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からくりドッヂボール  作者: 水前寺鯉太郎
ワールドカップ編

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第62話:左利きの少年(2)

 ミドルシティの夜は、相変わらず排気熱と誰かの怒鳴り声に満ちていた。

 だが、安アパートの一室、温かなスープの香りが漂うこの空間だけは、世界から切り離された静かな聖域だった。

「……母さん。お父さんが、あの日出ていった理由、何か知ってる?」

 しょうたの問いに、母・千代子はしばらくの間、手元のマグカップを見つめていた。湯気がその白い頬をかすめていく。

「分からないの。本当に、何一つ。……でもね」

 母は遠い記憶を、霧の中から手繰り寄せるように話し始めた。

「あの日の一ヶ月前くらいかしら。真っ黒なスーツを着た、機械化のセールスマンが家に来たことがあったわ。お父さんの左腕の才能を見込んで、アッパーシティでの『再雇用』を勧めていた。でも、お父さんは笑って断ったのよ。『俺は、生身の腕でこいつを抱っこして、家族と暮らすんだ』ってね」

 しょうたは息を呑んだ。

 父の中にも、今の自分と同じ「生身への執着」があったのだ。

「でも……お父さんは、それからよく夜にベランダに出て、ずっと上層アッパーの光を見ていたわ。あやす声も、おやすみのキスも、いつも通りだったけれど……。あの夜の瞳には、私たちが知らない、深い闇が映っていたのかもしれない」

 なぜ、父は機械化の道を選んだのか。なぜロシアへ渡り、感情を消す「兵器」となったのか。その空白の十年間に何があったのか。

 問いはまだ、暗い海のようにそこにある。母も、そしてきっと父自身も、明確な答えなど持っていないのかもしれない。

「でも、ね、しょうた」

 母が、しょうたの震える左手を、優しく包み込んだ。

「理由はどうあれ、あの日々にお父さんがあなたに向けた愛は、本物だった。それは、どんな高性能なハードディスクにも記録できない、私たちだけの真実なのよ」

 しょうたは、深く頷いた。

 父の「大きくなったな」という言葉。頬を伝ったあの温かな「廃液」。

 たとえシステムに感情を消去されても、血の中に刻まれた「家族」という名のバグだけは、鋼鉄の支配をすり抜けて漏れ出した。

 答えは出ない。けれど、繋がりは、ここにある。


 翌朝。

 しょうたは、ミドルシティの片隅にある、いつもの路地に立っていた。

 

 配送のアルバイトに向かう前の、わずかな自由時間。

 錆びたフェンス、積み上げられた廃棄物、そして、何度も硬貨をぶつけ続けてきた傷だらけのコンクリート壁。

 空は、下層特有の濁ったオレンジ色に染まっている。上層からの廃熱が混ざったその空気は、お世辞にも綺麗とは言えない。

 だが、この空気が、しょうたの肺を動かし続けてきた。

「……ヒュー、……ヒュー」

 喉の奥で、聞き慣れた喘鳴が響く。

 かつては「呪い」だと思っていたこの壊れた時計の音。

 だが、ドバイのコートで、ロシアの怪物と対峙したあの日から、この音はしょうたにとっての「生の意味」へと変わっていた。不完全だからこそ、自分は、自分だけの軌道を投げられる。

 手の中には、ドバイから持ち帰った黒ボールがあった。

 決勝戦の決着を刻んだ、世界で一つだけの感触。

 しょうたは、左足をゆっくりと引いた。

 父から受け継いだあの「癖」――左肩をわずかに沈ませる予備動作。

 

 (――見てるか、親父)

 

 それは模倣ではない。

 父の技術を飲み込み、母の愛を纏い、野良犬ストリートドッグスの仲間たちと築き上げた、遠藤しょうたという人間の「現在いま」を乗せた一投。

 シュンッ――!!

 放たれたボールは、オレンジ色の空を切り裂き、不規則な弧を描いた。

 シュート回転しながら、一度だけ空中で停止するように揺らぎ、そこから未知のベクトルへと再加速する。

 

 ドォォンッ!

 壁に当たった衝撃音が、静かな路地に反響した。あの頼りない硬貨の音とは違う。世界を震わせた、重く、力強い「存在の証明」。しょうたは、ゆっくりと息を吐き出した。左手の痺れが、心地よく脈打っている。答えは、もういらなかった。

 この左腕がある限り。この不完全な呼吸を刻み続けていく限り。

  彼はどこまでも高く、誰にも予測できない軌道を描き続けていけるのだから。

 オレンジ色の朝焼けの中。

 一人の「左利きの少年」が、新しい台車を引いて、静かに歩き出した。

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