第25話 極端に狭いデッドスペース
文化祭の狂乱が過ぎ去り、九月の風が少しだけ涼しさを帯び始めた放課後。
僕はいつも通り、極めて論理的で平穏な帰宅ルートを歩いていた。
はずだった。
「……」
隣を歩くのは、なぜか当たり前のように僕のパーソナルスペースを侵略してくる真乃極凛先輩だ。文化祭での『出張・亀岡十幡神社』は、僕の予想を遥かに超える集客と混乱を招き、結果として大成功(ただし僕の精神的疲労は甚大)に終わった。そしてあのカオスな空間を経てからというもの、真乃極先輩の僕に対する接近頻度と、視線の熱量が明らかに増している。
だが、現在僕の脳内コンピューターが処理している異常事態は、隣の彼女だけではない。
問題は、背後だ。
後方約十メートル。足音の周波数、および不自然に息を殺す呼吸音。加えて、微かに聞こえる金属同士が触れ合うようなカチャカチャというノイズ……。
間違いない。僕たちは尾行されている。金属音の正体は、十中八九、図書委員の後輩である鈴木若葉のリュックに詰め込まれたダウジングロッドや謎のオカルトグッズだろう。彼女は文化祭での僕の神社(スモークとレーザーの過剰演出)を見て、真乃極先輩が本物の能力開発者であり、僕がその儀式によって覚醒しつつあると完全に信じ込んでしまったらしい。オカルトマニアの執念恐るべし、である。
「頼斗くん。どうかした?」
真乃極先輩が、小首を傾げて僕の顔を下から覗き込んでくる。
僕は視線を前方に固定したまま、小声で事実を告げた。
「後方から、質量の小さい物体が一定の距離を保って追従してきています。おそらく図書委員の鈴木さんでしょう。あのカチャカチャという音は、彼女が歩行の振動で鳴らしているダウジングロッドの干渉音です」
「あ……やっぱり。私もさっきから、ずっと見られてる気がしてて……」
真乃極先輩は少し困ったように眉を下げた後、周囲をチラリと見回した。
そして、僕の制服の袖をキュッと掴み、顎で背後を指し示した。
「ねぇ、彼女、まいちゃお」
上目遣いで、少しだけ悪戯っぽく微笑む彼女。
――来た!
その言葉が聴覚器官から脳に伝達された瞬間、僕の思考回路は凄まじい速度で警告音を鳴らした。
『まいちゃお』だと……!?
物理的な足の速さで振り切るなら『走ろう』と言うはずだ。しかし彼女は『撒く』という、痕跡を消し去るような表現を用いた。
つまりこれは、僕に『空間跳躍』、あるいは『瞬間移動』を発動させようとする、高度なエスパー特訓のテストに違いない!
後輩の尾行というイレギュラーな事象すらも利用して、僕の脳の未開拓領域に負荷をかけようというのか。
「……無茶を言わないでいただきたい。質量六十二キログラムの物体が、物理的な移動経路を無視して座標を書き換えるなど、現在の量子力学の観点からも不可能に近いです」
「えっ? りょうし……? ううん、そうじゃなくて、あっちの細い道!」
真乃極先輩は僕の論理的否定を完全にスルーし、僕の腕を強く引いて、通学路から外れた入り組んだ路地裏へと駆け込んだ。
「ちょっと、真乃極さん! 急激なベクトルの変更は関節に無用な応力を――」
「しーっ! 声出したらバレちゃうよ」
細い路地のさらに奥、建物の隙間のような極端に狭いデッドスペースに、彼女は僕を強引に引きずり込んだ。
そして、僕の口元を彼女の柔らかい手でサッと塞いだ。
「ムムッ……? お二人の霊波による反応が消えました……まさか、空間の歪みに……!?」
路地の入り口付近を、若葉がブツブツと呟きながら通り過ぎていく足音が聞こえる。
どうやら物理的な死角を利用して、見事に追跡者を撒くことに成功したらしい。
だが、僕にとっての真の危機は、若葉さんの尾行などではなかった。
「……い、行っちゃったみたいだね」
真乃極先輩が、塞いでいた手をゆっくりと離す。
しかし、建物の隙間という閉鎖空間の都合上、僕たちの物理的距離はかつてないほどに接近していた。
僕の背中は冷たい壁に張り付いており、目の前には、少し息を切らした真乃極先輩が立っている。
彼女の肩が上下するたびに、路地裏の埃っぽく淀んだ空気とは明らかに異質な、甘みを帯びた芳香が僕の鼻腔を完全に占拠した。
「……真乃極さん。距離が近すぎます。閉鎖空間における酸素濃度の低下と、あなたの発する熱エネルギーによって、僕の体感温度が異常な数値を記録しています」
僕が極めて論理的な事実を指摘すると、真乃極先輩はハッとして、自分の置かれている状況――僕の胸元にすっぽりと収まるような形で密着していること――に気づいたらしい。
「あっ……ご、ごめん……!」
彼女の顔が、みるみるうちに沸騰したように赤く染まっていく。
自ら「まいちゃお」と強引に誘い込んでおきながら、いざ至近距離で僕の顔を見ると、耐えきれなくなったかのように目を逸らし、両手で自分の熱い頬を覆った。
「そ、その……若葉ちゃんがずっとついてくるから……二人きりで、静かに帰りたくて……っ。でも、こんなに近くなるなんて計算外で……」
顔を真っ赤にしてフリーズし、しどろもどろになる真乃極先輩。
頭脳明晰なはずの彼女が、なぜこれほどまでに支離滅裂な反応を示しているのか。
いや、それよりも問題なのは、僕自身の肉体に起きているエラーだ。
ドクン、ドクン、と。
左胸の奥で、心筋が不規則かつ激しい収縮を繰り返している。
……異常事態だ。心拍数が平常時を大幅に超過している。
僕は必死に脳内コンピューターを稼働させ、自己の内部状態を計算した。
急な無酸素運動(路地裏へのダッシュ)による息切れか?
いや、それだけではない。彼女が僕に『空間跳躍』という非科学的な能力を強制しようとした結果、僕の脳内で未知のシナプスが形成されつつあり、その神経伝達のバグが自律神経を過剰に刺激しているのだ!
間違いない。僕のこの動悸は、空間跳躍を試みたことによる三半規管のバグと、極限状態における防衛本能の表れだ。
僕のようなインチキ神社の変人息子が、こんな至近距離で美人の先輩に見つめられてお互いに惹かれあいドキドキしている確率など、宇宙の真理として0%なのだから。
「……空間跳躍のテストは失敗に終わりましたが、物理的なステルス行動としては成功でしたね。さあ、安全が確認できたなら、速やかにこの閉鎖空間から脱出しましょう。これ以上の熱量の交換は、熱力学第二法則においても非効率です」
僕が震える声を必死に押し殺し、早口で専門用語を並べ立てると、真乃極先輩は「う、うん……っ」と小さく頷き、逃げるように路地から飛び出した。
夕暮れの通学路に戻っても、僕の心拍数は一向に正常値に戻らなかった。
強固なはずの僕の論理に、明確なバグが生じ始めている。
九月の空の下、僕の『確率0%』の計算式は、かつてないほどの激しいノイズに晒されていた。




