第61話:左利きの少年(1)
ドバイの熱狂とオイルの匂いから、一週間。
ミドルシティの、いつもの「定位置」に戻ってきた夜。ショウタは錆びた外階段の、自分の足音さえも知っているような軋みを聞きながら、自宅の重いドアをゆっくりと開けた。
「……ただいま、母さん」
部屋を支配していたのは、もはや逃げ場のない「死」の気配ではなかった。そこには、ショウタが持ち帰った優勝賞金と、新しい分子標的薬がもたらした、静かで、だが確かな「生の予感」が微かな灯りのように灯っていた。
母が枕元から差し出したのは、液晶に幾筋もの深い亀裂が走った、十年前の旧型タブレット。
「……見てたの? 全部。アッパーシティの検閲で、見られないと思ってたのに」
画面に並ぶ動画の履歴。ミドルシティの廃棄スタジアムでの泥臭い予選から、ドバイの眩い極限の決勝戦まで。そこには、少年が「野良犬」として、世界という巨大なシステムをバグらせながら駆け抜けた全ての軌跡が、歪な低画質で、愛おしそうに記録されていた。
「サクラちゃんがね、毎日教えてくれたのよ。……あなたが、どんな場所で、誰のために戦っているのかって」
母の言葉に、ショウタの胸の奥が、焼けるように熱く、そして痛くなった。
自分が一人きりで背負い、母から隠し通していると思っていた「絶望」という名の重荷。それは、不器用な仲間たちの手によって、とっくに母の元へと届けられ、分かち合われていたのだ。神崎レンのサーバーを経由し、検閲を潜り抜けて届いたその光は、ショウタの知らないところで母を支える酸素になっていた。
「あなたの、その左腕のフォーム。……お父さんと、全く同じ癖ね」
母の痩せた指が、画面の中で「投球直前に、左肩をわずかに沈ませる癖」をなぞる。
父、エンドウ・ケンジ。彼はかつて、幼いショウタを膝に抱きながら、一枚のコインを壁に投げ、不規則に跳ね返る弾道を愛おしそうに見せていたという。
「左利きは、世界の見方が違うんだ。普通の人間には見えない『不規則』の中に、自分だけの正解を見つける。……それが、エンドウの血なんだよ」
かつて父が、鉄の体になる前に遺したというその言葉が、ショウタの痺れる左腕に、新たな意味という名の筋肉を刻み込んでいく。
「……大きくなったな、って。……親父、最後にそれだけ言ってたよ。……あの日、台車を押した重さを、覚えてたんだ」
母は、溢れそうになる涙を堪えるように、静かに、だが誇らしげに微笑んだ。
その、病に蝕まれながらも揺るがない瞳の強さは、ドバイで出会ったどの軍事規格の鋼鉄よりも、気高く、そして美しかった。
ショウタは、母の手を握りながら、窓の外を見つめた。
ミドルシティの錆びた路地裏で、プラスチックのボールを追いかける子供たちの声が聞こえる。
不完全な左腕。病んだ肺。
だが、そのすべてを持って、ショウタは今、この世界を自分自身のものとして、確かに見つめていた。




