第9話:それでも前に進む
審判の耳障りな電子ホイッスルが、〈D25廃棄スタジアム〉の血生臭い喧騒を切り裂いた。
その瞬間——ショウタの視界から、すべての色彩が剥落した。
膝から崩れ落ち、熱を帯びたコンクリートに額を押し当てる。肺が酸素を取り込むことを拒絶し、気管支の奥でナノマシンの煤が激しく暴れている。逆流する血の味が、彼に「まだ生きている」という残酷な事実を突きつけた。
世界はモノクロの砂嵐に沈み、ただ手首のリストバンドだけが、瀕死のホタルにも似た緑の残光を頼りなく明滅させていた。
【GAME SET:WINNER - STREET DOGS】
場内を支配したのは、狂騒ではなく、氷のような「空白」だった。
上層のスイートルームでは、紙屑と化した賭け票を前に、富裕層たちがシャンパングラスを粉砕し、端末に向かって罵詈雑言を叩きつけている。
一拍、二拍。
それから、奈落の底から湧き上がるような、下層民たちの濁った咆哮がスタジアムを震わせた。それは勝利を祝う歓喜ではない。「自分たちの同類が、システムを出し抜いた」という、困惑と怨嗟の混じった、獣の叫びだった。
「……立て。死体袋に入りたいなら別だがな」
銀色の冷たい感触が、ショウタの腕を強引に引き上げた。スエだ。彼女のセンサー光は、ショウタのライフゲージが「5」という絶望的な数値で点滅しているのを、ただのデータとして淡々と処理していた。
ロッカールームは、勝利の熱気など微塵もなく、安物の消毒液と焼けたオイルの匂いが沈殿していた。
サクラは壁に寄りかかり、髪にこびり付いた砂を払う気力もなく、虚空を見つめている。工藤は震える指で端末を叩き、失われたライフの復旧コストと、過負荷で半壊したアーム・リグの修理費を算出していた。眼鏡のレンズには、容赦のない赤字の羅列が映り込んでいる。
ショウタがベンチの端に腰を下ろすと、隣の空間が重く沈んだ。
タイシだ。彼は血と油に汚れた加速カウルを床に放り出し、白く強張った自分の巨大な掌をじっと見つめていた。
「……悪くなかったぞ、計算機」
それは賞賛というよりも、共に地獄の淵を歩いた者への、不器用な「生存確認」だった。
「タイシさん……」
「何も言うな。……それがスラムの礼儀だ」
タイシはそれだけ言うと立ち上がり、ロッカーの扉を拳で小突いた。鈍い金属音が、暗い部屋に虚しく響く。その背中は、かつての相棒を自らの手で「破壊」した痛みと、決別という名の新たな呪縛の間で、細く、硬く震えていた。
荷物をまとめ、出口へ向かう通路。
薄暗い非常灯の下で、ショウタは見てしまった。
壁に片手をつき、内臓を吐き出すような激痛に耐えている清盛の姿を。
完璧な指揮官の仮面は、そこにはなかった。首筋に浮かんだ血管はどす黒く変色し、胸元のウォッチは、致死域を示す赤色の警告灯を激しく明滅させている。
「……見つめるな。ライフが減るぞ」
清盛が、振り返らずに言った。
「キャプテン、その体……」
「勝てば部品、負ければゴミ。……俺たちは、まだゴミになる許可を貰ってねえ。それだけだ」
清盛は無理やり背筋を伸ばし、いつもの冷徹な足取りで歩き出す。だが、彼が手をついていた壁には、黒い血の混じった手形が、染みのように残されていた。
スタジアムの外、夜風は酸性雨を孕んで重く湿っていた。
路地の角。街灯の死びた光の下に、ガンツがいた。
左腕の義肢を根元から失ったその肩から、どす黒い作動油が、絶望の涙のように滴っている。
タイシが、その前で足を止めた。
言葉はなかった。ただ、一瞬の視線の交錯。風が足元の砂塵を巻き上げ、過去の記憶をさらに深く埋めていく。ガンツの瞳に宿っていたのは、憎しみを超えた、飢えた獣のような「執着」だった。彼は、タイシがかつて路地裏に捨てた、ボロボロのトレーニング用ボールを足元に吐き捨てると、音もなく闇の中へ消えていった。
「終わってない……ですよね」
ショウタの呟きに、タイシは黙って濁った空を仰いだ。
リストバンドが振動し、勝利報酬「二百万クレジット」の入金通知が届く。
だが、その直後。
【自動決済完了:機材修復費 -90万】【延滞利息 -40万】【医療支援費 -30万】
画面に残ったのは、わずか四十万クレジット。
ショウタは、思わず小さく嗤った。
督促状を払い、母をあと数ヶ月生かせば、それで消える金だ。一億二千万の肺。その背中は、まだ見えない。
それは、母を救うにはあまりに少なく、この命を賭けるにはあまりに重い、野良犬たちの初月給だった。
「……行くぞ。明日の練習に遅れるな」
清盛の声が、湿った空気の向こうから響く。
ショウタは、振り返って仲間たちを見た。
肩で息をするタイシ。義腕のプラグを繋ぎ直すスエ。髪を縛り直すサクラ。
誰一人、無傷ではない。誰一人、満たされてもいない。
それでも、五人の影が、街灯の弱い光に伸びて、一つの方向へと重なっていた。
ショウタは、まだ熱を持っている左手を強く握り締め、暗い路地へと一歩を踏み出した。
胸の奥で、母の冷たい指の感触と、託された拳の温度が、静かに、しかし確かに燃えている。
野良犬たちの疾走は、まだ、始まったばかりだ。




