表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
からくりドッヂボール  作者: 水前寺鯉太郎
高校生編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

67/80

第67話:留学

 土曜日の午後。ミドルシティ下層の、常に鉄の匂いを孕んだ湿った風は、今日は不思議と不快ではなかった。

 ショウタは、母が新調してくれた紺色のシャツの襟を何度も整え、錆びた路地の角を、心臓の鼓動を抑えるように見つめていた。ハチは母に預け、今日は「世界のエース」ではなく、一人の「男」としてここに立っている。

 約束の時刻を三分過ぎた頃。視界の端に、下層の煤けた灰色の景色とはおよそ不釣り合いな、目に灼きつくような「白」が飛び込んできた。

 薄手のワンピースに、汚れ一つない白のスニーカー。長い金髪を緩く結んだジョスリーヌ・ローランは、コートの上で見せるあの鋭利な死神のような美しさとは違う、柔らかな月光のような光を纏って現れた。

「Shota」

「ジョスリーヌさん……、あ、……ジョス」

 言い直した瞬間、頬が発火したように熱くなる。家族や、ごく親しい友人だけが呼ぶことを許されるその愛称。

 彼女は満足そうに、わずかに唇の端を上げて微笑むと、当然の権利であるかのように、ショウタの右手を力強く、かつ優しく握りしめた。

 

 指と指が絡み合い、掌の熱が境界を失って溶け合う、確かな「魂の接続リンク」。

 ジョスの手は、最高のアタッカーとしてのしなやかな強靭さと、二十歳の女性としての驚くほどの柔らかさを同時に宿していた。

 「ヒュー……」と、肺が小さく鳴る。だがそれは、孤独を嘆く発作ではない。高鳴りすぎる鼓動を、現実の肉体に繋ぎ止めるためのリズムだった。

 いつもの、油の染みた食堂。労働者たちの啜る音と怒鳴り声に混じって、二人は再び、湯気の上がるラーメンに向き合っていた。

 

「箸は、まだ不合理なほど難しいわね。……でも、あなたから教わりたいの。この国のことを、あなたの見てきた景色を、全部」

 

 麺を滑らせ、屈託なく笑うジョス。その姿を見ながら、ショウタはウォッチに保存したハチの写真を見せた。母のベッドの上で、不細工に丸まる黒パグ。

「家族の中に、守るべき新しい命があると、流れる空気が変わるわ。……良い選択をしたわね、Shota」

 

 ジョスはスープを一口飲み、ふと睫毛を伏せた。その表情に、アスリートとしての冷徹な、そして一人の人間としての凄絶な「覚悟」の色が混じる。

「Shota、あなたに伝えたいことがあるの。……私、来年の四月から、日本に留学することに決めたわ。もう、手続きは始めている」

 ショウタの思考が、一瞬だけホワイトアウトした。

 東京の語学学校で一年、その後、大学で四年。計五年間に及ぶ、事実上の移住。

 フランス代表の活動は継続しつつも、生活の拠点を、この極東の、そしてこの下層に近い場所へ移すという。

「……ジョス、本当にいいんですか? フランスでの地位も、華やかな生活も全部捨てて……」

「捨てたんじゃないわ。私は、私の意志で『選んだ』の。……母が亡くなり、父が私をシステムの一部として置き去りにした後、私はずっと『フランス代表の最高傑作』という、透明な檻の中にいた。二十歳になった今、私は自分の居場所を、自分で選び取りたいのよ」

 彼女の瞳は、ショウタへの好意以上に、一人の独立した人間としての「自立」を求めていた。

 

「あなたがいるから、日本という選択肢に光が差した。それは事実。でも、これは誰のためでもない、私の人生の賭けよ。……その責任の重さ、私と一緒に、引き受けてくれる?」

 ショウタは、深く、深く、肺が破れんばかりに酸素を吸い込んだ。

 十六歳の少年が、世界的なスターの人生の決断に関与する。それは、ドバイの決勝戦で父の全力投球を捕球するよりも、遥かに恐ろしく、そして誇らしいことだった。

 

「……引き受けます。ジョスが日本に来るなら、俺も、全力で……あなたの隣に立てる男になります」

 彼女は、春の朝陽のように微笑んだ。その笑顔は、ドバイの優勝カップの輝きよりも深く、ショウタの心臓に刻み込まれた。

 食堂を出た二人は、夕焼けという名の血の色に染まる下層の路地を、手を繋いだまま歩いた。

 リニア(マグレブ)を使えば、東京からミドルシティまではわずか20分。

 かつては海の向こう側、雲の上の存在だった彼女が、もうすぐ「日常」の風景になる。

「コートの上のあなただけじゃなく、このオイルの匂いのする街で生きる、あなたの全部を知りたいの。……ハチも、お母様も。そして、あなたが創ろうとしている、その新しい部活もね」

「……俺も。ジョスの、本当の姿を、もっと知りたいです」

 路地の角。別れの時が来た。

 錆びた街灯が橙色に灯り、ジョスがショウタの正面に立ち、その長い髪がふわりと舞った。

 

 甘い、ミドルシティには存在しない香水の香りが鼻腔をくすぐる。

 次の瞬間、羽毛のような柔らかい感触が、ショウタの左頬をかすめた。

「À bientôt(また、すぐにね)、Shota」

 彼女の白い頬も、夕焼けのせいか、微かに赤く染まっていた。

 彼女が角を曲がり、その気高い白が夜の闇に消えるまで、ショウタは石像のように立ち尽くしていた。

 

 頬に残る熱。右手に残る、指の感触。

 それらは、左手に宿る痺れるような「過去の宿命」とは真逆の、自らの手で掴み取った「未来への希望」そのものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ