これってフィルの魔法、だよね?
その日、リタは雲の上にいた。比喩でもなんでもなく、目を開けるとそこにいたのだ。
「うわっ、なにこれ」
白い雲の上でペタンとお尻をつき、リタが辺りを見回す。いつもよりずっと近い太陽がギラギラ輝き、少しめまいがした。
「リター、見て見てー!」
隣の一回り大きな雲にはフィルが乗っている。その場でぴょんぴょんと跳ね、地上を指差す。その行動にリタの心臓はギュッと縮まり、上ずった声でフィルに声をかけた。
「あ、危ないよ……」
「だいじょーぶ! ほら、リタも来てー」
フィルは何も恐れていない顔で、大きな雲からリタに手を差し出す。リタが動けずにいると、どうして来ないの、と首を傾げた。
「危ない、よね?」
「だいじょーぶだってー! ほら、こっちおいでー」
にこっと笑ったフィルは、雲から身を乗り出すようにしてリタに手を差し出しす。このままではフィルが落ちそうだ、とリタは意を決してそろりと立ち上がった。
「ふわふわだ……」
かろうじて立ち上がれたリタの脚はガクガクと震える。一歩踏み出すと、体が一瞬ふわっと宙に浮く。
「ちゃんと歩けない……」
ふわっふわっ、と跳ねるように歩くリタは、震える手でフィルを掴んだ。フィルは強い力で引っ張り、大きな雲にリタを引き上げる。リタの乗っていた小さな雲は、ふよふよと空を漂って遠ざかっていった。
「ねえ、なんなの、これ……」
再びペタンとお尻をついたリタは、楽しそうに跳ねるフィルを見て眉間にしわを寄せる。
「あそこ見てー」
「うっ、何……?」
「あれが森でしょー? 思ってるより広いねー」
そろり、と雲から地上を覗き込むと、帰らずの森が見えた。あまりの高さにリタはくらっとする。
「……うん、だから迷子になるんだよ」
「こんど冒険しよーね!」
一方のフィルは全く怖がっていないようで、雲の上を笑顔で跳ね回っている。落ち着かない心臓を押さえて、リタはできるだけ落ち着いた声ですフィルに声をかける。
「ねえ、フィル。これってフィルの魔法、だよね? いつの間にこんな――」
「ちゃんと捕まっててねー!」
「うわっ!?」
フィルの掛け声と同時に、雲は急に動き出す。今まで体験したこともないスピードで、ビュンと風を切る音が耳を抜けた。
「あれ、クレアのお城だよー」
止まった雲は、魔王城の近くいた。大きな城が眼下に広がるが、リタには見ている余裕などなかった。リタは自分の体をギュッと抱きしめて、小さく震える。
「おーい、クレアー!」
「やめようよ……」
「クーレーアー!」
雲のギリギリに立つフィルは、城に向かってクレアを呼ぶ。城の中に届くはずのない声だが、リタは少し希望を抱いた。もしクレアが出て来てくれたら助けてくれるだろうか。ギュッと指を組んで願ってみるが、面倒くさがりのフィルがそんなことを長く続けるはずもなかった。
クレアを呼ぶことを諦めたフィルは、リタの目の前に座った。目はキラキラと輝いて、この状況を心から楽しんでいるようだ。
「ねえ、もう降りようよ……」
「やーだー」
「ね、こんなの危ないよ……」
ぐー、と突然フィルのお腹がなる。こんなに高いところにいるのになんて呑気な、とリタは驚きを通り越して少し怖くなった。
「ほら、降りてご飯食べよう?」
「んーん、これ食べるー」
そう言ったフィルは無造作に近くの雲を掴んで、口に放り込む。もぐもぐ、と数回噛んで、パッと明るい顔をした。
「甘いっ!」
「く、雲はただの水だよ? ね、早く降りようよ……」
「リタも食べるー?」
にっ、と笑ったフィルは再び雲を掴んでリタに押し付けた。リタは何も言えずに首を横に振った。フィルの魔法だから普通の雲じゃないんだ、と頭の中で結論をつけて、リタは心を落ち着かせる。その間も、フィルはパクパクと雲を食べ続けた。
「こんなに美味しいのにー」
「私はお腹すいてないから……」
「そっかー」
リタはとうとう目を閉じた。ここは地面、ソファの上、と想像する。大きく息を吸って、吐く。
どのくらいそうしていただろうか、しばらく経ってフィルがリタに声を掛けた。
「リター」
少しだけ落ち着いたリタは、帰ろうと声をかけようと思って目を開けた。そこにはフィルがいて、きっとお腹いっぱいで眠くなっている、とリタは思った。しかし、目の前に広がったのは想像以上の光景だった。
「ねむたーい」
「ねえ、リター」
「ねーねー、リーター」
なぜか三人に増えたフィルが口々にそう言う。リタは体が固まって何も言えなかった。震えるリタをよそに、三人のフィルは跳ねるように近づいてくる。
「「「リタ、だいすきーっ!」」」
三人は同じ顔で、同じ声で、同時にリタに抱きついた。
「うわっ、危ないって!」
ようやく声が出たがもう遅い。三人同時に抱きとめたリタは後ろに倒れる。さっきまでいくらフィルが跳ねてもビクともしなかった雲は、ただの水滴になってリタと三人のフィルを受け止めなかった。
「ちょ、ぅわっ!」
落ちる、落ちる。想像よりゆっくりと近づく地面に、リタは三人のフィルをギュッと抱きしめた。ああ、このまま私は—— そう思ったリタの目から涙がこぼれる。
無情にも地面は近づく。もうだめだ、とフィルを強く抱きしめてリタは目を閉じた。
「…………リター?」
フィルにそう呼ばれてリタはガバッと体を起こした。勢いよく辺りを見渡す。
「だいじょーぶ?」
フィルは心配そうな顔でリタの頭に手を乗せる。バクバクと脈打つ心臓に、リタはホッとため息をついた。
「……夢か……」
そこはいつもの部屋だった。真新しいふかふかのベッドは、さっき受け取ったばかりの物だ。窓の外は暗くなりかけたオレンジで、あまり時間が経っていないことがわかった。
「なんの夢みてたのー?」
フィルはベッドに腰掛けてそう尋ねる。サラサラの銀髪を撫でて、リタは微笑んだ。
「んー、ベッドの夢かな」
「なにそれー」
フィルはケラケラと笑った。リタはベッドを軽く叩いてみる。きっと雲はこのベッドだったのだろう。
「ね、お腹すいたー!」
夢の中と同じ笑顔でフィルはそう言う。
「雲でも食べる?」
「え、なんのはなしー?」
わけのわからないフィルは首を傾げて、だけど楽しそうに笑った。




