第68話:野良犬の牙
四月も後半に入り、ミドルシティ公立高校の淀んだ空気は、湿った初夏の不快な気配を孕み始めていた。
ショウタとリカが二人きりで、埃っぽい体育館での練習を始めて一週間。部員獲得の進捗は、芳しくなかった。ワールドカップの英雄が立ち上げた部活とはいえ、下層の少年たちにとって、ドッヂボールは「アッパーシティの優雅な娯楽」か「軍事的な非情な訓練」の、極端な二極化が進んでいた。純粋な「スポーツ」としての熱を抱く者は、この街には少なかった。
「……あいつ、今日もあそこにいますね。壁を殺しそうな顔で」
放課後、リカが指差した先。旧校舎の裏、亀裂の入ったコンクリート壁の影に、一人の巨躯が座り込んでいた。
虹龍会の丸山。二年生。
入学早々に、因縁をつけてきた上級生五人を素手で病院送りにし、教師たちからも「関わるな」と匙を投げられた、この学校で最も有名な「狂犬」だった。彼は一人、壁に向かってテニスボールを、執拗に叩きつけていた。
バキィッ。バキィィッ。
それはキャッチボールなどではない。社会の不条理そのものを壁ごと破壊しようとするかのような、呪詛の籠もった一投。その異常な肩の強さ、そしてリリースの瞬間に指先が奏でる鋭いしなりを、ショウタの左腕が、同族のそれとして敏感に察知した。
「……凄いボールだ。あれをドッヂボールに替えたら、アリーナの装甲も保たない」
ショウタは、震えるハチを抱きしめた時のように、無意識に左手を強く握りしめた。彼は迷わず、殺気を放つ丸山の方へと歩き出した。リカが、呆れ顔を隠さずに後を追う。
「おい、丸山さん。……ドッヂボール、興味ないか?」
丸山の動きが、止まった。ゆっくりと、脂ぎった顔を上げた。刈り込んだ短髪、右眉の上に残る凄惨な古い傷跡。その瞳には、下層の泥水を煮詰めたような、暗く淀んだ光が宿っていた。
「……あぁ? ワールドカップのお坊ちゃんが、何の用だ。ここはサイン会の会場じゃねえぞ。消えな、オイルの臭いがうつる」
丸山が立ち上がった。身長百八十五センチを超える、壁のような威圧感。だが、ショウタは一歩も引かなかった。ドバイでHP 4000の、神に近い怪物たちと対峙してきた彼にとって、一人の人間の怒気など、春のそよ風に等しかった。
「お前のボール、アタッカーとしての筋が良すぎる。その肩、うちの部で、世界を獲るために貸してほしい」
「ふざけんな。ドッヂボールなんて、ルールに縛られた上級国民のお遊戯だろ」
丸山は足元のテニスボールを拾い上げると、至近距離からショウタの顔面をめがけて、全力で投げつけた。
シュンッ。
空気を切り裂く剛速球。だが、ショウタは動かなかった。ボールが鼻先に触れる寸前、ショウタの左手が閃光のように走り、それを無造作に掴み取った。掌を突き抜ける衝撃。だが「呼吸の時計」が、丸山の筋肉の予備動作から、その軌道を完全に読み切っていた。
「お遊戯じゃない。これは、僕たちが僕たちの存在を証明するための、唯一の『戦い』だ」
「丸山さん。……中学の時、野球部を追放されたって本当? 審判の胸ぐらを掴んで、マウンドで大暴れしたって」
後ろに控えていたリカが、静かに、だが急所を突く一言を投げた。丸山の表情が、目に見えて強張る。
「清盛監督が言ってたよ。『あいつは、審判の不正が許せなかっただけだ。誰よりも真っ直ぐに、勝負という神聖な場所を愛していたんだ』って」
リカの鋭利な観察眼が、丸山の強面の奥に隠された、剥き出しの純粋さを射抜いていた。彼は、システムの不条理を、嘘を、許せなかった。そして、その反抗の報いとして、スポーツという表舞台から、ゴミのように叩き出されたのだ。
「……っ、あのオッサン、余計なことを」
丸山は顔を背けた。だが、テニスボールを握っていた右の拳は、激しく震えていた。
「丸山、俺たちのチームは、まだ二人しかいない。でも、ここには嘘くさいルールも、買収された審判もいない。あるのは、一発のボールで世界をひっくり返す、不条理なまでの自由だけだ」
ショウタは、ドバイの戦場を潜り抜けた、あの重厚な黒ボールを丸山へと放った。受け取った丸山の右手が、その異常な質量に沈み込む。
「明日、体育館で待ってる。壁より、僕の胸を狙いに来いよ」
翌日の放課後。老朽化した体育館の、歪な悲鳴を上げる扉が、重く開いた。
そこには、サイズの合わない運動着を無理やり着た、最高に不機嫌そうな丸山の姿があった。
「……勘違いすんなよ。暇すぎて死にそうだったから、壁を壊しに来ただけだ」
ショウタ、リカ、そして三人目の仲間、丸山。
バラバラな欠落を抱えた不完全な三つの影が、西日に照らされた体育館の床に、長く、深く伸びた。
ウォッチが震えた。ジョスからのメッセージだった。
【三人目の仲間、おめでとう。丸山さん? 荒っぽい男の子かしら。彼に『よろしく』と伝えて。あなたの盾になる男ね、きっと】
「ヒュー、ヒュー」
ショウタの肺が鳴った。だが、そのリズムは、これまでで一番、力強く、そして狂ったように弾んでいた。
「よし。……練習、始めようか」
十六歳の春。
野良犬たちの咆哮が、下層の静寂を再び切り裂こうとしていた。




