第29話 暗闇の肝試し
修学旅行の夜。それは、非論理的な行動が集約された、極めてエネルギー効率の悪い時間帯である。
沖縄の宿泊先であるリゾートホテルの裏手には、亜熱帯の植物が鬱蒼と生い茂る遊歩道が広がっていた。波の音と、本州では聞き慣れない虫の鳴き声が、生ぬるい風に乗って暗闇の中から響いてくる。
これから行われるのは、修学旅行の定番イベント『肝試し』だ。
人間の恐怖心というものは、視覚情報の欠如による扁桃体の過剰反応に過ぎない。未知の空間で視界を奪われれば、脳は生存本能からエラー信号を出し続ける。それを娯楽として消費するなど、狂気の沙汰である。
「……亀岡、お前その手に持っているものはなんだ」
「ご覧になればお分かりかと、山田先生。千ルーメンの光束を誇るタクティカルライトです。視覚情報の欠如が恐怖の根源である以上、この暗闇を物理的に照らし出すことが最も論理的な防衛策です」
「没収だ。お前はただでさえ俺の胃を痛めつけているんだから、これ以上行事の雰囲気を物理で破壊するな」
白衣姿で疲労困憊の山田先生にあっさりとライトを取り上げられ、僕は丸腰で亜熱帯の暗闇へ挑むことを余儀なくされた。
続いて行われたのは、ペアを決めるための非科学的な運任せの儀式――くじ引きである。
箱の中から引いた木札には『肆』の文字が書かれていた。
「あ……頼斗くん。私と同じだね」
不意に、少し甘さを帯びた声が鼓膜を揺らす。
振り返ると、私服姿の真乃極凛先輩が、自分の木札を胸の前で両手で握りしめながら微笑んでいた。
僕は瞬時に脳内コンピューターで確率計算を行った。この過疎化が進む高校の、たった一クラスしかない二年生の中で、ピンポイントで彼女とペアになる確率。これは統計的に見てありえなくはないが、極めて不自然な偏りだ。
まさか、彼女は念動力を用いて、箱の中の木札の配置を物理的に操作したのか?
ん?
いかんいかん、エスパーを信じ始めてきてしまっている。冷静になるんだ、僕。
「頼斗くんと一緒で、すごく心強いな。よろしくね」
真乃極先輩は僕の思考をよそに、嬉しそうに僕のパーソナルスペースへと侵入してくる。
仕方がない。彼女が僕を『超能力特訓』の被検体としてこの暗闇に連れ込もうとしているなら、僕はそれを完全な論理で完封するまでだ。
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月明かりすらも分厚い葉に遮られる、亜熱帯の森のコース。
一歩足を踏み入れると、そこは完全な視覚のブラックボックスだった。
ガサガサッ!
「ひゃっ……!」
茂みの奥で何かが動く音がした瞬間、真乃極先輩が短い悲鳴を上げ、僕の右腕にギュッと抱きついてきた。
「真乃極さん。質量約四十八キログラムの物体が急激にぶら上がると、僕の歩行ベクトルに深刻なブレが生じます。離れてください」
「む、無理……!だって、本当に真っ暗で……何か出そうなんだもん……っ」
彼女は僕の警告を完全に無視し、さらに強く腕をホールドしてくる。
暗闇のせいで視覚情報は遮断されているが、その分、他の感覚器官が異常に研ぎ澄まされていた。
腕に押し付けられる柔らかい感触。視覚情報が遮断された代償として、彼女の髪から漂う甘い香りが、異常なほどの高解像度で脳へと伝達されてくる。そして、彼女の体温が密着した部分から直接伝わってくる。
ドクン、ドクン、と。
僕の左胸の奥で、心筋が激しい収縮を繰り返した。
……異常事態だ。心拍数が平常時を大幅に上回っている。
落ち着け。これは沖縄の高温多湿な環境下において、約三十六度の熱源が密着したことによる急激な熱伝導率の上昇だ。体温調節機能がオーバーヒートを起こしているに過ぎない。僕のようなインチキ神社の変人息子が、この状況でドキドキするなどという確率は0%なのだから。
「ほーほー」というフクロウの鳴き声のような不気味な音が遠くで響き、真乃極先輩は「ひっ」と息を呑んで足を止めた。
それに伴い、僕も歩みを止めることを余儀なくされる。
視界が奪われているせいで、彼女が僕の腕をきつく握りしめる指先の震えや、布越しに伝わる微かな熱の輪郭ばかりが、やけに鮮明なデータとして脳に送られてくる。
密着した腕から、彼女が小刻みに震えているのが伝わってくる。
「……頼斗くん」
微かに潤んだような、弱々しい声。
「暗くて怖いな……ねぇ、私が今、何してほしいか分かる?」
――来た!
僕の脳内は瞬時に最大級のアラートを鳴らした。
視覚情報が完全に遮断されたこの極限状態。それに加えて「私が今、何をしてほしいか」という曖昧な要求。
間違いない。彼女は恐怖に怯えるフリをして、僕に未知の超能力の発現を促しているのだ!
この真っ暗闇の中で視界を確保しろと暗に強要している。すなわち、赤外線を感知する『暗視能力』の獲得か、あるいは自らの肉体を光らせる『生物発光』のテストだ!
「……なんて無茶な要求をするんですか、あなたは」
僕は腕に抱きつく彼女を見下ろし、極めて冷徹な事実を突きつけた。
「人間が暗視能力を獲得するには、網膜の視細胞を根本から変異させる必要があります。さらに言えば、ホタルや深海魚のように体内から光を放つ『生物発光』を人間に求めているなら、あまりにも非科学的です。人体がATP(アデノシン三リン酸)を消費して光エネルギーを生み出すなど、エネルギーの変換効率が悪すぎて餓死する確率が高まります」
「えっ……?エーティー……ピー……?」
僕の完璧な物理的および生物学的な論破を前に、真乃極先輩はポカンと口を開けた気配がした。
「だ、だから、光るとかそういうのじゃなくて……っ!もっとこう、ぎゅっと……安心させてほしいっていうか……」
暗闇の中でも、彼女の顔が一気に沸騰したように赤く染まったのが、なぜか手に取るようにわかった。
だが、僕がその非論理的な言葉の真意を計算しようとした直前、コースの先の茂みが、不自然に大きく揺れた。
防衛戦はまだ終わらない。僕の強固な論理の壁は、彼女の熱によって確実に、そして静かに溶かされ始めていた。




