第67話:留学
土曜日の午後。ミドルシティ下層の、常に鉄の匂いを孕んだ湿った風は、今日は不思議と不快ではなかった。
ショウタは、母が新調してくれた紺色のシャツの襟を何度も整え、錆びた路地の角を、心臓の鼓動を抑えるように見つめていた。ハチは母に預け、今日は「世界のエース」ではなく、一人の「男」としてここに立っている。
約束の時刻を三分過ぎた頃。視界の端に、下層の煤けた灰色の景色とはおよそ不釣り合いな、目に灼きつくような「白」が飛び込んできた。
薄手のワンピースに、汚れ一つない白のスニーカー。長い金髪を緩く結んだジョスリーヌ・ローランは、コートの上で見せるあの鋭利な死神のような美しさとは違う、柔らかな月光のような光を纏って現れた。
「Shota」
「ジョスリーヌさん……、あ、……ジョス」
言い直した瞬間、頬が発火したように熱くなる。家族や、ごく親しい友人だけが呼ぶことを許されるその愛称。
彼女は満足そうに、わずかに唇の端を上げて微笑むと、当然の権利であるかのように、ショウタの右手を力強く、かつ優しく握りしめた。
指と指が絡み合い、掌の熱が境界を失って溶け合う、確かな「魂の接続」。
ジョスの手は、最高のアタッカーとしてのしなやかな強靭さと、二十歳の女性としての驚くほどの柔らかさを同時に宿していた。
「ヒュー……」と、肺が小さく鳴る。だがそれは、孤独を嘆く発作ではない。高鳴りすぎる鼓動を、現実の肉体に繋ぎ止めるためのリズムだった。
いつもの、油の染みた食堂。労働者たちの啜る音と怒鳴り声に混じって、二人は再び、湯気の上がるラーメンに向き合っていた。
「箸は、まだ不合理なほど難しいわね。……でも、あなたから教わりたいの。この国のことを、あなたの見てきた景色を、全部」
麺を滑らせ、屈託なく笑うジョス。その姿を見ながら、ショウタはウォッチに保存したハチの写真を見せた。母のベッドの上で、不細工に丸まる黒パグ。
「家族の中に、守るべき新しい命があると、流れる空気が変わるわ。……良い選択をしたわね、Shota」
ジョスはスープを一口飲み、ふと睫毛を伏せた。その表情に、アスリートとしての冷徹な、そして一人の人間としての凄絶な「覚悟」の色が混じる。
「Shota、あなたに伝えたいことがあるの。……私、来年の四月から、日本に留学することに決めたわ。もう、手続きは始めている」
ショウタの思考が、一瞬だけホワイトアウトした。
東京の語学学校で一年、その後、大学で四年。計五年間に及ぶ、事実上の移住。
フランス代表の活動は継続しつつも、生活の拠点を、この極東の、そしてこの下層に近い場所へ移すという。
「……ジョス、本当にいいんですか? フランスでの地位も、華やかな生活も全部捨てて……」
「捨てたんじゃないわ。私は、私の意志で『選んだ』の。……母が亡くなり、父が私をシステムの一部として置き去りにした後、私はずっと『フランス代表の最高傑作』という、透明な檻の中にいた。二十歳になった今、私は自分の居場所を、自分で選び取りたいのよ」
彼女の瞳は、ショウタへの好意以上に、一人の独立した人間としての「自立」を求めていた。
「あなたがいるから、日本という選択肢に光が差した。それは事実。でも、これは誰のためでもない、私の人生の賭けよ。……その責任の重さ、私と一緒に、引き受けてくれる?」
ショウタは、深く、深く、肺が破れんばかりに酸素を吸い込んだ。
十六歳の少年が、世界的なスターの人生の決断に関与する。それは、ドバイの決勝戦で父の全力投球を捕球するよりも、遥かに恐ろしく、そして誇らしいことだった。
「……引き受けます。ジョスが日本に来るなら、俺も、全力で……あなたの隣に立てる男になります」
彼女は、春の朝陽のように微笑んだ。その笑顔は、ドバイの優勝カップの輝きよりも深く、ショウタの心臓に刻み込まれた。
食堂を出た二人は、夕焼けという名の血の色に染まる下層の路地を、手を繋いだまま歩いた。
リニア(マグレブ)を使えば、東京からミドルシティまではわずか20分。
かつては海の向こう側、雲の上の存在だった彼女が、もうすぐ「日常」の風景になる。
「コートの上のあなただけじゃなく、このオイルの匂いのする街で生きる、あなたの全部を知りたいの。……ハチも、お母様も。そして、あなたが創ろうとしている、その新しい部活もね」
「……俺も。ジョスの、本当の姿を、もっと知りたいです」
路地の角。別れの時が来た。
錆びた街灯が橙色に灯り、ジョスがショウタの正面に立ち、その長い髪がふわりと舞った。
甘い、ミドルシティには存在しない香水の香りが鼻腔をくすぐる。
次の瞬間、羽毛のような柔らかい感触が、ショウタの左頬をかすめた。
「À bientôt(また、すぐにね)、Shota」
彼女の白い頬も、夕焼けのせいか、微かに赤く染まっていた。
彼女が角を曲がり、その気高い白が夜の闇に消えるまで、ショウタは石像のように立ち尽くしていた。
頬に残る熱。右手に残る、指の感触。
それらは、左手に宿る痺れるような「過去の宿命」とは真逆の、自らの手で掴み取った「未来への希望」そのものだった。




