さっきの、ほっぺに……!
しばらくの沈黙の後、リタは思い切って口を開いた。隣のフィルはご機嫌につま先で足元の小石を転がしている。
「あ、あのさっ!」
「なーにー?」
フィルは石蹴りをやめて、小首を傾げる。その純粋な目に、リタは続けるはずだった言葉を見失った。視線を、フィル、地面、竿先、とせわしなく動かして口ごもる。
「あ、えっと、いや、あのー、ね?」
「どーしたのー?」
「あの、あのさ、えー、っと……さ、さっきのは何?」
リタが釣竿をギュッと握ってそう言うと、フィルはなんのことかわからないという顔でリタを見た。
「さっきのー?」
「さっきの、ほっぺに……!」
「あー、さっきのー! おでこの方がよかったー?」
ハッとしたフィルは、自分のおでこをペチンと叩いて笑う。その仕草に、リタは自分のおでこを片手で隠した。
「そ、そうじゃなくて! どうしてそんなことしたの?」
「怒ってるのー?」
「お、怒ってるんじゃないよ。驚いたの」
リタは両手で釣竿を握りなおし、落ち着かせるように息を吐く。フーっと吐き切ると、視線をフィルに動かした。リタと目があったフィルは、肩をすくめる。
「わたしも驚いたー」
「なんで?」
リタがそう問うと、フィルは勢いよく首を横に振った。長い髪がその動作でふんわりと広がって乱れる。
「そんなことするつもりじゃなかったからー」
ブンブンと再び首を振るも整わない髪を、自分で撫でてまとめる。リタが言葉を発するより前に、フィルが続けた。
「この間もリタが寝てる時にしたんだけどー、その時も——」
「ま、待って。私が寝てる間に何してるの……」
慌てて手を振って言葉を遮ったリタに、フィルはグッと親指を立てる。そのまま、キリリとした表情でコクンと頷いた。
「その時はおでこだったから、だいじょーぶ」
「大丈夫って……」
何が大丈夫なの、という思いと、いつの間に、という思いがリタの頭をかき回す。考えることが多すぎてショート寸前の頭は、ピタリと考えることをやめて冷静になる。とりあえずフィルの話を聞こうと、リタはそれ以上言うのをやめた。
「それでー、その時もなんでかなーって思ったんだよねー」
「うん、なんでなの?」
「わかんないけどー」
そこまで言うと、フィルは黙って何かを考え始めた。静かに目を閉じて、首を少しかしげる。しばらくそのままの格好を見守っていたが、寝てしまったのではないか、と少し心配になったリタが肩を叩こうとした途端、パッと目を開けた。
「たぶんリタが好きだからじゃないかなー?」
フィルがまっすぐな目でそう言うので、面食らったリタは何も言うことができない。口をパクパクさせているうちに、フィルが言葉を続ける。
「んー? ってことはー、リタもわたしのこと好きだよねー!」
「な、なに……?」
輝く目で、前のめり。その異様な圧に、リタはフィルが次に口にする言葉がわかった。
「ほらほらー、リタもしていいんだよー」
自分の頰をリタに差し出し、つんつんと指差す。その白く柔らかい頬に一瞬見とれたリタだったが、勢いよく首を横に振った。
「し、しないよ!」
「えー、なんでよー! わたしのこと好きでしょー」
「す、好きだけどしない!」
普段なら恥ずかしいと思うことをサラッと、それも大声で言ったリタに、フィルの口元が緩む。しかし、そんなフィルの表情にリタは気付かない。フィルはニヤつく口を隠して、さらにせっつく。
「ねー、どうしてもー?」
「どうしても!」
「ほんとにー?」
「本当に!」
四度も断られたフィルは、ムッと頰を膨らませた。プンッとそっぽを向いて、小石蹴りを再開する。その様子にリタは少しオロオロして、でもどうすることも出来ずに釣りに集中し始めた。
再びしばらくの沈黙。リタの釣竿はなんの反応もせず、晩御飯抜きすら覚悟し始めた時だった。
「あー、クレアー?」
フィルのそんな声が聞こえた。隣を見ると、ペンダントを握って笑顔のフィル。クレアと話しているのか、と釣竿に視線を戻そうとしたその時。
「リタがねー、ほっぺに――」
「クレアさん! 元気ですか!? こっちは今日雨が降ったんですよ!」
リタは素早くフィルのペンダントを握り、会話に割り込む。釣竿が地面に落ちたが気にしない。迷惑そうなフィルの顔が思いの外近く、リタはドキリとした。
『あ、いや、うん、ボクは元気だけど。どうしたんだ、リタ』
「なんでもありません! 失礼しました!」
不思議そうなクレアの声が頭に響き、リタはその言葉に素早く返事をする。まだ何かを言いかけていたように感じたが、リタはペンダントを離して強制的に会話を中断させた。
「何してるの、フィル……」
「クレアにそーだんしよーと思ってー」
「やめてよ……」
呆れたように脱力して椅子に座ったリタに、フィルは茶化すようにケラケラと笑う。
「それでなくてもクレアさんには、からかわれてるんだから……」
「はいはーい」
「わかってる?」
リタが諭すようにそう言うと、フィルは頷くより先に川を指差した。
「そんなことより、流されてるよー?」
「え?」
リタが振り返ると、その言葉通りに流される釣竿が目に入った。タッと立ち上がって追いかけてみるも、すでに遅い。みるみるうちに流れに飲まれ、追いつけるような位置になかった。森の方につながる川を流れる釣竿は、きっとそのうち海に出ているだろう。
「あー、私の釣竿……」
釣竿がなくなることはそれ程の痛手ではない。しかし、一度にたくさんのことが起こりすぎて、リタの頭はついにショートした。ぼんやりと立ち尽くすリタの肩を、フィルがポンと叩く。
「もー帰るー?」
「えーっと……そうしよっか」
もう何も考えられないリタは、フィルの提案に頷いた。バケツの水を川に返し、椅子を畳む。ようやく帰れる、とニコニコしているフィルの手を掴んで、リタは帰路についた。
本日、釣果ゼロ。本当に晩御飯抜きを覚悟する時が来た。




