第43話 願い
大晦日の夜。
僕の実家である亀岡十幡神社の境内は、およそ宗教施設とは思えない極限のカオス状態に陥っていた。
「ズンッ、ズンッ、ズンッ……チャチャ!」
親父が導入した重低音のEDMが腹の底に響き渡り、大量のスモークマシンから噴き出される白い煙が足元を覆い尽くしている。さらに、天空を切り裂く緑色のダイオードレーザーが、冬の夜空にサイバーな幾何学模様を描き出していた。
古くからの氏子たちからは完全にドン引きされていたこの「サイバー祈祷」だが、SNSで拡散された結果、なぜか若者たちの間で大流行してしまったのだ。
今や境内は、カウントダウンイベントに押し寄せた若者たちで溢れ返り、親父は臨時のアルバイトを多数雇えるほどに儲け始めていた。
そのおかげで、僕はこの最も忙しい大晦日に、裏方の物理的タスクから解放されるという幸運を得ていた。
「頼斗くん、お待たせ!」
人混みを縫って、少し甘さを帯びた声が鼓膜を揺らす。
振り返ると、そこに立っていたのは、真乃極凛さんだった。
白地に赤い椿の柄が散りばめられた、艶やかな振袖姿。綺麗に結い上げられた黒髪には、花の髪飾りが揺れている。
ドクン、と。僕の左胸の奥で、激しい心拍数の上昇が観測された。
……異常事態だ。彼女の和装という極めて稀な視覚的ノイズが、僕の自律神経に深刻なエラーを――いや、違う。クリスマスを経て、僕はもう自分のこの感情の正体を完全に理解している。
これはエラーではなく、僕の論理を凌駕する「恋心」という確固たる出力結果だ。
「……とても似合っています。色彩のコントラストが、あなたの視覚的魅力を最大限に引き出している」
「ふふっ、ありがとう。頼斗くんにそう言ってもらえると、すっごく嬉しいな」
真乃極さんは頬を赤く染め、嬉しそうに微笑んだ。
しかし、周囲を見渡せば、飛び交うレーザー光線と重低音に熱狂する若者たちの群れ。およそ風情というものからは程遠い空間だ。
「宗教を信じていない僕が言うのもなんですが、もっとしっかりした神社へ行きませんか? ここは明らかに、静粛な祈りの場としての機能を喪失しています」
僕が客観的な事実を突きつけると、真乃極さんはクスクスと笑いながら首を横に振った。
「ううん。私はここ、ユニークで好きだよ。それに……」
彼女は上目遣いで僕を見つめ、少しだけ声を潜めた。
「頼斗くんが育った場所だもん。ここで、一緒に年を越したかったの」
「……ッ」
彼女の言葉が直接三半規管をくすぐり、僕の思考回路は凄まじい処理落ちを起こしかけた。
その時、カウントダウンに向けてさらに押し寄せてきた人波が、真乃極さんの肩にドンッとぶつかった。
「あっ……」
「危ない」
僕は反射的に彼女の腕を引き、自分の側へと寄せた。
これ以上、このエントロピーが増大し続ける空間に彼女を一人で立たせておくのは、物理的な接触リスクが高すぎる。
「真乃極さん。現在の境内の人口密度と、群衆のランダムな移動ベクトルを計算すると、僕たちがはぐれる確率は極めて高い数値を示しています」
僕は極めて事務的な顔を作り、彼女の顔を真っ直ぐに見下ろした。
「はぐれる確率を下げる最も合理的な手段を実行します。不快でなければ、許可を」
「えっ?」
彼女が問い返すよりも早く、僕は彼女の白い手に自分の手を重ね、指を絡めるようにしてしっかりと握りしめた。
手のひらから伝わってくる、少し冷たいけれど柔らかい感触。
「こ、これで、質量の分断は防げます」
事務的な理由を口にしながらも、僕の顔面毛細血管は完全に拡張し、沸騰したように熱を持っていた。
真乃極さんは目を丸くしてパチパチと瞬きをした後、握られた手を見つめ、花が咲くようにとびきり甘い笑顔を浮かべた。
「うんっ。これなら、絶対にはぐれないね」
彼女が僕の手をギュッと握り返してくる。
僕たちは繋いだ手を通して互いの熱量を感じながら、カオスな境内を賽銭箱へと向かって歩き出した。
+++
レーザー光線が降り注ぐ中、僕たちは拝殿の前に辿り着いた。
財布から硬貨を取り出し、賽銭箱へと投げ入れる。
運動量保存の法則に従って放物線を描いた小銭が、チャリンと鈍い音を立てて木箱の底に吸い込まれた。
真乃極さんは目を閉じ、胸の前で両手を合わせて深く頭を下げている。
その美しい横顔を視覚野の端に捉えながら、僕も同じように目を閉じた。
僕は非科学的な神の存在など一切信じていない。祈りによって事象の確率が変動するなど、熱力学第二法則を愚弄する妄想だ。
だが……。
彼女は今、何を願っているのだろうか。
隣で静かに祈る彼女の思考が気になって仕方がない。僕の脳内コンピューターが、かつてないほど非論理的な計算を始めようとしている。
神が存在しないとしても……僕自身の意志と行動で、彼女を喜ばせたい。彼女を、あらゆる物理的・精神的リスクから守りたい。
それが、僕の導き出した今の『願い』だった。
もし、彼女の願いも、僕と同じ方向のベクトルを向いていたら。
そんな非科学的な偶然を、今の僕だけは、少しだけ期待してしまっていた。




