第6話:スラムの礼儀
決戦前夜。
廃棄スタジアムから二ブロック離れた安宿〈クロム・スリープ〉の廊下は、排熱の余韻と、安物の合成麻薬が焦げるような不快な臭いに満ちていた。剥げ落ちた壁の染みは、ここで夢破れ、肉体さえも部品として売り払われた亡者たちの、無言の墓標だった。
ショウタは、タイシの部屋の前で足を止めた。
昨日、壁に押し付けられた時に見た、あの男の「瞳の震え」。あれは単なる恐怖ではない。かつての相棒と同じ「怪物」になりかけている自分への、絶望的な拒絶だ。それを放置したままコートに立てば、待っているのは敗北ではなく、一方的な「解体」だ。
——キィィィィィン……ッ。
ドア越しに聞こえてくるのは、耳を劈くような高周波の唸り。
扉を開けると、そこは酸素の焼ける匂いが充満していた。
狭い部屋の中、タイシが右腕に「重加速フィン」を装着し、狂ったようにシャドウスイングを繰り返している。フィンが空気を切り裂くたびに、衝撃波がボロい家具を震わせ、床の埃が渦を巻く。タイシの瞳は焦点が合わず、ただ、過負荷で赤く熱せられたフィンの駆動部が、闇の中で血のように明滅していた。
「タイシさん……」
「……失せろ」
タイシの動きは止まらない。フィンの駆動音が、彼の咆哮のように高まっていく。
「スラムの礼儀ってのはな——『他人の死に方』を覗かないことだ」
彼は、ショウタを直視しない。
「いいか、ガキ。明日は俺がガンツを引き付ける。お前は、その隙にボールを拾っていろ。……一度でも前に出たら、俺がお前の脚を折ってやる」
震える声。それは命令というよりも、自分自身に課した、あまりにも脆い呪文のように聞こえた。タイシは、恐怖を「責任」という名の重石で圧し殺そうとしている。ショウタは、その強張った背中に、この街で生きる者の孤独の極致を見た。
寝付けない夜、ショウタは屋上へと逃げ出した。
多層都市〈ミドルシティ〉の空は、今夜も濁ったオレンジ色の「蓋」に覆われている。上層区の贅沢が排出した廃熱が、重い湿気となって喉の奥に鉛の味を運び込む。
——先客がいた。
月光の下、スエが壁に寄りかかり、自身の銀色の義腕を完全に分解していた。
肘から先のシリンダー、繊細な擬似神経、ナノマシンの循環パイプ。それらが血を抜かれた死体のように整然と並べられ、無機質な機械油の匂いが夜気に立ち昇る。
「……心拍数の異常を検知。ショウタ、お前の『不安』というノイズが、私のセンサーを逆撫でしている」
「……スエさんは、怖くないの? 明日、死ぬかもしれないんだよ」
「恐怖は、生存に必要な安全装置だ。だが、今の私に、それを起動する権限はない。私はすでに、ラインから弾かれた廃棄予定の部品だ」
スエは、油に汚れたバルブを丁寧に磨きながら、表情一つ変えずに続けた。
「清盛は、名門の不祥事を隠すための捨て石。タイシは、泥沼に落ちた飼い犬。工藤は、組織が消去し損ねたバグ……。そして私は、規格外として切り捨てられたゴミ。……お前も、その肺の欠陥を抱えてここに来た」
彼女の指先が、シリンダーを所定の位置に戻す。カチリ、と硬質な音が鳴り、義腕に火が灯るように光が走った。
「ここは、世界に『不要』と判定された部品が、最後にもう一度だけ『機能』するための場所だ。壊れているからこそ、噛み合う歯車もある。……工藤の計算では、生存確率は零に近い。だが、その零を食い破るのが、このチームの唯一の生存戦略だ」
スエは組み直した義腕で月を握り潰すように、指を激しく駆動させた。その瞳には、感情の代わりに、青い駆動光が静かに、そして苛烈に宿っていた。
同じ時刻、スタジアム最上階のスイートルーム。
そこでは、下層民の一生分の稼ぎを一口とした、悪辣な賭けが繰り広げられていた。
「見てくれよ、この〈ストリートドッグス〉の不格好なデータを。ライフ合計五百? 冗談だろう。ガンツの最初の一投で、誰の頭蓋が粉砕されるか、そっちに一万賭けるよ」
「俺はあのガキの『肺』が、三分以内にパンクする方に。吐血する様をスローモーションで見たいからな」
富裕層たちが、ショウタたちの顔写真を指先で弄び、笑い声を上げている。彼らの指にはめられた純金の指輪は、一度として血の味を知らず、ただ他人の絶望を消費する。
——そして、夜が明けた。
〈D25廃棄スタジアム〉。
ゲートの前に立つ〈ストリートドッグス〉を、地鳴りのような罵声と、血の匂いが迎えた。崩れた観客席を埋める、飢えた数千の顔。彼らはスポーツではなく、合法的な「解体ショー」を見に来たのだ。
リストバンド型ウォッチが振動し、冷たい電子音が鳴り響く。
【Team Street Dogs:Total Life 500 / 500】
【MATCH START:vs MAD DOGS】
ゲートが、重い金属音を立てて開き始めた。
その向こう側——砂塵が舞う殺戮のコート。
不敵な笑みを浮かべたガンツが、血のように赤い熱気を漏らす義肢を、ゆっくりとこちらに向けた。
「……行くぞ、野良犬ども」
清盛の低い声が、チームの背中を押した。
タイシが重加速フィンを唸らせ、スエの義腕が最大出力をマークする。サクラは瞳から迷いを消し、工藤は端末の最終ロックを解除した。
ショウタは、一瞬だけオレンジ色の空を仰ぎ、それから前を見据えた。
胸の奥で、母の冷たい指の感触が、今、確かな熱へと変わる。
「……スラムの礼儀は、もう知ってる」
ショウタは、血の滲む左手で、マウンドに転がるボールを指差した。
「……死ぬまで、自分の足で立ち続けてやる」
絶望の嵐の中へ、野良犬たちは一歩を踏み出した。
その瞬間、世界から雑音が消え、ガンツの義肢が、嘲笑うように赤く、眩く、発光した。




