第30話 夜のベランダ
僕が生物発光のエネルギー変換効率について完璧な論理を展開し終える直前だった。
ガサガサッ、という茂みの音が先ほどよりも大きく響き、コースの先から突如として白装束を纏った何かが飛び出してきた。
「ひゃあああっ!」
真乃極先輩が鼓膜を破らんばかりの悲鳴を上げ、僕の胸元に顔を埋めるようにして強く抱きついてきた。
ドン、と質量の衝突による衝撃が走る。
彼女の両腕が僕の背中に回り、完全に僕の肉体をホールドしている。
「ま、真乃極さん……!落ち着いてください、あれはただの布を被った人間、おそらく教員の誰かによる物理的な脅かしに過ぎません!」
「む、無理無理無理!怖い、怖いよぉ……っ!」
彼女は僕の胸に顔を押し付けたまま、激しく首を振る。
その振動とともに、彼女の全身から発せられる熱量と、微かな震えが、僕の皮膚越しにダイレクトに伝わってくる。
僕はパニックになりながらも、冷静さを保つために脳内で『エスパー育成防衛対策録』のデータ更新を試みた。
『対象の質量は約四十八キログラム。衝突時の運動エネルギーは……』
ダメだ。計算式が全く組み上がらない。
代わりに僕の脳内を支配するのは、全く非論理的な出力ばかりだった。
『彼女の体が、ひどく震えている』
『僕の心拍数が、医学的な限界値を超えようとしている』
『このまま、彼女を抱きしめ返してしまいたいという、非論理的な衝動』
……異常事態だ。僕の脳が、視覚的ノイズの遮断された環境下で、触覚と嗅覚からの情報に完全にハッキングされている。
僕のような変人に彼女が好意を抱く確率は0%だ。これはただ、暗闇の恐怖による吊り橋効果の一種であり、僕という物理的障壁を盾にしているだけだ。
そう自分に言い聞かせても、両手は行き場を失ったまま宙を彷徨い、僕の論理回路は完全にフリーズしてしまった。
結局、お化け役が立ち去った後も、僕は彼女の温もりと震えに支配されたまま、一歩も動くことができず、ただ限界まで跳ね上がる心拍数を数えながらゴールを迎えることになった。
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「ほら、さくら。足元暗いから気をつけて歩けよ。怖かったら、俺の腕に掴まっていいからな」
同じ頃、別のルートを進んでいた俺、佐藤健太は、隣を歩く幼馴染の伊藤さくらに向かって、最高に男らしいセリフを放っていた。
昼間の土産物屋での屈辱を晴らす絶好のチャンスだ。暗闇に怯えるさくらを優しくリードし、頼りになる男としてのアピールを完璧に決めてやる。
「うん、ありがと!でも、意外と月明かりがあるから大丈夫そうだよ」
さくらは全く怯える様子もなく、むしろ夜の森の探検を楽しんでいるかのようにスタスタと歩いている。
いやいや、これから絶対にお化け役が出てくるはずだ。その時こそ、俺の胸に飛び込んでくるに違いない。
その期待は、次の角を曲がった瞬間に現実のものとなった。
ドロドロドロ……というベタな効果音とともに、木の上から突如として生首の作り物が落下してきたのだ。
「うわああああっ!出たあああっ!」
静寂な森に響き渡ったのは、俺自身の情けない絶叫だった。
俺は心臓が口から飛び出そうになるほどの恐怖で、完全に腰を抜かし、無様に尻餅をついてしまった。
「……えっ?健太、大丈夫!?」
さくらは生首の作り物には一切動じず、しゃがみ込んで俺の顔を覗き込んできた。
「あ、いや……これはその、足元が滑って……」
「ほら、立てる?健太ったら、意外と怖がりなんだね。よしよし、もう大丈夫だからね」
さくらは、まるで泣き虫の弟をあやすような手つきで、俺の背中をポンポンと優しく叩いた。
俺の、俺の男としてのプライドが……完全に粉砕された音を聞いた。
暗闇の中、さくらに手を引かれて歩きながら、俺は自分がただの『世話の焼ける幼馴染の友達その二』というポジションに完全に固定されたことを悟った。
狙っていたムードなど完全に破壊され、月夜のロマンチックな告白予定を一旦白紙に戻すこととした。
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肝試しという非論理的なイベントが終わり、宿泊先のホテルへと戻った僕は、深夜の部屋のベランダに出た。
同室の健太は、なぜか「俺のプライドが……」と呟きながらベッドで丸まり、完全に機能停止している。
僕はベランダの冷たい手すりに寄りかかり、南国の夜風を浴びながら、手元のキャンパスノートを開いた。
表紙には『エスパー育成防衛対策録』と記されている。
今日の暗闇での極限状態において、真乃極先輩から受けた精神感応および生物発光の要求に対する防衛記録を、正確に記しておかなければならない。
僕は深呼吸をして、ペンを走らせた。
『対象は視界の遮断された環境下で、僕に発光能力の行使を求めた。しかし僕は物理法則に基づき、人体による発光の非効率性を指摘し、論破した』
よし、ここまでは客観的な事実だ。
しかし、その先に続く文章を構築しようとした時、僕の指先がピタリと止まった。
脳裏にフラッシュバックするのは、暗闇の中で僕の腕にすがりついてきた彼女の感触。
微かなシャンプーの香り。
そして、不意に見上げた時の、潤んだ瞳。
『……暗闇での彼女の瞳が、ひどく潤んでいた』
『……抱きつかれた時の温かさが、まだ僕の胸に残っている』
「……ッ!」
気がつくと、ノートの余白には、物理データとはおよそかけ離れた、非論理的で感情的な文字列が綴られてしまっていた。
僕はハッとして、慌ててその文字列の上に二重線を何本も引き、乱暴に塗りつぶした。
「いかん……僕の思考が、完全にバグに侵食されている……!」
僕はペンを強く握りしめたまま、夜空を見上げた。
都会では見ることのできない、こぼれ落ちそうなほどの満天の星が広がっている。
その美しい天体観測の対象を前にして、僕の脳裏をよぎったのは、星座の配置でも、光の到達速度の計算でもなかった。
『……この星空を、真乃極先輩と一緒に見られたら』
その瞬間、僕は自分の非論理的な思考に戦慄した。
僕のような人間が、彼女に好意を持たれる確率は0%だ。それは揺るぎない絶対の真理であるはずだ。
それなのに、どうして僕は、彼女と星を見たいなどという、不合理で無意味な感情に支配されそうになっているのか。
……僕は、ただの被検体のはずだ。彼女の超能力特訓の、モルモットに過ぎないはずなのに。
どうして僕だけが、こんなにも色々なことを考えて、胸を痛めて、感じたことのない解けない思考にはまっているのだろうか。
南国の生ぬるい夜風が、僕の火照った頬を撫でていく。
塗りつぶされたノートの黒いインクの染みが、僕の心の中に広がる謎のバグを、嘲笑っているかのように見えた。




