第46話 力の均衡
その日の夜。
真乃極さんが帰宅し、静かになった自室で一人、僕は物理の応用問題と向き合っていた。
ピコン、と机の上のスマートフォンが短い通知音を鳴らす。
画面を見ると、真乃極さんからのメッセージだった。
表示されていたのは、『ウサギが部屋の隅で膝を抱えて寂しそうにしているスタンプ』。
そして、それに続いて短いテキスト。
『今、私の気持ち分かる?』
その文字列を見た瞬間、僕の脳裏に過去のデータがフラッシュバックした。
以前の僕なら、これを間違いなく『遠隔透視(千里眼)』のテストだと断定し、非科学的な精神感応を論破するための長文メッセージを返信していただろう。
しかし、今の僕は違う。
僕は迷うことなく、通話ボタンをタップした。
数回のコールの後、少し驚いたような、けれど嬉しさを隠しきれない声が聞こえてきた。
『……もしもし?』
「夜分遅くにすまない。通話に出られる状況でよかった」
『頼斗くんから電話くれるなんて、珍しいね』
僕は眼鏡のブリッジを押し上げ、極めて論理的な推論を口にした。
「送られてきたスタンプのウサギという生物は、生態的に孤独耐性が低く、ストレスを感じやすい。加えて、僕たちが物理的に離別してから数時間が経過しているという時間的変数。さらに『気持ちが分かるか』という問いかけ」
『う、うん』
「これらを総合的に計算した結果、君がテキストデータではなく、僕とのリアルタイムな音声通話を要求している確率が九十九パーセントを超えると算出したんだ」
僕が完璧な分析結果を告げると、電話の向こうで真乃極さんがクスッと笑う息遣いが聞こえた。
『ふふっ。頼斗くんって、本当に相変わらず理屈っぽいんだから。……でも、大正解』
「……」
『頼斗くんの声、聞きたかったの』
直接的な好意の言葉が、スピーカー越しに僕の鼓膜を震わせる。
室温は変わっていないはずなのに、顔が一気に熱くなるのを感じた。
「……僕の聴覚器官も、君の音声周波数を強く求めていました。明日のテスト勉強も、よろしくお願いします」
『うんっ! おやすみなさい、頼斗くん』
通話を切った後、僕はしばらくの間、自分の非論理的なまでに高鳴る心臓の音を持て余していた。
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二月のテスト期間中の学校。
放課後の図書室の片隅で、僕は新しく用意したキャンパスノートを開いていた。表紙にはかつて『エスパー育成防衛対策録』と書いていたが、今はただの『観察記録』だ。
斜め前方の閲覧席には、高橋先輩、健太、そしてさくらの三人が、それぞれ少しずつ距離を空けて座り、無言でテスト勉強をしている。
告白と失恋の連鎖。そして、これまでの関係性が崩れたことによる目標喪失。
その結果、現在の三人は顔を合わせづらい、極めて微妙で重苦しい空気に包まれていた。
僕はシャープペンシルを手に取り、ノートの白紙のページに三人の名前を書いた。そして、彼らの間に存在する『恋愛感情のベクトル』を物理の力学図のように矢印で書き込んでいく。
「なるほど……」
健太のベクトルは、さくらへ向かっている。
さくらのベクトルは、高橋先輩へ向かっている。
そして高橋先輩のベクトルは、健太へ向かっている。
僕の書き込んだ三つの矢印は、見事なまでにぐるりと円を描き、どこにも逃げ場のない閉鎖回路を構成していた。
「これは、物理学的に見れば極めて安定した状態だ」
僕は一人、ノートを見つめながら論理的な分析を呟いた。
「三つの力が互いに引っ張り合い、ベクトルの始点と終点が完全に一致する閉路を構成している。つまり、この空間における彼らの感情の合力は『ゼロ』だ」
誰も一歩も動けない。誰の思いも行き場を失い、互いの存在が互いの牽制になっている状態。
人間関係という不確定な要素が、これほどまでに美しい力学の均衡を保っているとは。
「見事な三すくみだな」
僕は彼らの抱える深刻な精神的苦痛を完全に棚に上げ、その完璧な論理的構造に一人で深く感心していた。
しかし、この力の均衡を破壊しなければ、彼らの間に蔓延する重苦しい空気は永遠に霧散しない。
「合力がゼロならば……外から別の物理的アプローチを加えるしかないですね」
僕はノートをパタンと閉じ、眼鏡の奥で冷徹な光を光らせた。
真乃極さんとの約束を果たすため、僕の次なる論理的解決策の構築が始まっていた。




