第23話 消えないボールペン
「おい、お前ら……学校で怪しい新興宗教でも立ち上げる気か……」
ガラリと教室の戸が開き、担任の山田先生が絶望に満ちた顔で立っていた。
飛び交う緑色のレーザー光線と、足元を漂う白いスモーク。山田先生は無言で白衣のポケットから胃薬を取り出し、水も飲まずにそのまま口に放り込んだ。
「安心してください先生。教育委員会から指導が入らないレベルの、安全な出力に調整済みです」
僕が淡々と報告すると、山田先生は胃のあたりを激しくさすりながら「もう好きにしろ……」と呟いて去っていった。
教室に再び静寂(ただしレーザーとスモークの稼働音は除く)が戻った。
僕は自分の席で、カバンからキャンパスノートを取り出した。表紙には『エスパー育成防衛対策録』と記されている。
先ほどのヒーリング要求に対する防衛記録をつけておかなければ。
僕はペンを握り、ノートに文字を書き連ねていく。
『カッターによる物理的損傷の提示。対象は僕にヒーリング(治癒能力)を求める視線を送ってきたため、物理的な応急処置にてこれを論破した』
よし、ここまでは客観的な事実だ。
しかし、その続きを書こうとした時、僕の指先が勝手に別の言葉を紡ぎ始めた。
『手当てをした時の、彼女の指先の柔らかさ。至近距離で僕を見つめる、潤んだ瞳の熱量。そして、処置を終えた後の、少し恥じらうような、けれどひどく嬉しそうな笑顔――』
ハッとして、僕はペンの動きを止めた。
なんだこれは。
観察ノートの記録が、客観的かつ物理的なデータから、無意識のうちに『真乃極凛』という一人の女子生徒自身への感情的な観察へとシフトしているではないか。
「ば、馬鹿な……僕の論理的思考が、視覚的ノイズに汚染されている……!」
僕は動揺のあまり、筆箱から消しゴムを取り出し、たった今書き込んだ非論理的な文章を猛烈な勢いで擦り始めた。
ゴシゴシと、紙が破れんばかりの力で消しゴムを往復させる。
しかし、文字は一向に消えない。
「な、なぜだ……摩擦による黒鉛の吸着が起きない……!」
「頼斗くん? どうしたの、そんなに慌てて」
真乃極さんが不思議そうにこちらを覗き込んでくる。
僕は消えない文字と、自分が握りしめている黒いプラスチックの軸を交互に見比べた。
ボールペンだ。
先ほど無意識に手に取ったのは、消しゴムで消えることのない、油性ボールペンだったのだ。
インクは紙の繊維の奥深くまで浸透し、僕が彼女に向けて抱いてしまった『感情の揺らぎ』という名のバグを、取り返しのつかない物理的証拠としてノートに刻み込んでしまっていた。
「な、なんでもありません……! ただのエントロピーの増大です!」
僕は完全に動揺を顔に張り付かせたまま、バタン! と大きな音を立ててノートを閉じた。
確率〇%の強固な前提が、今、音を立てて崩れ始めている。
文化祭の前日、僕の論理的防衛線に、かつてないほど巨大な亀裂が走った瞬間だった。
+++
文化祭当日。
二年A組の教室は、僕の予想通り、いや、予想を遥かに超えるカオスな空間と化していた。
「さあさあ、亀岡十幡神社の出張所だよ! 恋愛成就のおみくじ、引いていかない?」
教室の入り口で、悪友の佐藤健太が調子のいい声で客引きをしている。
教室内は僕が持ち込んだスモークマシンによって白く煙り、親父直伝の重低音BGMが腹の底に響き渡っていた。天井からは複数のダイオードレーザーが緑色の光線を放ち、スモークに乱反射してサイバーな幾何学模様を描き出している。
完全に教育機関の倫理規定のギリギリを攻めた演出だが、悲しいかな、この田舎の高校においてこの圧倒的な非日常感は絶大な集客効果を発揮してしまっていた。
「ムムッ……! これは凄い霊的磁場です、亀岡先輩!」
スモークの中から、分厚い丸眼鏡を押し上げながら図書委員の後輩・鈴木若葉が姿を現した。彼女は興奮した様子で、リュックから取り出したダウジングロッドを振り回している。
「この過剰な光と煙の渦……! 間違いありません、これは先輩の眠れる能力を強制覚醒させるための、大規模な魔術儀式ですね!? 真乃極先輩の張った結界の強さが窺えます!」
「ただのエアロゾルによる光の散乱と、聴覚への物理的な刺激だ。ダウジングロッドの先端が揺れているのは、君の手首の無意識な筋肉の動き……不覚筋動によるものだよ、若葉さん。頼むから他のお客さんの邪魔にならないでくれ」
僕が疲れた顔で客観的事実を突きつけると、若葉さんは「さすが亀岡先輩、照れ隠しも論理的です!」と見当違いな感心をして、猛烈な勢いでメモを取り始めた。完全に言葉が通じていない。
「頼斗くん! おみくじの補充、お願いできるかな?」
不意に背後から声をかけられ、僕は振り返った。
そして、思考が数秒間、完全にフリーズした。
「ど、どうかな? これ、健太くんが演劇部から借りてきてくれたんだけど……」
そこに立っていたのは、真乃極凛先輩だった。
彼女は白衣に緋袴という、伝統的な巫女装束を身に纏っていた。普段の制服姿とは全く違う、非日常的な美しさがそこにはあった。艶のある黒髪は後ろで清楚にまとめられ、少し恥じらうように頬を染めて、上目遣いで僕を見つめている。




