第27話 修学旅行
十月の修学旅行。
離陸からしばらく経ち、機体が巡航高度に達した頃、僕の肉体に物理的なエラーが発生した。
「……っ」
気圧の急激な変化により、鼓膜の内外で圧力差が生じ、耳の奥に鋭い痛みが走ったのだ。僕はすぐさま脳内データベースにアクセスし、最も論理的な解決策である『バルサルバ法』――すなわち耳抜きを実行しようとした。鼻をつまみ、口腔内の圧力を高めて耳管に空気を送り込む。理論上はこれで完璧に解決するはずだ。
しかし、気圧変化のスピードが僕の計算を上回ったのか、一向に耳の閉塞感が抜けない。
「頼斗くん。耳、痛くなっちゃった?」
隣の席から、少し甘さを帯びた声がした。真乃極凛先輩だ。親の都合で海外の学校に行っていた彼女は、当然ながら航空機の搭乗経験も豊富である。
「ええ。ボイルシャルルの法則に従い、機内の気圧低下によって中耳の空気が膨張している状態です。理論的な対処法は理解しているのですが、実行プロセスに何らかのバグが……」
僕が顔を顰めながら答えると、彼女はふわりと微笑み、シートベルトが許す限界まで僕のパーソナルスペースへと侵入してきた。
「力みすぎてるんだよ。ほら、ちょっとこっち向いて」
彼女の柔らかい手が僕の鼻をつまみ、もう片方の手が僕の顎に添えられる。至近距離に彼女の大きな瞳があり、ほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「私が合図したら、ゆっくり息を吐き出してね。……せーのっ」
言われた通りにゆっくりと圧力をかけると、鼓膜の奥でプツンという音がして、嘘のように視界と聴覚がクリアになった。
「どう?治った?」
上目遣いで覗き込んでくる彼女の顔面距離は、わずか数十センチ。
ドクン、と。僕の左胸の奥で、不規則な拍動が起きた。
……異常事態だ。僕は瞬時に自己の内部状態を計算する。これは上空一万メートルという特殊環境による軽度の低酸素状態と、気圧変化による自律神経の乱れだ。僕のような変人が異性に興味を持つということなど無いのだから、この動悸は純粋な生理現象に違いない。
「……完璧な気圧調整です。感謝します、真乃極さん」
僕は顔の熱を悟られないよう、早口でそう告げて窓の外へと視線を逃がした。
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沖縄の巨大水族館。自由行動の時間となり、僕は一人で大水槽の前に立っていた。
厚さ数十センチにも及ぶ巨大なアクリルパネル。それが支える数千トンの水圧と、その中を悠々と泳ぐ魚類の流体力学的な軌道を計算するのは、非常に有意義な時間だ。
その時、制服のポケットでスマートフォンが振動した。図書委員の後輩である鈴木若葉さんからのメッセージだ。
『ムムッ!亀岡先輩、注意喚起です!沖縄は古来より精霊の力が強い土地です!水族館という巨大な水風水の結界内で、真乃極先輩の精神支配能力がかつてないほど強化されています!どうか厳重な警戒を!』
相変わらず非科学的で重度なオカルトフィルターのかかった文章だ。風水などという環境変数が物理法則に影響を与えるはずがない。僕は電波の無駄遣いだと判断し、スマートフォンをしまおうとした。
「あれ?頼斗くん、偶然だね」
不意に、真横から声が降ってきた。
視線を向けると、私服姿の真乃極先輩が立っていた。
僕は瞬時に脳内コンピューターをフル稼働させる。二年生全員が点在するこの広大な施設内で、ピンポイントで僕に接触してくる確率など天文学的数字だ。
十中八九、僕の生体磁場を辿ってきた『追跡能力』の応用か、あるいは健太による裏工作(包囲網)によるものだ。若葉さんの警告にあった『精神支配能力の強化』という非論理的な妄想も、あながち無視できない変数に思えてくる。
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青い光に照らされる幻想的な空間。僕たちは、ジンベエザメが泳ぐメインの大水槽の前に並んで立っていた。
真乃極先輩は僕のパーソナルスペースに物理的限界まで接近し、二人で青い水槽を見上げている。
「綺麗だね……」
彼女がぽつりと呟いた。そして、ゆっくりとこちらへ向き直り、上目遣いで僕をじっと見つめてくる。水槽のブルーライトが彼女の艶のある黒髪と白い肌を照らし、普段とは違う神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「ねぇ……」
吐息がかかるほどの距離で、彼女は言った。
「私がこの景色を見て、何を願ったか当ててみて?」
――来た!
僕の脳内は瞬時に臨戦態勢に入った。これは間違いなく、精神感応による思考の同調を求めるテストだ!
彼女の脳内に浮かんだ非言語の願望を、僕の未開拓なシナプスで受信しろと強要しているのだ。
僕は物理法則と統計データを用いて、彼女の思考を論理的に暴き出そうと口を開きかけた。
しかし。
「それは……その……」
言葉が続かない。青い光に浮かぶ彼女の美しさと、至近距離から伝わる体温。そして、僕を真っ直ぐに射抜く潤んだ瞳。
僕の脳内コンピューターが、未定義の変数を強制入力され、激しいメモリリーク(処理落ち)を起こし始めた。
『僕のようなインチキ神社の変人息子が、女性から好意を持たれる確率は0%である』
長年信じて疑わなかったその絶対的な前提と、今僕の心臓を激しく打ち鳴らしている名状しがたい感情の波が、凄まじい勢いで衝突しているのだ。
視覚的ノイズによるエラーか?いや、水槽のブルーライトが副交感神経に異常をきたしているだけだ。だが、それにしては胸の奥の鼓動がうるさすぎる。彼女の視線を、言葉を、熱を、僕の全細胞が意識してしまっている。これがもし、恋などという非論理的なバグであるならば――。
「どうしたの?頼斗くん」
小首を傾げる彼女の問いかけに、僕は真っ赤になった顔を隠すこともできず、限界までオーバーヒートした脳みそから、一つの回答を絞り出した。
「……ジ、ジンベエザメの……捕食効率の向上、ですか」
「えっ?」
「あのように巨大な口を開けてプランクトンを濾し取る物理的構造において、鰓耙の密度と遊泳速度の相関関係が……」
限界を超えた僕の口からは、もはや自分でも何を言っているのかわからない的外れな海洋生物学の解説が飛び出していた。
それを聞いた真乃極先輩は、一瞬ぽかんと目を丸くした後、ふわりと花が咲くように微笑んだ。
「ふふっ、ハズレ。でも……頼斗くんが一生懸命考えてくれたなら、それでいいや」
呆れつつもどこか嬉しそうなその笑顔を見て、僕の心拍数はさらに跳ね上がった。
この非科学的なエスパー特訓において、僕の完全無欠な論理の壁は、いまや音を立てて崩れ去ろうとしていた。




