第11話 空中浮遊と放物線
六月。突き抜けるような青空の下、けたたましいピストルの音と歓声がグラウンドに響き渡る。
今日は年に一度の体育祭だ。僕たちの通う高校は過疎化の影響で学年に一クラスしか存在しないため、団体戦よりも個人競技がプログラムのメインを占めている。
僕はグラウンドの隅、強い日差しを遮るテントの下のパイプ椅子に腰掛け、真新しいキャンパスノートを開いていた。表紙には太字で『エスパー育成防衛対策録』と記されている。
「亀岡先輩!今の考察、すごく理にかなっています!」
隣のパイプ椅子から身を乗り出してきたのは、図書委員の後輩である鈴木若葉さんだ。彼女は分厚い丸眼鏡の奥の瞳を輝かせながら、手元のメモ帳に猛烈な勢いでペンを走らせている。
「集団心理と極限の興奮状態……!確かに、霊的波長を高め、眠れる超能力を強制覚醒させるには、体育祭はうってつけの『儀式』の場ですね!ムムッ!」
「霊的波長ではないよ、若葉さん。単なる大脳辺縁系の過剰反応と交感神経の優位状態だ。だが、君の言う通り環境変数としては極めて特殊だ。非科学的な妄想に取り憑かれた真乃極さんが、このアドレナリンと熱気を利用して、僕に強力な精神攻撃を仕掛けてくる可能性は高い」
僕はノートに『極限環境下における強制覚醒リスク』と書き込み、眼鏡のブリッジを押し上げた。
僕のような変人に女子が好意を向ける確率は0%だ。ゆえに、彼女が僕に執拗に構ってくる理由は、僕を『超能力兵士育成プログラム』の被検体として仕立て上げるためであると、すでに論理的な結論が出ている。
「頼斗くん、隣いいかな?」
不意に、少し甘さを帯びた声が鼓膜を揺らした。
顔を上げると、体操服姿の真乃極凛先輩が立っていた。彼女は僕の返事を待つまでもなく、物理的な抗力が働かない絶妙なパーソナルスペースの境界線へと腰を下ろす。
相変わらず顔が少し赤く、体温が上昇しているのが目視で確認できた。
「頼斗君、走り幅跳びに出るんだね」
彼女は手に持っていた体育祭のプログラムをパラパラとめくりながら、僕の顔を下から覗き込んでくる。あらかじめ出走表の中身を見て、僕の出場種目を把握していたらしい。
「ええ。自分の質量六十二キログラムと脚力、そして運動神経を総合的に計算した結果、最も上位入賞の確率が高い種目を選択しました」
「ふふっ、頼斗くんらしいね」
彼女は嬉しそうに微笑むと、手元のプログラムをパタンと閉じ、その表紙を僕の目の前へスッと突き出してきた。
表紙には、今年の体育祭の実行委員が描いたと思われる、デフォルメされたアニメキャラクターが、バンザイの姿勢で元気よくジャンプしている絵が印刷されている。
「ってかさぁ、これ《《うける》》よね」
彼女はクスッと笑いながらその言葉を口にした。
――うける。
その三文字が聴覚器官から脳内へ伝達された瞬間、僕の思考回路は凄まじい速度で警告音を鳴らした。
『浮ける』だと……!?
僕は走り幅跳びとしてエントリーされているプログラム表と、真乃極先輩の顔を交互に見比べた。
間違いない。彼女は今、僕に『空中浮遊(重力制御)』の暗示をかけているのだ!
これから走り幅跳びに出場する僕に対し、「あなたもこのキャラクターのように空中に『浮ける』よね?」と、念動力による滞空時間の延長を強要しているに違いない。
「……真乃極さん。無茶を言わないでいただきたい」
「え?」
「ニュートン力学を軽視するのも大概にしてください。重力加速度九・八メートル毎秒毎秒が支配するこの地球上で、僕の肉体が空中に浮き続けるなどという事象は起こり得ない。質量六十二キログラムの物体を磁気浮上や反重力なしに浮遊させるエネルギーがどれほどのものか、理解していますか?」
「えっ?にゅ、にゅーとん?」
僕が極めて冷徹な事実を突きつけると、彼女は目を丸くしてパチパチと瞬きをした。そして、なぜか顔をさらに赤くして吹き出した。
「あははっ!頼斗くんって、たまにすっごい冗談言うよね!絵のキャラが飛んでるからって、マジメな顔して重力がどうとか……ふふっ、お腹痛い」
ごまかしているな。僕が完璧な論理で要求を跳ね除けたため、彼女は冗談というオブラートに包んで撤退を余儀なくされたのだ。
やはり油断ならない。僕はノートに『空中浮遊の強要:物理法則の提示により完全論破』と追記し、自分の出場時間に向けて静かに立ち上がった。
+++
午後。初夏のジリジリとした太陽が、砂場を白く照らし出している。
走り幅跳びのピット前。いよいよ僕の出番だった。エントリー順の都合上、僕の跳躍がこのグループの最後となる。
僕は助走路のスタートラインに立ち、目を閉じて深く息を吸い込んだ。
ただ走って跳ぶだけの単純な競技ではない。これは純然たる物理学の体現だ。
助走による運動エネルギーの最大化。踏み切り板への最適な入射角。そして、空中に飛び出す際の理想的な放物線軌道。すべては僕の脳内で完璧にシミュレーションされている。
目を開き、目標地点を見据える。
「いくぞ」
僕は一気に加速した。タータンの反発力を足の裏で感じながら、最高速までギアを上げる。
踏み切り板が迫る。視線は前へ。重心をわずかに落とし、水平方向の運動エネルギーを、垂直方向へのベクトルへと変換する。
ダァンッ!
完璧なタイミングでの踏み切りだった。
重力から解放されたかのように、僕の身体は宙を舞う。持ち前の運動神経の良さと物理演算が完全に合致した、自分でも驚くほどの大きなジャンプだ。
いける……!完璧な放物線だ!空中姿勢も、運動量保存の法則に則っている!
空中で姿勢を保ち、着地に向けて両足を前に投げ出す。
しかし、跳躍が想定以上に大きすぎたがゆえに、計算外の事態が発生した。
ザスッ!
砂場に激突した瞬間、強烈な着地の衝撃が足から全身へと伝わった。運動エネルギーを砂の摩擦で相殺しきれず、僕は前のめりにバランスを崩して派手に転がってしまった。
そしてその反動で、僕の顔から眼鏡が大きく吹き飛んだ。
「あっ……」
視界が一気にぼやける。色彩が滲み、周囲の輪郭が曖昧になる。
「亀岡くん、記録……4メートル85!残念、第二位です!」
係の生徒の声がグラウンドに響く。
二位?この僕の完璧な跳躍が、二位だと?
僕は砂まみれになりながら、猛烈な悔しさに顔を歪めた。
順位そのものよりも、自分の構築した完璧な物理演算が、未知の変数(風の抵抗か、着地の衝撃緩和の失敗か)によって敗北した事実が、底知れず悔しかったのだ。
「くそっ……どこでエネルギーのロスが……」
僕はぼやける視界のまま、砂の上を手探りで這い回り、吹き飛んだ眼鏡を探し始めた。




