第8話:洗礼
コートに踏み込んだ瞬間、ショウタの五感は「死」のノイズで埋め尽くされた。
頭上を通り過ぎる赤球の風圧だけで、痩せこけた皮膚がミシミシと悲鳴を上げる。スタジアムを覆う巨大なディスプレイが、砂埃にまみれた彼らの「残存価値」を、一秒刻みのオッズとして無慈悲に照らし出していた。
「——ガハッ、……ぁ、……ッ!」
一歩、地を蹴るたびに、肺の奥で煮えたぎる鉛を啜っているような激痛が走る。
吸入器の薬効など、この狂った熱気の中では一分も持たない。気管の奥でナノマシンの煤がやすりのように粘膜を削り、吐き出す息は常に鉄の味がした。
手首のリストバンドが、死の秒読みを告げる心拍計のように激しく震える。
【警告:バイタル異常。心肺機能の臨界突破を確認】
【LIFE:100 → 72 / STATUS:SEVERE ASTHMA(重度喘息)】
誰の攻撃も受けていない。ただ、この場に立ち、呼吸をしているだけで「命」が削り取られていく。
(……わかっている。最初から、この肉体は僕を殺すために設計されているんだ)
ショウタは血の混じった唾を吐き捨て、視界を覆うオレンジ色のノイズを強引に振り払った。
「おい、欠陥品! そこがお前のスクラップ場だ。赤球に磨り潰されて、部品に戻れ!」
ガンツの咆哮。
〈マッドドッグス〉のアタッカー、巨漢のブルとしなやかなナオが、左右から獲物を追い詰める猟犬の動きで展開する。正面にはガンツの義肢から漏れる赤い殺意。背後からは自律稼働する『赤球』が、空気を切り裂く高周波を立てて死角から迫る。
逃げ場はない。常人なら、そこで思考が飽和し、肉塊へと変えられる。
だが、ショウタの瞳は——極限の低酸素状態でこそ、冷徹な演算機へと変貌を遂げた。
(——ノイズを消せ。不要な感情を捨てろ。線を、追え)
網膜の中で、混迷を極めたコートが幾何学的な「ベクトル」へと分解されていく。心音すら遠い背景音に退く。
赤球の反射角。ナオの予備動作。ブルの踏み込み速度。三本の線が、一瞬だけ交差する「未来」が見えた。
ショウタは、迫りくる赤球の「軌道上」へ、自ら身を投げ出した。
「自殺か!?」
特別席の富裕層たちが、シャンパングラスを止める。
だが、赤球がショウタの首筋を焼く寸前——彼はチルト角を極限まで調整したヨットのように、体を斜めへと傾けた。髪を一房、赤球の熱気が焦がして抜けていく。
ドォォォォンッ!
赤球がナオの射線を遮断し、ブルの視界をコンマ数秒だけ奪い去る。
その「一瞬の死角」に、ショウタは自身のすべてを賭けた。
「ブル! 避けろ!」
ガンツの警告は、金属音にかき消された。
ショウタが誘導した先。そこには、不規則な反発を加えられた赤球が、鎌首をもたげて待ち構えていた。
【LIFE:120 → 0 / TARGET:BULL OUT】
巨漢のブルが膝から崩れ、信じられないものを見る目で、外野へと這い出した。観客席を埋める「賭けに負けた」連中の野次が、地鳴りのように響く。三十二倍のオッズが、乱高下を始めた。
「……計算で……あの凶器を、飼い慣らしただと……?」
ベンチで工藤が震える手で端末を叩く。サクラは、無意識に自分のライフゲージを握りしめた。三話で「失望」を投げつけた相手が、今、自分たちの全滅を食い止めた。その事実が、彼女の胸を焦がす。
その混乱を、一人の男が踏み潰した。
砂塵を割り、右腕に「重加速カウル(アーム・ブースター)」を装着したタイシが、コートの中央へ踏み出す。
眼前に立つのは、かつての相棒、狂犬ガンツ。
「……タイシィィ! 逃げ出した犬が、何のツラ下げて戻ってきたぁ!」
ガンツが義肢の冷却ファンを絶叫させ、黒球を握り潰さんばかりに構える。
だが、タイシの目は、もう揺れていなかった。
彼は昨夜の「震え」を、右腕の機械が発する不快な高周波の中に、完全に溶かし込んでいた。
「ガンツ。お前が俺を地獄へ連れ戻したいなら、勝手にしろ」
タイシが、低く、重い一歩を踏み出す。カウルの駆動部が、血のような火花を散らす。
「だがな……このガキの肺を、これ以上焼かせるわけにはいかねえんだよ」
その瞬間、ショウタが肺を絞り出して叫んだ。
「タイシさん——今だ! ガンツの右目が、固定された!」
ガンツの瞳孔が、わずかに揺れる。
殺意のベクトルが固定される、コンマ二秒の硬直。
タイシの右腕が、カウルの爆発的な加速を伴って爆ぜた。
放たれたのは、力任せの暴力ではない。かつて二人が路地裏で磨き上げた——生存のための「精密なる一投」。
ドォォォォンッ!
ボールはガンツの義肢の装甲を弾き飛ばし、その無防備な胸元へ正確に突き刺さった。
【LIFE:200 → 40 / CRITICAL HIT】
ガンツはライン際まで十メートル以上押し出され、血反吐を吐きながら膝をついた。憎悪に染まっていたその瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、路地裏の毛布を思い出したような色が宿り——すぐに、凍りつくような鋼の冷徹さに塗り潰された。
「……アウトだ、ガンツ。次は、三途の川で受け取れ」
タイシは、崩れ落ちる兄貴分の背中を一度も見ずに、ショウタの方へと向き直った。
ショウタは壁に手をつき、内側から爆発するような肺の痛みに耐えていた。
リストバンドの緑のゲージが、また一つ、砂時計の最後の一粒のように消える。
【LIFE:60 → 48】
だが、その痺れる左手には——跳ね返ってきた黒球が、しっかりと握られていた。
焼ける肺。血の味。
コートの向こうでは、一人残されたナオが、狂気じみた笑みを浮かべていた。
「……素晴らしいよ。でも、残念だね。本当の『地獄』は、ここからなんだ」
野良犬たちの牙は、まだ、折れてはいない。
だが、彼らが踏み出したのは、さらなる深い「赤」の底だった。




