第47話 共有結合
三月。春の訪れを告げる生温かい南風が、校舎の屋上を吹き抜けていく。
卒業式まで残り二週間となった今日の昼休み、僕は真乃極凛さんと共に、屋上のフェンス際で硬直している三人の人物を観測していた。
高橋沙紀先輩。悪友の佐藤健太。そして幼馴染の伊藤さくら。
彼ら三人は、互いに絶妙な物理的距離を保ち、見事なまでの正三角形を構築して無言で立ち尽くしている。誰一人として口を開こうとせず、ただ気まずい視線だけが空中を交錯していた。
「頼斗くん。やっぱりあのみんな、すごく気まずそう……。どうにかしてあげられないかな」
僕の隣で、真乃極さんが不安そうに僕の制服の袖を引いた。彼女の大きな瞳が、親友である高橋先輩たちを心配そうに見つめている。
僕は中指で眼鏡のブリッジをスッと押し上げ、キャンパスノートを取り出した。
「心配には及びません。彼らの現在の心理的膠着状態は、物理学的な力学モデルで完全に説明可能です。今から僕が、最も論理的な解決策を提示してきましょう」
「えっ? 物理学……?」
首を傾げる真乃極さんを伴って、僕は重苦しい空気が蔓延する正三角形の中心へと、迷いなく足を踏み入れた。
「やあ、三人とも。見事なまでのデッドロック状態ですね」
僕が声をかけると、三人はビクッと肩を震わせ、一斉にこちらを向いた。
「亀岡くん……。あんたたち、いつからそこにいたのよ」
「頼斗。お前なぁ、空気読めよ。今、俺たち最高にデリケートな時期なんだわ」
「そうだよ頼斗! いきなり呼び出して何なのよ!」
三者三様の非難の言葉が飛んでくるが、僕は一切動じず、手元のノートを開いて彼らに提示した。
「空気の組成は窒素七十八パーセント、酸素二十一パーセントで不変です。それよりも、僕が先日観測した、君たちの『恋愛感情のベクトル』の図解を見てください」
ノートの白紙には、三人の名前と、それぞれに向かう矢印が書かれている。健太からさくらへ。さくらから高橋先輩へ。そして高橋先輩から健太へ。
「君たちの互いへの感情のベクトルは、見事なまでに閉路を構成しています。つまり、この正三角形における力の合力は『ゼロ』。誰かが動こうとしても、他の二つの力が牽制し合い、完全に物理的な均衡状態に陥っているのです」
「は……? ベクトル? 合力?」
高橋先輩がこめかみを押さえ、健太がポカンと口を開ける。
「この無駄な緊張状態を解くための最適解はただ一つ。君たちが抱えている失恋という負のエネルギーを、それぞれが独立して抱え込むのではなく、三人で電子を共有し合うように『共有結合』することです。共有結合は化学結合の中でも極めて強力であり、分子として最も安定した状態を作り出します」
「……」
「つまり、互いの気まずさや失恋の痛みを完全に共有し、身も蓋もない『失恋同盟』として再結合しろと言っているのです。そうすれば、この不毛な三すくみは完全に霧散します」
僕が極めて論理的な結論をドヤ顔で語り終えると、屋上に数秒間の沈黙が落ちた。
やがて。
「……ぷっ。あははははっ! 何それ、共有結合って! 亀岡くん、おかしいよ!」
最初に吹き出したのは、高橋先輩だった。彼女はお腹を抱え、アンダーリムの眼鏡の奥に涙を浮かべるほど大笑いし始めた。
「いやマジで、頼斗のポンコツ理屈、今日ほど笑えた日はねぇわ! なんだよ恋愛マスター気取りかよ!」
「頼斗、ほんと意味わかんない! でも、なんか……ウケる!」
健太もさくらも、堪えきれないように吹き出し、最後には三人で顔を見合わせて大笑いし始めた。
先ほどまでの重苦しい空気は、僕の論理的なアプローチ(彼らに言わせればポンコツ理屈)によって完全に破壊されていた。
「まったく、あんたには敵わないわ。……そうね、合力ゼロなら、三人で仲良く失恋スリーアミーゴスでも結成するしかないわね」
「異議なしっす。俺たち、見事なまでに綺麗に散りましたからね」
「うん! 私、先輩と健太とスリーアミーゴスになる!」
三人は憑き物が落ちたような晴れやかな顔で笑い合っている。僕の提示した共有結合の理論が、見事に実証された瞬間だった。
「ほら、真乃極さん。君の親友のバグは修正されましたよ」
「ふふっ。頼斗くんって、本当にすごいね。ありがとう」
真乃極さんは僕の腕にそっと自分の腕を絡め、とびきり甘い笑顔を向けてきた。僕の心拍数が再び非論理的な数値を叩き出しそうになったが、今はそれも悪くないと思えた。




