第31話 健太の恋の症状が
修学旅行が終わり、いつもの見慣れた日常が戻ってきた放課後の教室。
私、高橋沙紀は、目の前で机に突っ伏している親友の真乃極凛を見下ろし、深くため息をついた。
「……で? 肝試しの暗闇で『安心させてほしい』って最高のパスを出したのに、亀岡くんは生物発光のエネルギー変換効率について熱く語り出した、と」
「うぅ……そうなの……。せっかく沖縄の夜で、これ以上ないくらい密着してたのに……っ。頼斗くんったら、私がホタルみたいに光る能力の覚醒を期待してるのかなって、本気で悩んじゃってたよ……」
私はこめかみを押さえた。
「あんたも大概だけど、あの男のポンコツ論理も限界突破してるわね。どういう脳の構造してたら、暗闇で抱きついてきた女子相手によくわからない物理学を語れるのよ」
「でもね、沙紀。頼斗くん、あの時すごく心臓の音が早かったの。私のこと、少しは意識してくれてるのかな……」
「それは単に、お化け役が出てきて驚いただけじゃないの?」
私が呆れ半分に突っ込むと、凛は「ち、違うもん!」と顔を赤くしてむくれた。全く、この頭脳明晰なはずの親友は、恋という病を患ってからすっかりポンコツだ。
その時、教室の入り口からひょっこりと顔を出した人物がいた。栗色のポニーテールを揺らした、亀岡くんの幼馴染、伊藤さくらちゃんだ。
「あ、沙紀先輩! よかった、まだ残ってたんですね!」
さくらちゃんはパァッと表情を輝かせ、小走りで私の元へやってきた。その顔はなぜか少し赤く、いつもよりソワソワとしている。
「さくらちゃん。どうしたの?」
「えっと、これ……修学旅行のお土産です! 先輩に、絶対似合うと思って……!」
さくらちゃんが少しもじもじしながら差し出してきたのは、小さな包みだった。開けてみると、沖縄の土産物屋で見かけるような、深い青色をした琉球ガラスのペンダントが入っていた。
「わぁ、綺麗。わざわざ私に選んでくれたの? ありがとう、さくらちゃん」
私が素直に礼を言って微笑むと、さくらちゃんは「えへへ」と照れくさそうに笑い、両手で自分の熱い頬を包み込んだ。
「先輩が喜んでくれてよかったです! それじゃあ私、日直の仕事があるんで失礼しますね!」
風のように去っていく彼女の背中を見送りながら、私は「可愛い後輩ね」と呟いてペンダントを光にかざした。
ふと視線を感じて横を向くと、凛がひどく真剣な、そして何かを察したような眼差しで私とペンダントを交互に見つめていた。
「どうしたの、凛。そんな顔して」
「ううん、なんでもない。沙紀って、ほんと罪作りだなぁって思っただけ」
凛は意味深な言葉を濁し、小さくクスッと笑った。私には何のことかさっぱりわからなかったが、親友が少し元気を取り戻したのなら、まあいいかと思うことにした。
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同日の放課後。
僕は図書室の片隅で、新着図書のデータ入力を進めていた。
修学旅行という非日常の極みのようなイベントを終え、ようやく論理的で平穏な空間を取り戻したはずだったのだが――僕の脳内コンピューターは、未だに深刻なエラーを引きずっていた。
「なあ、頼斗。ちょっといいか」
隣の席で、悪友の佐藤健太が珍しく真剣なトーンで声をかけてきた。いつも首にかけているワイヤレスイヤホンは外され、机の上に置かれている。
「どうした、健太。僕はこれから神社のスモークマシンの出力調整という物理的タスクが残っているんだが」
「俺、決めたわ。今日、さくらに告白する」
その言葉が聴覚器官から脳に伝達された瞬間、僕のタイピングの手がピタリと止まった。
「……勝率の計算は済んでいるのか? 以前僕が提示した、血糖値の低下を狙った甘味による餌付け作戦は実行するんだろうな」
「いや、そういう小細工はもういいんだ。ただ、自分の気持ちにちゃんとケジメをつけたくてさ」
健太は自嘲気味に笑い、窓の外の夕焼けに目を向けた。
「正直、自分でもアホかと思うぜ。あいつはただの世話焼きの幼馴染で、俺のことなんか男として見てねぇって分かってんのに。それでも、無意識に目で追っちまうんだよ」
「……視覚野の無意識なトラッキング現象か」
「あいつが他の誰かと楽しそうに笑ってると、なんか胸の奥がモヤモヤして、落ち着かなくなる。ちょっと目が合っただけで、心拍数がバカみたいに跳ね上がるんだ。……完全に、非論理的だよな」
健太の口から紡がれる『恋の症状』の数々。
それを聞いているうちに、僕の左胸の奥で、ドクンと不規則な拍動が起きた。
……異常事態だ。
健太の語るそれらの症状は、僕が真乃極先輩に対して抱いている『未知のシナプスによる自律神経の乱れ』あるいは『バグ』と、完全に一致しているではないか!いや、あり得ない。僕はただの科学好きで、恋という人間の心の不確かな感情に精神を蝕まれるというような非生産的な事には興味を持たないはずだ。僕は激しい動揺を隠すため、学生鞄から猛烈な勢いでキャンパスノートを取り出した。表紙には『エスパー育成防衛対策録』と記されている。
ペンを握り、この非科学的な現象を物理的に説明するための理論を構築するのだ。
『仮説:現在の僕の自律神経の乱れは、健太の放つ強力な精神波(恋心)に脳波が干渉され、疑似恋愛状態を強制的にトレースさせられているだけに過ぎない』
よし、これで完璧な論理が成立する。僕はただの共鳴現象の被害者だ。
しかし、ペン先はそこで完全にストップしてしまった。
ノートの余白に脳裏をよぎるのは、修学旅行の暗闇で僕の腕にすがりついてきた彼女の感触。水族館の青い光の中で微笑む、潤んだ瞳。
『彼女の顔を見ると、心臓がうるさい』
『彼女の言葉一つで、僕の計算式が狂う』
無意識のうちに書き連ねてしまった非論理的な感情の羅列。僕は慌ててボールペンのインクを指で擦って消そうとしたが、インクは無惨に紙を汚すだけで、僕の『確率0%』という強固な前提に、ついに修復不可能な亀裂を走らせてしまった。
「……頼斗? お前、顔真っ赤だぞ。熱でもあるのか?」
「な、なんでもない……! ただの室温上昇による体温調節機能の作動だ!」
僕はバタンと大きな音を立ててノートを閉じ、限界までオーバーヒートした脳を抱えてうつむいた。健太が意を決してさくらに告白しようとしているその横で、僕の得意な論理的思考は、初めて自分の抱えた『恋』という名のバグを前にして、完全に崩壊の危機を迎えていた。




