第37話 夕暮れの通学路
十一月の身を切るような冷たい風が、校舎の窓をガタガタと揺らしている。
私、伊藤さくらは、図書室に本を返却しようと、薄暗い放課後の廊下を歩いていた。
「あ……」
図書室の入り口まであと少しというところで、私はピタリと足を止めた。
開け放たれたドアの向こう、少し離れた書架の陰に、見慣れた二人の姿があったからだ。
三年生の高橋沙紀先輩と、私のクラスメイトである佐藤健太だ。
二人は、周囲の目につかない場所で、ひそひそと何かを話し合っている。
健太が「了解っす」と頷いて笑うと、沙紀先輩も悪戯っぽく、けれどひどく綺麗に微笑んだ。その二人の間には、私なんかが一ミリも入り込めないような、特別な共犯関係のような空気が流れていた。
『俺、さくらのことが好きだ』
つい先日、健太から言われた告白の言葉が脳裏をよぎる。
私はその告白を断った。ずっと近くで見てきた、憧れている人――沙紀先輩の特別になりたいと気づいてしまったからだ。健太は「いい友達でいてくれよ」と笑ってくれたけれど、きっと傷つけてしまったはずだ。
それなのに、今の健太は、私が一番見つめてほしい沙紀先輩の隣で、あんなにも自然に笑い合っている。
「……っ」
胸の奥が、鋭い針で刺されたようにチクリと痛んだ。
健太を振ったから気まずいんじゃない。私は、沙紀先輩の隣で親しげに笑い合う健太に、どうしようもないほどの嫉妬を感じているのだ。
目が合ったら、今の私は絶対に上手く笑えない。
廊下ですれ違うことすら恐ろしくなった私は、あからさまに目を逸らし、足音を立てないようにして、逃げるようにその場から立ち去った。
「私、嫌なやつだな……」
誰もいない階段の踊り場で、私は手元の本をギュッと抱きしめた。
健太への嫉妬と、自分自身の不甲斐なさで、泣きそうになる。
逃げてばかりじゃダメだ。このままじゃ、先輩は健太のところへ行ってしまうかもしれない。この苦しくて重い感情を、どうにかして先輩に伝えなくちゃいけない。
冷たいコンクリートの壁に背中を預けながら、私はある決意を胸に秘めて、強く唇を噛み締めた。
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「二年生男子の中で、知恵があり理屈っぽく、かつ棒状の物体を扱う人物……」
図書室を出て、夕暮れの通学路を歩きながら、僕は未だに脳内コンピューターをフル稼働させていた。
後輩の若葉さんが展開したタロットカード。お相手は『魔術師』であり、杖を持っているという非論理的な啓示。
僕の自律神経は、図書室を出てからずっと異常なエラー信号を出し続けている。
「やはり、野球部でデータ分析を担当している田中か。彼ならバットという『杖』を持ち、確率論にも精通している。真乃極先輩は、彼のスイング軌道と打率の相関関係に、超能力の素質を見出したと考えるのが論理的だ」
「だから!田中くんじゃないってば!」
隣を歩く真乃極凛先輩が、頬を膨らませて抗議してくる。
占いの結果を聞いてからというもの、彼女はなぜか機嫌が良く、僕のパーソナルスペースの境界線を越えて、弾むような足取りで歩いている。
「ねぇ、頼斗くん。占いの結果、すごく良かったね。私、近いうちに恋が成就するんだって」
彼女は上目遣いで、僕の顔を下から覗き込んでくる。
その大きな瞳には、隠しきれない期待と、とびきりの甘い熱が込められていた。彼女のシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、僕の左胸の奥で、再びドクンと激しい心拍数の上昇が観測される。
……異常事態だ。
彼女が「恋が成就する」と喜んでいる顔を見るだけで、僕の脳の処理速度は著しく低下し、論理的思考が完全にバグに侵食されていく。
「非科学的です。七十八枚の紙片のランダムな配列で、他者の感情という不確定変数が確定するなど、量子力学の観点からもあり得ません。それに、あなたが誰と恋に落ちようと、僕には無関係なノイズでしか……」
「無関係じゃないんだけどな……」
真乃極先輩はピタリと足を止め、僕の目の前に立ちはだかった。
夕日に照らされた彼女の顔は真っ赤に染まっていて、それでも、僕の目を真っ直ぐに射抜いて逃がそうとしなかった。
「もう……頼斗くんったら……」
少しだけ寂しそうに、けれど慈しむように微笑む彼女。
その瞬間、僕は息をするのすら忘れて、彼女の顔を見つめてしまった。
『僕のようなインチキ神社の変人息子が、女子から好意を持たれる確率は0%である』
僕の根幹を成すその絶対的な計算式が、激しいエラー音を立てて崩れ落ちていく。
もし、彼女の言う『魔術師』が田中ではないのだとしたら。
もし、彼女のその熱っぽい視線が、他の誰でもなく、この僕に向けられているのだとしたら?
「……っ!い、いかん!寒冷前線の接近に伴う急激な気温の低下で、僕の扁桃体がバグを起こしている!」
「えっ?頼斗くん!?」
僕は真っ赤になった顔を隠すように、早口で専門用語を並べ立て、逃げるように歩く速度を上げた。
「待ってよぉ!」と追いかけてくる彼女の声を背中に聞きながら、僕は自分の心臓の音が、かつてないほど巨大な音を立てて鳴り響いているのを、もう物理法則のせいにして誤魔化すことができなくなっていた。
強固だった『防衛対策録』の最終ページが、すぐそこまで迫っている。
十二月の足音は、聞こえ始めていた。




