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からくりドッヂボール  作者: 水前寺鯉太郎
ワールドカップ編

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第59話:スエに、名前を(1)

 ドバイの熱砂と、万雷の拍手から一週間。

 日本代表――いや、誇り高き『ストリートドッグス(野良犬)』の面々は、ミドルシティの下層、あの薄暗くオイルの匂いが染み付いた廃倉庫に再び集まっていた。

 錆びた鉄扉が、かつてと同じ不快な音を立てて軋む。割れた窓から差し込む、埃の舞う斜光。コンクリートの床にこびり付いた古い油と汗の匂い。

 かつて、ショウタが「世界基準の絶望」を初めて叩きつけられたこの場所は、何一つ変わっていなかった。だが、その床を鳴らす八人の足取りは、もはや迷える野良犬のものではなく、世界の理不尽を牙で引き裂いてきた「王」の風格を纏っていた。

「……賞金の配分、完了したぞ。各自、端末を確認しろ」

 工藤クドウがホログラム端末を操作し、無機質な数字を空中に表示させた。

 優勝賞金、十億クレジット。運営費や裏工作の経費、手数料を差し引いた、選手一人あたりの分配額は五千万。下層市民が一生かけても拝むことのできない大金が、今、ショウタの古びたウォッチの中で静かに、かつ激しく明滅している。

(――これで、母さんの治療が、最高のレベルで続けられる。……もう、お金のために腕を壊すような『仕事』を探さなくていいんだ)

 

 ショウタは、自らの胸に手を当てた。肺の時計(喘息のリズム)は、不思議なほど静かだった。

 ふと視線を上げると、端末の隅に流れるニュース速報が、スタジアムの熱狂がまだ世界を揺らしていることを告げていた。

【速報:無国籍選手の法的地位、IDFが『歴史的転換』となる特別委員会を設置】

「皆、これを見てくれ。俺たちがバグらせた、世界の新しい設計図だ」

 工藤がホログラムを拡大し、体育館の中央へ投影した。そこには、国際ドッヂボール連盟(IDF)からの公式通知が、厳格なフォントで並んでいた。

「ドバイでのスエの戦いは、俺たちが想像していた以上に世界のシステムを焼き切った。……国旗を持たず、表彰台の端にただ一人の人間として立つ彼女の姿に、世界中の『システムから零れ落ちた者たち』が共鳴したんだ」

 工藤の指が、新設される**『個人選手登録枠インディビジュアル・ライセンス』**の草案をなぞる。それは国籍という近代国家の枠組みを介さず、網膜データや駆動装置のシリアル番号といった「個の物理的実体」のみで競技参加を認めるという、スポーツ史上類を見ない革命的な条文だった。

「……スカイファイターズの事務所が、少しばかり強引な『法的最適化』を仕掛けた結果だ」

 神崎レンが、鏡面仕上げの義腕から微かな排熱の白煙を出しながら、淡々と付け加えた。

「メタルコープの製品としてではなく、一人の独立した競技者としてコートに立つ権利。……それを認めない限り、今後の全放映権の更新は白紙にする、とね。……合理的だろう? 資本主義の力は、時に法律よりも強い」

 ショウタは、神崎を見た。かつて「世界では通用しない」とショウタを切り捨てたエリートが、今、その特権を盾にして、システムの内側から巨大な壁を穿っている。その変化が、何よりも誇らしかった。

「……けっ。どいつもこいつも、優勝した途端にインテリ気取りかよ。反吐が出るぜ」

 タイシが担いでいたバットを、無造作に床に放り出した。鈍い音が体育館に響く。

「で、スエ。お前はどうなんだ。……これで、国旗を背負わなくても『正式な人間』になれるらしいぜ」

 全員の視線が、体育館の影に集まった。

 スエは、いつものようにパイプ椅子に座り、義腕のジョイントをメンテナンスしていた。彼女の瞳には、連盟の通知も、五千万クレジットの残高も、特別な色を与えていないようだった。

「私は、国籍など欲しくはない」

 スエの、低く澄んだ声が体育館の空気を震わせた。

「私は、ここにいる。それだけで、私の存在は完結している。……国家という巨大な計算機の中に、私の居場所をわざわざ定義してもらう必要はない」

 彼女は手を止め、自分の義腕に刻まれた、あの廃倉庫でついた無数の修理痕を見つめた。

「だが……名前は、欲しい」

「……名前?」

 ショウタが問い返すと、スエはゆっくりと、影の中から顔を上げた。

「かつて私は、自分の名を、自分で発音するしかなかった。誰も呼ぶ者がいなかったからだ。……だが、この『ストリートドッグス』の中では、お前たちが私の名を呼んでくれた。……その瞬間に、私は部品スペアではなく、人間になったんだ」

 スエの義腕が、ギチリと小さく、嬉しそうに鳴った。

「IDFの新しい仕組みが、私の名を世界に刻む機会を作るというのなら……私は、それを歓迎する。……日本代表の識別番号ではなく、ただの『スエ』としてコートに立ちたい。その名が、世界中で呼ばれることが、私の唯一の生存証明になる」

 彼女の視線の先。

 ミドルシティの汚れた窓から、ドバイのそれと同じ、残酷なまでに青い空が見えた。

 

 名前だけ、あればいい。

 誰かに呼ばれ、誰かの記憶に刻まれる「震え」だけがあれば、鉄の体でも生きていける。

 

 ショウタは、左手を強く握り締めた。

 痺れの中に、確かな熱がある。

 国境も、血筋も、機械の壁も超えて。彼らは今、自分たちの「名前」で、この狂った世界に、再び牙を剥こうとしていた。

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