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からくりドッヂボール  作者: 水前寺鯉太郎
ワールドカップ編

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58/80

第58話:それでも父だった(3)

 十二万人の咆哮が、遠い記憶の底を流れる海の鳴動のように聞こえた。

 ドバイ・ナショナル・スタジアム。勝敗を分かつ、冷徹なはずの電子ホイッスルが鳴り止んだ後。コートに残された凄絶な熱気は、物理的な重みを伴って、ショウタの細い肩にのしかかっていた。

 ショウタは、一歩ずつ、父へ向かって歩いた。

 外野の白線からマウンドの中央まで。わずか十数メートルの距離が、十年という歳月の奈落のように長く、深く、そしてあまりに脆い。世界中継のホログラムカメラが、無国籍の「野良犬」と、帝国の「処刑人」を至近距離で捉え、その不条理な沈黙を世界中のディスプレイへと配信していた。

 遠藤健司エンドウ・ケンジ

 ライフ「0」となり、全ての駆動音を失ったはずのその巨躯は、まだ峻厳な石像のように立ち尽くしていた。顔の左半分を埋没させた漆黒のクロム合金。その冷たい金属の表面に、アリーナのサーチライトが残酷に反射し、機能を失った光学レンズの奥で電子ノイズが激しく火花を散らす。

 かつて母を愛し、配送の台車を自分に預けてくれた、温かな父の輪郭。それが今、兵器としての外装を内側から引き裂き、隠しきれない「人間」を、オイルとともに漏らし始めていた。

 二人の距離が、一メートルを切る。

 父の義体から、限界を超えた排熱の匂いと、焼け焦げたオゾンの臭いが立ち込める。

「……大きくなったな」

 その声を聞いた瞬間、ショウタの全身の細胞が、歓喜と恐怖で一斉に逆立った。

 地鳴りのように響く、低い振動。それは、合成音声がシミュレートした完璧な波形ではなく、何重にもかけられた感情制御プログラムの檻をぶち破り、肺のビートに乗って絞り出された「生身の声」だった。

 十年。

 たった五文字の言葉が、ショウタの中にあった「鋼鉄の怪物」を粉々に打ち砕き、一人の「不器用で、臆病な父親」を、そこに再構築させた。

 ショウタは、何かを言い返したかった。

「なぜ捨てた」「どこへ行っていた」「母さんに、何て謝るんだ」。

 だが、喉を塞いだのは、これまで彼を苦しめてきた「ヒュー……」という乾いた喘鳴ではなかった。それは、熱い、言葉にならない感情の塊だった。

 健司が、再び口を動かそうとする。

 だがその瞬間に、彼の左眼の赤い光が断続的に、警告を鳴らして明滅した。個としての意志をパージし、再び無機質な兵器へと引き戻そうとする「システム」の、最後にして最悪の足掻き。

 健司の右半分の、機械化されていない生身の頬を、一筋の透明な液体が伝い落ちた。

 軍事規格の義体に、涙腺など設計されていない。それは急激な感情のオーバーフローによって、冷却系から溢れ出した微かな「廃液」に過ぎなかった。だが、それはドライブの朝日を反射し、この世のどの宝石よりも美しい、不合理な「涙」としてショウタの瞳を灼いた。

「……父さん」

 ショウタが手を伸ばしかけた瞬間、灰色のスーツを纏ったロシア代表のスタッフたちが、遮光カーテンを引くように、二人の間に暴力的に割って入った。

 彼らは「機能不全を起こした高価な機材」を回収するように、健司を両側から無機質に支え、迅速に、死角へと連行していく。

 去り際。肩を貸され、二度と戻れぬ闇へ背中を向ける直前。

 健司は、首だけで、ショウタを振り返った。

 

 赤いレンズは既に死に絶え、その奥に潜む「人間の瞳」が、真っ直ぐに、ショウタという存在を射抜いていた。

 声は、もう聞こえなかった。だが、その唇が刻んだ動きを、ショウタの動体視力は、永遠の一部として見逃さなかった。

 (――すまない。……そして、ありがとう)

 それは、十年の空白に引かれた、あまりに短く、あまりに重い、再会の終止符だった。

 ショウタは、空っぽになったコートの中央で、独り立ち尽くしていた。

 アリーナに熱狂が戻ってくる。スタジアムが、世界中が、下馬評最弱の「ストリートドッグス」が成し遂げた神殺しの奇跡を、狂喜とともに祝福していた。

 だが、ショウタの胸を占めていたのは、勝利の甘美さではなかった。

 「大きくなったな」。

 たったそれだけの言葉が、彼の中に無限の問いと、確かな「生」の感触を残していった。

 

 システムは常に最速の答えを用意するが、人間が生きる意味には、最初から答えなどないのだ。

 ショウタは、自分の左手を見つめた。指先が、まだ微かに、心地よく痺れている。

 父から受け継ぎ、父に挑むために磨き、そして今、父を「人」へ引き戻すために振り抜いた、この左腕。

 それは間違いなく父の模倣コピーから始まり、今、この瞬間、誰の予測データにもない「自分だけの弾道」を描く翼へと昇華されていた。

「……ショウタ! ぼさっとしてんじゃねえぞ、主役!」

 振り向くと、そこには「群れ」がいた。

 タイシが、かつて捨てられなかった夢の象徴であるバットを肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべてこちらを見ている。神崎レンが、義腕から最後の一条の排熱を終え、初めて人間らしい、穏やかな笑みを湛えて立っている。サクラが、トキが、外野から駆け寄り、ショウタの肩を笑いながら叩く。

 ベンチでは、スエがいつものように義腕の関節を磨き、清盛が担架の上で力強く拳を突き上げていた。工藤も、オオシロも。

 彼らがいたから。不揃いで、欠陥だらけの「野良犬」たちは、この狂った世界で牙を研ぎ続けることができたのだ。

 

 ショウタは、深く、深く、砂漠の熱を含んだ酸素を肺の奥まで吸い込んだ。

 「ヒュー……」という、あの不快な喘鳴は、もう、どこにも聞こえなかった。

 

 ドバイの人工の空は、残酷なまでに青い。

 その空の下で、ショウタは初めて、自分の名前を、自分自身の誇りとして受け入れた。

 

 答えはまだ、風の中にある。だが、俺たちは、ここで生きている。

 

「……行こう。ミドルシティへ。俺たちの、場所に」

 

 ショウタは、仲間たちの温かな輪の中へと歩み出した。

 痺れる左腕を、自分だけの明日を掴むために、誇らしげに握りしめて。

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