えーっと、眠いんでしょ?
「私、クレアさんのお城で働くことにしたから」
「え?」
エプロンで手を拭くリタが振り返り際に突然そう言うので、フィルは目を丸くした。しかし、リタは表情を一切変えずに言葉を続ける。
「だから、クレアさんのお城でご飯とかつくるの」
そう言ったリタは、エプロンを外しながら自室へ向かった。フィルはその後ろを追いかける。
「そーなの? じゃあわたしも行くー」
いつも通り軽い調子でそう言うフィル。クレアのところに行ったら何をしよう、なんて考えていたフィルに、リタはクローゼットを開けて冷たい目を向けた。
「フィルは来れないよ」
「え?」
「私はお城で働くの。だから、フィルとは一緒にいられない」
呆然とするフィルに、リタは淡々とリュックに荷物を詰める。それはただクレアの家に遊びに行くというようなものではなかった。服やタオル、生活用品など、部屋の中にある毎日使うものは全てリュックに詰められた。
「じゃ、またね、フィル」
リタはそう言って手を振って、部屋を出る。
「ま、待ってー!」
少しだけ先に部屋を出たはずのリタはその場におらず、静かな廊下だけがフィルの目に映った。あまりの出来事にぺたんとお尻をついたフィルは、目から大粒の涙をこぼす。
「う、うそだ……」
フィルはそこで目が覚めた。ハッとして隣を見てもリタはいない。部屋の中を見渡す余裕もなく、フィルは部屋を飛び出した。
「リタがー! リタがー!」
フィルはいつもよりかなり早くリビングへ入ってきた。パタパタと走る足音と、フィルの声が家中に響く。椅子に座ってパンを食べていたリタは驚きのあまり、手に持ったパンを皿に落とした。
「え、どうしたの?」
朝早く起きてきたと思ったらポロポロと涙を流しているフィルに駆け寄り、リタは涙を拭う。拭っても拭ってもフィルの涙はとめどなく溢れ出る。フィルは嗚咽を漏らしながらリタに抱きつく。
「リタが……クレアの家のっ、お手伝いさんになっちゃったー」
そう言って再びぶわっと溢れ出た涙がリタの肩を濡らした。リタは、耳元で泣き続けるフィルの背中を優しく撫でる。
「もーわたしとは住めないってー……ひどいよー」
「えっと、なんの話?」
リタはようやくそう尋ねた。フィルはなんの話をして、なんで泣いているのだろうか。フィルの背中を撫でながら、上手く話せないフィルの次の言葉を待つ。
「だからー、リタがお手伝いさんになるってはなしー」
「私が? クレアさんの?」
「そー!」
こすりすぎて真っ赤になった目でリタをきつく睨む。しかし、その視線はゆらゆらと揺れて地面に落ちた。より一層わからなくなったリタは、とりあえずフィルの背中をぽんぽんと叩く。
「落ち着きなよ……パン食べる?」
「食べるー……」
リタに手を引かれ、フィルは視線を落としたまま椅子に座った。潤んだ瞳から今にも再び涙が落ちそうだ。リタはカップにミルクを注ぎ、フィルに差し出す。
「ほら、ミルク飲んで」
「んー……」
曖昧に返事をしたフィルはマグカップに手を伸ばし、口を付けた。ごくり、と喉を鳴らしたにも関わらず、フィルのコップからはほとんどミルクが減っていない。
「落ち着いた?」
フィルの分のパンを運んできたリタは、フィルの向かいに座ってそう尋ねる。すると、フィルは下を向いていた顔を上げ、濡れた目でジッとリタを見た。
「なんで1人で決めちゃうのー?」
涙がツーっと頰を伝うと共に、フィルは首をかしげる。その悲しげな表情に、リタは反射的に口にしてしまった。
「ご、ごめんね」
「謝るってことは本気なんだー! やーだー!」
フィルは、謝ったリタを悪者にするかのように指差す。伝うだけだった涙は、再びポタポタとテーブルに水たまりを作り始めた。リタは慌ててフィルの隣へ行き、頭を撫でる。
「行かないから、大丈夫」
「嘘だー……」
「ほら、落ち着いてって」
ミルクを渡すも、フィルはブンブンと首を横に振って受け取らない。
「うぅ、あのねー、わたしもクレアのこと好きだよー?」
「う、うん?」
前後の脈略の無い話に、リタは首を傾げながら返事をする。
「リタも好きでしょー?」
「うん、好きだよ」
「わたしもリタのことすきー」
前後で上手く繋がっていない会話をしながらも、フィルはえへへと笑う。さっきまで泣いていてよくわからなかったが、フィルは目がとろんとしていることにリタは気づいた。
「えーっと、眠いんでしょ?」
会話が上手くいかないのも、ポロポロと涙を流すのも、眠たいせいだ。リタはポンポンとフィルの頭を撫でる。
「ほら、もう一回寝よう」
「やーだー! 寝てる間に出て行くんだー!」
リタはフィルの手を引いて廊下を歩く。フィルはぴーぴーと泣きながら騒ぐが、リタは足を止めない。
ベッドにフィルを寝かせて、リタはそのお腹を優しく叩いた。トントントン、と一定のリズムで叩くと、フィルのまぶたが静かに下り始める。
「いかないでー……?」
「はーい、大丈夫だからね」
「ここにいるー?」
「いるから安心しておやすみ」
リタがそう言うと、フィルは目を閉じた。すぐに寝息を立て始めたフィルに、リタはホッと胸を撫で下ろす。お腹を叩く手を止めて立ち上がり、寝ているフィルを見下ろした。
「ふー、なんだったんだろう?」
フィルの夢のことなど知る由もないリタは、フィルの頭を撫でて部屋を出た。テーブルにはフィルの涙で出来た水たまりが残っている。リタはその水たまりを拭きながら、朝食のパンをかじった。
「起きてきたら聞こう」
ぽつりとそう呟いたリタだったが、次に起きてきたフィルは泣いたことなど忘れている様子で椅子についた。いつも通りパンを食べてミルクを飲む。リタがこのことについて尋ねても首を傾げるだけで、リタに「私の方が寝ぼけていたのか?」と思わせる程だった。
フィルが悪夢を見る日もあるが、これが二人の日常なのだ。




