第63話:新しい春
西暦3101年、4月。
ドバイの熱砂を不規則な軌道で切り裂いたあの左腕は今、少しサイズの大きい、糊のききすぎた紺色のブレザーに窮屈そうに包まれていた。
「……あいつだろ? ロシアの怪物を沈めたっていう、あの下層の……」
「マジかよ。なんでこんな、予算も希望もない掃き溜めみたいな高校に来たんだ?」
校門をくぐった瞬間から、耳を刺すような無責任なヒソヒソ声が降り注ぐ。だが、ショウタは「肺の時計(喘息のリズム)」を静かに刻み、それらを春の埃と同じように無関心に受け流した。上層から見せしめのように移植された人工の桜が、下層の濁った、オイルの匂いのする空気に、場違いな花びらを散らしている。
「ショウタ。……ネクタイが曲がってる。忘れ物はないわね?」
事務員の制服に身を包んだサクラが、戦場の衛生兵のような鋭い手つきでショウタの襟元を正す。彼女の指先が、ブレザーの下に隠された左腕のサポーターに一瞬だけ触れた。
「大丈夫です、サクラさん。……行ってきます」
ショウタは一度も振り返らず、剥げかけたペンキが、かつての敗北の歴史を物語る古い校舎へと足を踏み入れた。
「……ドッヂボール部、か」
入学式の空疎な喧騒を避け、辿り着いた体育館。
床はささくれ立ち、高窓のガラスは一部が粘着テープで無様に補強されている。だが、そこにはドバイのアリーナのような嘘臭い熱狂はなく、古いワックスと、数十年分の悔恨が混ざった匂いだけが深く沈殿していた。
「君が、遠藤ショウタ君だね」
顧問の佐倉教諭は、数学教師らしい無機質な眼鏡を指で静かに押し上げた。そのレンズの奥には、情熱の欠片もない、ただ確率だけを見つめる冷徹な瞳があった。
「世界を獲った君が、なぜ部員ゼロ、それも公式戦に出場すら叶わない四人も足りないこの廃部寸前の部に?」
「僕は、僕の場所を、ここで一から作りたいんです。……『ドバイの英雄』じゃない。不完全な、一人の高校生として」
ショウタは、ブレザーの袖の中で左手を強く握り締めた。心地よい痺れがある。その微かな痛みこそが、新しい、誰も予測できない物語の始まりを告げるホイッスルだった。
その夜。慣れ親しんだストリートドッグスの地下練習場には、新しい「牙」を研ぐ若者たちが集まっていた。
「アタッカーの重心は、もっと低くだ。……いいか、予測モデルの裏をかけ。規則性を見せた瞬間に、お前はただの部品になる」
清盛が、若手に戦術を叩き込んでいる。その背中は、ドバイで見せた覇気に満ちたそれよりも、どこか静かで、重厚な「教導者」の空気を纏っていた。
「……ショウタ。俺は今日で、現場の主将を引退する。明日からは『監督』と呼べ」
パイプ椅子に座った清盛の、オイルの染み付いた分厚い手が、ショウタの肩に置かれた。それは、ドバイの優勝カップよりも遥かに重いバトンを託された感覚だった。
「お前が俺の背中を追う、甘えた時間は終わった。……今日からは、お前がその腕で、不揃いな新しい仲間を導く番だ。……地獄を見せる覚悟はできているか?」
夜のミドルシティ。オレンジ色の不夜城の灯りに照らされた、錆びた路地を歩きながら、ショウタはウォッチに届いた一通の暗号化メッセージを開いた。
【ジョスリーヌ・ローラン(FRANCE):明日、ミドルシティ第4区の空港に着くわ。……案内してくれるかしら? あなたに勝つための『新しいノイズ』を持っていくから】
春の夜風は、かつてないほど自由に、ショウタの焼ける肺を駆け抜けていった。
「……よし。やるか、野良犬の続きを」
新しい春。
左利きの少年の、誰も見たことのない、そして誰にも演算できない不規則な軌道の「第2章」が、今、静かに幕を開けた。




