第10話:二部への切符
三部リーグ(ディビジョン・スリー)最終戦を告げる無機質なホイッスルが、〈廃棄スタジアム〉の熱を帯びた砂塵に消えた。
だが、〈ストリートドッグス〉の面々に歓喜の咆哮は——なかった。
あるのは、肺の奥で煮えたぎる鉛を啜っているような酸欠と、耳鳴りの中に響くバイオ・リンクの電子音だけだ。誰の口元にも笑みはなく、ただ、死線を潜り抜けた者特有の青白い疲労が、煤けた肌の上で薄い膜のように凝っていた。
工藤のウォッチが冷たい緑色の光を放ち、ホログラムの通知を空中に投射した。
【Karakuri Dodgeball Association:Division 3 — COMPLETED】
【Next Stage:Division 2 Registration — 72:00:00 Remaining】
「……以上だ。野良犬の時間は、これで終わった」
工藤が画面を閉じると、ロッカールームは元の、カビと鉄錆が支配する静寂に沈んだ。
サクラは天井の錆びた鉄骨を見上げ、山田と浜脇は互いのボロボロの腕を無言で見つめている。清盛はただ一度、深く頷いた。その頷きすら、首筋の警告灯が点滅するたびに、酷く重そうに見えた。
ショウタは、自分のウォッチに表示された賞金残高に、血の滲んだ指先で触れた。
【+200,000 Credits】
地獄を這いずり、命をチップに勝ち取った代償。
だが、確定ボタンを押した瞬間、その数字は母の医療費決済システムへと瞬時に吸い込まれ——一秒で、元の「0」へと回帰した。
画面に残されたのは、淡々とした緑色のシステムログ。
【決済完了。生命維持延長:4週間】
(……勝っても、一ヶ月の猶予を買い取ったに過ぎないのか)
ショウタは冷たくなった自分の指を、強く握りしめた。己を削り取って得た数字が、母の枕元では「ひと月の砂時計」にしかならない。
翌日。
「二部からは——ゲームの論理が、根底から変わる」
工藤が展開した資料は、三部までの泥臭い殴り合いとは「彩度」が違っていた。
画面を埋め尽くす極彩色の企業ロゴ。熱狂する一万人超の観客。そして何よりも異様なのは、そこに映る「選手」たちの、生命感の欠如だった。
「二部の平均機械化率は、六割を超す。彼らはもはやアスリートではない。企業の資産であり、歩く広告塔だ。……そして——合法的な破壊兵器でもある」
映像の中で、一人の機士が黒球を放つ。
初速、二百三十キロ。
人間の動体視力の限界を超えた弾丸が、対戦相手の生身の脇腹を抉り、背後の強化ガラスを火花とともに粉砕した。被弾した選手は、血の霧を吐きながら糸の切れた人形のように崩れ落ちる。それでも観客席は——沸き立つスマホの通知音を、止めない。
ショウタの背中を、氷を押し当てられたような悪寒が伝った。
ガンツの「関節狩り」が、道徳的な遊戯に見えるほどの、桁違いの暴力だった。
「……これが、二部の絶対君主〈アイアンクロウ〉。キャプテン、カインだ」
画面の中央——漆黒のセラミック・パーツを全身に纏った男が、立っていた。全身換装率、九十二パーセント。
カインは試合中、敵の投球でひしゃげた自分の左腕パーツを、まるで煩わしい糸屑でも払うかのように、ベリリ、と引き剥がした。火花が散り、冷却液が血のように滴る。だが、男の瞳は一睡も瞬かず、その表情には微塵の揺らぎもなかった。
彼はそのまま、欠損した腕の基部で次のボールを拾い上げ、一瞥もくれずに放り投げた。
「……痛覚の閾値を、設定でゼロにしているのよ」
スエが、自身の銀色の義腕を微かに震わせて言った。
「人間ならショック死する衝撃も、彼らにとっては単なる『出力エラー』の報告に過ぎない。……それが、二部の頂点。絶望という感情を『設定』で抹消した者たちの、世界」
無機質なはずのスエの声に、ほんの僅か、苦い沈殿物が滲んでいた。
彼女自身、義腕の感度をどこまで残すかを、毎晩、血を流すような思いで再設定しているのかもしれない——ショウタは、ふと、そんな予感に打たれた。痛みを残すことが、彼女にとっての「人間であることの最後の防波堤」なのだとしたら。
体育館からの帰り道。
ミドルシティの空は、今夜も濁ったオレンジ色の蓋に覆われていた。
ショウタは路地の角で、激しい喘鳴に膝をついた。
「……ゲホッ! ……ガ、ハッ……!」
喉の奥から漏れる、ヒューという醜い笛の音。ウォッチのゲージが、何もしないのに「85」まで削られている。
脳裏に、カインのあの無機質な瞳が焼き付いて離れない。
——痛みを、消せる。
肺が焼けることも、死を待つ母への罪悪感に震えることも、設定一つで消去できる。
(……あんな体になれば、僕はもっと、効率よく勝てる。母さんを……)
そこまで考えて、ショウタは自分の思考に怖気立った。
汚れたアスファルトに這いつくばった夜。母の熱を失った指。山田の血で温かかった拳。タイシの、叫びとともに振り抜かれた右腕。スエが月明かりの下で組み直した義腕の、あの孤独な銀色。清盛が壁に残した、五本の指の跡。
——あの「熱」を、設定で消してしまったら。
そこに残る残骸は、果たして「僕」と呼べるものなのか。
吸入器を口に押し当て、苦い薬剤を肺に流し込む。
震える左手を握ると、そこには三部で培った「熱」が、確かに芯となって残っていた。
だが、その熱さえも——二部の冷徹な鋼鉄の前では、吹きさらしの中のロウソクの火にしか見えなかった。
ウォッチが、二部への登録期限を非情に刻み続ける。
【Remaining Time:48:12:05】
ショウタは、暗い路地の先を見据えた。
野良犬は——鋼鉄の牙を持つ猛獣たちが待つ檻の中へ、踏み込む覚悟を決めなければならない。
たとえその先で、自分という名の「人間」を、部品として売り払うことになったとしても。




