第60話:スエに名前を(2)
ミドルシティの廃倉庫。
ドバイの豪華絢爛なスタジアムとは対極にある、錆びた鉄と冷たいコンクリート、そして古いオイルの匂い。だが、ここに集う八人の「野良犬」たちの間には、かつてなかったほど透明で、誇り高い空気が流れていた。
ショウタは、スエの静かな横顔を、盗み見るように見つめていた。ドバイの屋上の、あの刺すような朝日の中で、彼女が絞り出すように語った言葉が、今も脳裏に不規則なリズムでこだましている。
「……私は、自分の名前を何度も、何度も自分で発音してきた。……誰も、呼んでくれないからだ」
その永い孤独を、彼女は今、自らの意志で世界という巨大なシステムへの「宣戦布告」へと変えようとしている。
ショウタは、自分の左手を強く握りしめた。父・エンドウ・ケンジとの血の繋がりを認め、その呪いごと「自分の腕」として確立した、あのマウンドの誇り。それに対し、スエは血の繋がりすら持たず、虚無の中から自分という存在を、爪を立てて刻もうとしている。
「……スエさん」
ショウタの、微かに喘鳴の混じった声に、彼女がゆっくりと、機械のように精密に顔を上げた。
「僕、応援します。連盟の議論でも、社会の反発でも……僕ができることは何でもします。スエさんの名前が、世界中で『正しく』呼ばれるために」
スエは、数秒間、瞬きさえ忘れたようにショウタを見つめていた。
それから、感情をパージしたはずの旧式義腕の関節を、ギチリ、と小さく震わせ、唇をわずかに、綻ぶように動かした。
「……ありがとう、ショウタ」
それは、彼女が「製品」としてこの世に生み出されてから、初めて自発的に誰かに贈った、設計図には存在しない、生身の感謝だった。
体育館を支配していた重厚な静寂が、その五文字によって、命の通った温かな色に塗り替えられた瞬間だった。
その夜。体育館の、長年使い込まれて油の染みた木製デスクを囲み、彼らは「世界」への公開書簡を認めた。
工藤が論理的な骨組みを構築し、神崎が「特権階級」としての鋭利な言葉を研ぎ、オオシロが規則の盲点を突く古文書のような引用を添える。タイシは「難しいことはさっぱりだが、こいつが俺たちの最高の『仲間』だってことだけはデカデカと書いとけ!」と、ペンを折らんばかりの筆致で、不器用な感情を紙に注ぎ込んだ。
サクラ、トキ、清盛、そしてショウタ。
それぞれの人生を、ライフを懸けてドバイの砂漠を戦い抜いた指先が、次々と一通の紙に署名を重ねていく。
最後に、ペンがスエの冷たい義手に手渡された。
彼女は、ホログラムの書簡の末尾、全ての歴史の空白を埋めるように、迷いのない筆致で二文字だけを記した。
【スエ】
「……苗字は、本当に作らなくていいんですか? ガーディアンズとか、ストリートドッグスとか」
ショウタが尋ねると、スエは静かに、だが誇らしげに首を横に振った。
「ない。……そして、今後も必要ない。私は、この二文字で十分だ。スエ。……それが、この場所で、お前たちが私を呼んでくれた、唯一の『錨』だから」
彼女が選んだのは、高貴な家柄でも、国家の肩書きでもない。
ただ、この暗い吹き溜まりのような廃倉庫で、命を預け合った仲間たちから、不規則なビートとともに呼ばれ続けた「響き」そのものだった。
翌朝、ミドルシティに、いつもと変わらぬ灰色の日常が戻ってきた。
ショウタは、再び配送用の重い台車を引き、錆びたトタンが鳴る路地を駆け抜けていた。
優勝賞金によって母の治療環境は劇的に改善された。最先端の「完全換装医療」を勧めるエリート医師に対し、母は穏やかな、だが静かな熱を帯びた口調で、こう断った。
「いいんです。私は、不自由なままのこの身体で、この子が『お帰り』と帰ってくるのを待っていたいから」
母のその言葉に、ショウタはスエの姿を重ねた。
不便でも、壊れていても。自分自身のまま、この場所に在り続けること。
それがどれほど贅沢で、誇り高い「戦い」なのかを、今のショウタは、骨の髄まで知っている。
体育館に戻ると、新しいニュースのホログラムが、埃の中で青白く浮かんでいた。
ジュネーブで開催されるIDF特別委員会。そこに、スエという名の少女が、国旗も、識別番号も持たず、ただ「名前」だけを掲げて出席することが正式に決定したという。
「……行くんだな、スエさん。世界を、今度は言葉でバグらせに」
ショウタは、ボロボロになった練習球を左手に収めた。
痺れはある。痛みはある。肺のビートは、相変わらず「ヒュー……」と不機嫌な音を立てている。
だが、その不完全な肉体こそが、自分の物語を、血と汗で綴ってきた唯一の「感触」だ。
不完全な僕らが、鋼鉄の絶対支配を撃ち抜いた。
そして今、その不完全さは「個性」という名の牙となり、システムの壁を再び、内側から突き崩そうとしている。
ショウタは、深く、深く、ドバイのそれとは違う、オイルの匂いのする酸素を肺に流し込んだ。
空は青く、どこまでも、名もなき野良犬たちの未来へと続いていた。




