第5話:因縁の名前
試合まで、あと四十八時間。
体育館を支配しているのは、期待ではなく——焦燥による「歪み」だった。
「——っらあ!」
タイシの怒号とともに、重い金属音が響く。
普段なら柳のようにしなる彼の巨体が、今は錆びついた重機のクレーンのように硬い。彼が振り抜いたのは、投球時の遠心力を増幅させるための「強化カウル」だ。それが鉄柱を叩き、凄まじい火花と不快な金属音を撒き散らす。
「……タイシ。軸が三ミリ、右に流れている」
清盛の冷徹な指摘に、タイシは答えない。ただ、グリップを握る拳の血管が破裂しそうなほどに浮き上がり、額から滴る汗が、油のように黒く床を汚していた。
「〈ストリートドッグス〉——。俺たちがその名を冠したのは、あいつらへの『引導』のつもりだったんだがな」
工藤が端末を操作し、敵チーム〈マッドドッグス〉のデータを空間に展開した。
「キャプテン、ガンツ。三部リーグにおける『解体屋』の筆頭だ。あいつらにとってのドッヂは、相手を失格させる競技じゃない。生身の関節を、文字通り『塵』に変えるための——合法的な拷問だ」
画面には、前回の試合映像。ガンツの放ったボールは、捕球を試みた選手の肘を逆方向に貫通し、その背後の強化ガラスまで肉片とともに粉砕していた。
上層区の観客たちの歓声が、ノイズ混じりの音声から漏れ聞こえる。それは喝采ではなく、屠殺を愉しむ残酷な悦楽だ。
ショウタは胃の奥からせり上がる酸っぱいものを、必死に飲み下した。
「……あいつは、俺の鏡だったんだ」
タイシが、ようやく口を開いた。その声は、下層の泥水を啜ったような濁りを帯びていた。
「スラムの路地裏で、あいつと二人、ボール一つで通行人を狩って食い繋いでた。……だが、ガンツは壊れた。相手の関節が外れる音を聞くたびに、あいつ、女を抱いてる時よりいい顔で笑い始めたんだ」
タイシの肩が、微かに震える。
「俺は逃げた。あいつを、あの狂気の中に一人残してな……」
振り抜かれたカウルの先端が、コンクリートの床を、こつ、こつ、と自虐的に叩いた。
その日の夕暮れ。ショウタは一人、戦場となる〈D25廃棄スタジアム〉の影に立っていた。
偵察、という名目の逃避だ。母の延命費用、そして目の前の恐怖。それらから逃れるように彷徨っていた彼の前に、「それ」は現れた。
巨大な体躯。左腕には、不法投棄された軍用重機のパーツを継ぎ接ぎしたような、無骨な義肢。スエのそれよりも一回り大きく、関節の隙間から、血のように赤い冷却液が蒸気となって漏れ出している。
男が吐き出した安煙草の煙が、ショウタの顔にまとわりついた。
「……タイシの飼い犬か」
ガンツだった。
その瞳は、光を一切反射しない廃液の沼を湛えている。彼は傍らにあった強化樹脂のコンテナを拾い上げると、義肢の指先で、まるで熟した果実を潰すように、やすやすと握り潰した。
「伝えろ。明日のコートは、お前が捨てた『地獄』の続きだ。……今度は、逃げる足から先に、丁寧に折ってやるってな」
ガンツの嗤いは、錆びた鋸の歯のようにギザついていた。
体育館に戻り、ショウタがその言葉を伝えた瞬間——。
「余計なことを、しやがって!」
タイシがショウタの胸ぐらを掴み、壁に叩きつけた。
「……っ、タイシ、さん……っ」
肺が締まる。酸素が足りない。だが、目の前の大男の瞳に宿る「底知れない怯え」の方が、ショウタにはよほど恐ろしかった。
「いい加減にしてよ、二人とも」
サクラの声が、冷たく響いた。
彼女は手首のライフゲージを、二人の間に突き出した。残された緑の光は、もはや点滅しそうなほどに細い。
「あんたの過去なんて、知ったことじゃない。……私のライフは、もう『20』を切ってる。負ければ、私は明日の朝を迎えられない」
その瞳は、怒りではなく哀願だった。誰よりも先に死線の縁に立たされている女の、剥き出しの絶望。
「怖気づくなら、今すぐそのカウルを置いて、一人で逃げなさいよ」
沈黙。
タイシはゆっくりと手を離し、ショウタの横を通り過ぎた。
「……済まねえ」
その一言だけを残し、彼は暗いコートの端へ消えていく。
清盛が、足元に転がっていたボールを一つ、ショウタに投げ渡した。
「……恐怖は、最高の燃料だ。ガキ、明日はその肺が焼き切れるまで、あの狂犬どもを踊らせてやれ」
ショウタは血の混じった唾を吐き捨て、左手でボールを握り直した。
手のひらに、昨日の「シュート回転」の痺れが、熱い芯となって残っている。
その夜、体育館の四隅で、誰もが己の絶望と向き合っていた。
チームはバラバラ。戦力は圧倒的な格差。
だが、手首のライフゲージは——無慈悲に、決戦へのカウントダウンを刻み続けていた。




