第44話 初日の出
「あ! 頼斗くん、見て見て!」
おみくじの結び所で、真乃極さんがパァッと顔を輝かせて僕の方へ駆け寄ってきた。
その手には、一枚の紙片がしっかりと握られている。
「『大吉』だったよ! 今年はなんだか、すっごくいい事がありそう!」
彼女は頬を紅潮させ、嬉しそうに大吉の文字を僕に見せつけてきた。
その無邪気な笑顔を見ていると、僕まで口角が緩んでしまいそうになる。だが、彼女は不意に何かを思い出したように、ピタリと動きを止めた。
「あれ……? そういえば、文化祭の時の『出張・亀岡十幡神社』のおみくじって……」
彼女の大きな瞳が、ジトッと僕に向けられる。
「頼斗くん、『顧客満足度を最大化するための完全な統計操作だ』って言ってなかったっけ。……もしかして、ここのおみくじも全部……?」
鋭い。さすがは海外の特殊カリキュラムを経験(ただの留年だが)した頭脳だ。
僕は中指で眼鏡のブリッジをスッと押し上げ、視線を僅かに逸らした。
「そ、それに関しては……学園祭の出し物と、父が本気で営んでいる神社とはワケが違いますので、ノーコメントでお願いします」
親父の「大吉を多めに入れとけば若者はSNSで拡散して喜ぶんだよ!」という、極めて俗物的なマーケティング戦略を、今ここで暴露するわけにはいかない。
「ふふっ」
僕の苦しい弁明を聞いて、真乃極さんは堪えきれないようにクスクスと笑い出した。
「それって、答えを言っているようなものじゃない」
「……」
「でも、いいの。どんな確率操作があったとしても、私が今、頼斗くんと一緒にいられて幸せなのは、100パーセントの事実だから」
彼女が上目遣いで放ったその言葉に、僕の論理シールドは粉々に粉砕された。
反論の余地がない。僕が彼女と一緒にいて幸福度指数が最大化しているのも、また紛れもない事実なのだから。
+++
深夜の境内の気温は、放射冷却によって容赦なく奪われていく。
参拝を終え、少し人の少ない裏手へと歩いていると、隣を歩く真乃極さんが、ブルッと小さく肩を震わせた。
「冷えるねぇ。……そう思わない?」
彼女は両腕を擦りながら、少しだけ身を縮こまらせて僕を見上げてきた。
その言葉が聴覚器官に入力された瞬間、僕の脳内は反射的に『防寒』という物理的課題に対する解説を組み立て始めた。
「同意します。そもそも和服という衣服構造は、首元や袖口の開口部が広く、体温によって温められた空気が外部へ流出する速度が極めて速いのです。さらに生地の熱伝導率と放射の観点からも、現在の外気温に対する保温性能は著しく劣悪であり――」
僕が早口で熱力学の観点から解説を展開していると、真乃極さんは「う、うん……そうだね」と、少しだけ寂しそうに眉を下げた。
……ハッ。
僕は解説を途中で打ち切った。
馬鹿か、僕は。
彼女が求めているのは、和服の保温性能に関する論文発表ではない。
この寒さを凌ぐための、具体的かつ感情的なアプローチ――すなわち『温もり』だ。
僕は瞬時に思考を切り替え、自らの首に巻いていたグレーのマフラーを素早く解いた。
「しかし、この状況下における最適解が存在します」
僕は彼女の前に立ち、そのマフラーの半分を、彼女の白い首元へと丁寧に巻き付けた。
残りの半分は、僕の首に巻かれたままだ。物理的な距離は数十センチまで接近し、一本のマフラーが僕と彼女を繋いでいる状態になる。
「えっ……頼斗くん?」
「和服の熱放射を抑えるだけでなく、僕自身の体温という熱源を直接提供することが、最もエネルギー効率が良いという理屈です。……これで、少しは温度の低下を防げるはずです」
極めて理屈っぽい言い訳を並べたが、僕の顔は隠しきれないほどに赤く染まっていたに違いない。
真乃極さんは目を丸くした後、マフラーに顔を少しだけ埋め、とびきり甘く、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「うん……すごく、あったかいよ。頼斗くんの体温を感じる」
彼女が少しだけ僕の方へと距離を詰め、肩が触れ合う。
共有したマフラーを通して伝わってくる彼女の熱に、僕の心筋は再び激しい収縮を繰り返した。
熱力学の法則などどうでもいい。今、この宇宙で最も温かい場所は、間違いなくここだった。
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数時間が経過し、夜空が徐々に白み始めた元旦の朝。
初日の出を見ようと、境内はカウントダウンの時以上に人で溢れ返り、身動きすら困難な状況となっていた。
「うぅ……人、すごいね。これじゃ、お日様見えないかも」
人混みに阻まれ、真乃極さんが背伸びをしながら残念そうに呟いた。
僕は脳内コンピューターをフル稼働させ、現在の時刻、地球の自転速度、そしてこの緯度・経度における太陽の正確な方位角と仰角を瞬時に計算した。
「諦める必要はありません。境内の障害物と群衆の密度を計算した結果、完全な観測ポイントを導き出しました。ついてきてください」
僕は彼女の手を引き、人の波を逆行して、神社の裏山へと続く獣道のような階段を登り始めた。
数分後。息を切らして辿り着いたのは、裏山の高台にある、木々が開けた小さなスペースだった。
下界のEDMの騒音は遠のき、ここには僕たち二人しかいない。完全なプライベート空間だ。
「わぁ……! すごい、ここなら町が全部見渡せるね!」
真乃極さんが目を輝かせて景色を見下ろした、まさにその瞬間だった。
東の山の稜線から、黄金色に輝く太陽が、ゆっくりとその姿を現し始めた。
強烈な光の粒子が、冬の冷たい空気を切り裂き、僕たちの顔を明るく照らし出す。
完全な計算通り。障害物に一切遮られない、完璧な初日の出だった。
「綺麗……」
真乃極さんは感嘆の息を漏らし、朝日に照らされた顔をほころばせた。
黄金色の光を浴びて輝く彼女の横顔。風に揺れる髪飾り。そして、世界中のどんな光よりも美しく、優しく微笑むその笑顔。
僕は、太陽ではなく、彼女の顔から視線を外すことができなくなっていた。
「……真乃極さん」
「ん? どうしたの、頼斗くん」
彼女がこちらへ向き直り、小首を傾げる。
僕は中指で眼鏡のブリッジをスッと押し上げ、極めて真面目なトーンで、観測結果を報告した。
「現在の太陽の照度は約十万ルクスに達しているはずですが……僕の視覚野においては、太陽の光度よりも、真乃極さんの笑顔の方が遥かに視覚的刺激が強いようです」
僕が真顔で放った究極の惚気に、真乃極さんは一瞬ポカンと口を開け、次の瞬間、顔を真っ赤にして両手で顔を覆った。
「も、もうっ……! 頼斗くんのバカっ! そういうこと、いきなり真顔で言わないでよぉ……!」
「事実を述べたまでです。僕の網膜は、あなたという光に完全に支配されていますから」
「わぁぁっ、もう言わないで! 恥ずかしい……!」
彼女は照れ隠しに僕の腕をポカポカと叩きながら、それでも顔の隙間から、僕を見て嬉しそうに笑っていた。
新しい年が、光に包まれて始まっていく。
僕の『確率0%』の強固な論理は彼女によって完全に破壊されたが、その代わりに手に入れたこの非論理的で温かい感情は、どんな数式よりも確かな真理として、僕の胸の中で輝き続けていた。




