばかりだったのに。芽生えかけたばかりの私の小さな感情は、自覚したと同時に、彼が別の誰かを想っているという確固たる現実を突きつけられてしまった。
教室の中では、さくらちゃんが冗談を言って笑い、それを遠くから見つめる健太くんの唇が、つられたように微かに弧を描く。
その二人の間にある見えない距離感と、入り込む隙のなさに、私は息が詰まるような感覚を覚えた。
「……バカみたい、私」
誰にも聞こえないような小さな声で呟き、私は踵を返した。
彼に声をかけることはできなかった。今の私には、彼のその優しい横顔を、真っ直ぐに見つめ返す自信がなかったから。
親友のすれ違いばかりの恋を心配している場合じゃなかった。私自身の心にも、こんなに厄介で、切ない感情が隠れていたなんて。
遠足明けの少し騒がしい廊下を歩きながら、私はただ、この胸の奥のチクリとした痛みが早く消えてくれることだけを、非論理的にも願っていた。




