まず、この溶かしたバターとお砂糖をよく混ぜてください
窓からの眩しい朝日がリタのまぶたを刺激する。
「……ん」
寝ぼけ眼で体を起こすと、隣で寝ているフィルが寝返りを打った。むにゃむにゃと言葉にならない寝言を言って、幸せそうに薄く微笑む。リタはそんな姿を見て、あたたかい気持ちになった。
リタはフィルを起こさないようにこっそりとベッドを出て、リビングへ向かう。そういえば昨日の晩御飯を食べていないな、とクッキーの箱を取り出しながら思った。
「……はよー」
「おはよう、フィル」
リタが起きてから四時間ほど経って、フィルが起きてきた。なぜか襟元から右腕を出しているフィルに、リタは冷静に近寄る。辛うじて着ているだけ今日は良い方だ。正しいところに腕を通させて、フラフラなフィルを椅子に座らせる。
その時、ぐーぎゅるる、とフィルのお腹が大きく鳴った。昨日の晩御飯を食べていないせいか、フィルのお腹の虫はいつもより主張が激しい。
「パンにする? クッキーにする?」
「……クッキー」
少し恥ずかしそうなフィルがそう答えると、リタはクッキーの箱とマグカップをテーブルに置いた。とくとく、とミルクを注ぐ。
「いただきまーす」
サクサクとクッキーをかじり始めたフィルを、リタは向かいに座ってジッと見つめる。その視線にフィルは不思議そうな顔をして首を傾げた。
「あ、そーだ!」
ハッと思い出したフィルの目が輝く。手に残ったクッキーを一気に口に放り込み、ミルクで流し込んだ。あのねあのね、と興奮気味にテーブルを叩いて立ち上がと、口を開いた。
「わたし、リタのこと好きだったー」
あまりに眩しい笑顔でそう言ったフィルに、リタの頭にクエスチョンマークが浮かぶ。フィルが"好き"と言うことなんて、日常茶飯事だ。歯を磨いてあげたら、魚の骨を取ってあげたら、布団を掛けてあげたら、フィルはよく口にするのだ。『ありがとー、リタ好きー』と。
「えっと、ありがとう?」
「どーいたしましてー」
にこにこ、と満足げな笑顔のフィルは、二枚目のクッキーに手を伸ばした。よくわからないリタだったが、フィルが満足なのでいいか、と考えるのをやめた。
「結べた?」
「できなーい」
朝食なのか昼食なのか、を終えたあと、二人はエプロンを身につけていた。クレアに貰った色違いの可愛いエプロンは、ようやく日の目を見ることになったのだ。
自分でリボンを作れなかったフィルの背後に回り、リタは大きくリボンを結ぶ。
「じゃあまず、この溶かしたバターとお砂糖をよく混ぜてください」
「はーい」
ボウルにバターと砂糖を入れ、フィルに手渡す。やる気満々なフィルは、目を光らせてスプーンを手に取って——
「このくらいー?」
五回ほど混ぜて手を止めた。材料を入れた時と見た目がほとんど変わっていないボウルを見て、リタはため息をついた。
「それ、混ぜたって言うの?」
「代わってー」
「飽きたのね、わかった」
リタが受け取って、混ぜる。それを見つめるだけのフィルは退屈そうだ。何かフィルにすることを、と思ったリタはキッチンの方を指差した。
「フィル、あの卵割っておいてくれる?」
「任せてー!」
ニッと笑ってキッチンの方へ走るフィル。飽きるほどの数じゃないしフィルにも出来るだろう、とリタは混ぜることを再開した。
卵と器を持ってテーブルに戻ってきたフィルは、自信満々で卵をテーブルの角にぶつける。パシャッという音がした時にはもう遅い。手が卵で濡れたフィルは、何が起こったかわからずに呆然と立ち尽くしている。床に広がった透明と黄色を見て、リタは慌てて布巾を取りにキッチンへ走った。
「力入れすぎ……」
「うー、ごめんなさい……」
「大丈夫、手は洗ってきてね」
「はーい……」
床を拭くリタの横を、フィルが申し訳なさそうな顔で通る。
手を綺麗にして戻ってきたフィルは、しょんぼりとして椅子に座った。作業をしているリタと目があうと、眉を下げて目をそらす。怒ってるわけじゃないんだけどな、と思ったリタは、キッチンから粉を持ってきてわざとらしくフィルへ話しかけた。
「あー、疲れたなあ。誰か手伝ってくれないかなあ」
「わたし、手伝えるー?」
「うん、この粉と混ぜてくれる?」
「おー!」
簡単に引っかかったフィルは、表情を明るくしてテーブルに身を乗り出した。バター、砂糖、卵が混ざったボウルと、それに加える粉の袋を渡す。フィルは丁寧に粉の袋の口を開ける。リタが自分を見ているのを感じて、失敗しないようにと緊張して手が震えた。
その震えのせいか、ボウルに入っていたスプーンが床へ落下。慌ててテーブルの下に落としたスプーンを拾おうとして、ごつんと頭を打つ。テーブルが揺れ、口の開いた袋から真っ白の粉がフィルの頭にドサッと落ちた。一連の流れを目の前で見ていたリタだったが、どうすることもできなかった。ドミノが次から次へと倒れるように、自然に起こったのだ。
頭の先から真っ白になったフィルはプルプルと震えて、床にお尻をついた。
「わ、ちょっと、動かないで!」
「ご、ごめんなさい……」
「お風呂行こう、ね?」
目を潤ませて今にも泣き出しそうなフィルの手を取って、リタはお風呂へと連れて行く。廊下が真っ白になって、リタは思わずため息をついた。
わしゃわしゃとフィルの頭を洗う。いつもとは違い嫌だとすら言わないフィルは、うつむいて涙をぬぐった。
「ひっ……うう」
「目に入った? 大丈夫?」
「だいじょーぶ……」
浅い息をするフィルの頭をポンと叩いて、リタは顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「わたし、お手伝いじょーずじゃなかった……」
震える声でそう言ったフィルに、なんだそんなことか、とリタは思った。確かにリタ一人なら、もう焼き始めているだろう。けれど、早く出来たところでどうしようもない。
「そんなこと気にしなくていいよ。私だって昔は床にジャムぶちまけたり、魚焼いてたら家ごと燃やしそうになったこともあるし」
「ほんとー?」
「ほんとほんと。はい、目つぶって」
ざばっと頭から水をかけて泡を流すと、真っ白だった銀髪がキラリと光った。
「だから、お風呂出たらもう一回一緒に作ろうね」
「うん! やるー!」
ぐしぐし、と目に残った涙をぬぐって、フィルは笑顔を作った。リタはフィルの濡れた頭にタオルを乗せ、わしゃわしゃと乾かす。
お菓子の家の完成は近い、はずだ。




